【第八章】あなたと色づく世界(5)
次の日、私は朝から張り切ってお弁当を作った。
中身は、おにぎり、卵焼き、唐揚げ、ブロッコリーのサラダ、そしてタコさんウインナー! ――ちょっと子供っぽいラインナップになってしまったけど、これでいいよね?
そして釣り竿まで準備して、意気揚々とハチの家の玄関前に立つ。手に持ったお弁当と釣り竿を見て、今さら恥ずかしさが込み上げてくる。
――これって、なんだか本格的なデートみたいじゃない?
それに「魚釣りに誘う女子」ってどうなんだろう? ハチに引かれないかな……
不安が少しずつ膨らんでいくけど、もう後戻りはできない。深呼吸をして、玄関のチャイムを押した。
「ハチー!」
満面の笑みを作って、ハチを出迎える。
ドアが開き、ハチが顔を出す。軽装だけど、どことなく爽やかな雰囲気が漂う彼を見て、心臓がトクンと鳴る。
「おはよう、可琳」
「おはよう!」
ハチの中に、小さい頃の私たちの記憶はどれくらい残っているんだろう。それを確かめる意味も兼ねて、今日はあの頃よく遊んだ河原に行ってみることにした。
もちろん、近くにお店はない。だから、お腹が空いたら食べられるようにお弁当を作っただけ。それだけの意味なんだけど……。
「どこから行こうか……ねぇ、釣り竿持ってきちゃった。久しぶりに川で魚釣りとかしてみる?」
照れ隠しで、思い切り元気に提案してみる。
「いいね。川遊びとか、何年ぶりだろう」
ハチが柔らかく笑った。
「ね! たまには童心にかえって楽しもう」
とりあえず拒否されなくてよかった! 心の中で安堵の息をつく。
それにしても、川遊びなんて本当に久しぶりだ。
川のせせらぎ、風の匂い、陽射しにきらめく水面、そんな情景を思い浮かべるだけで、胸がわくわくしてくる。
昨日のハチは、顔を赤らめたり、少し緊張している様子があったけれど、今日のハチは落ち着いて見える。どこか自然体で、隣にいると心地よい。
見た目はお互い、すっかり大人になったけど、こうして話していると、あの頃の空気が流れているような気がする。懐かしくて、少しくすぐったい。
川へ続く道は、緑豊かで穏やかだった。蝉の鳴き声と、遠くから鳥のさえずりが聞こえる。途中からは、誰ともすれ違わない。まるで世界に二人きりみたい。
正確に言えば、それは本当にその通りなんだけど。
二人だけの静かな時間。
木漏れ日が、私たちの肩に揺れながら落ちてくる。それがとても優しくて心地よい。
「実はね、昨日、ハチに久しぶりに会うから少し緊張してたんだ」
私はハチを横目で見ながら微笑んだ。
「前みたいに話せるかな。ハチは大人になって、変わっちゃってるかなって。でも、全然変わってなくてよかった」
「つまり、成長してないってことだよね?」
ハチが、少し自虐的に笑う。こういうところも昔から変わってない。……って、人のことは言えないけど。
「もう! いい意味で言ったんだよー。元気そうでよかった」
ふと、ハチが歩みを少しだけ緩める。そして、私に向き直るようにして、ぽつりと言った。
「可琳はさ……」
「ん?」
「綺麗になったね」
一瞬、ドクンと心臓が大きく脈打つ。全身が熱くなると同時に、凍りつくような感覚も襲ってきた。
――本当の姿で会っても、ハチは私に同じ言葉をくれるのだろうか。
その考えが頭をよぎった瞬間、私は言葉を失ってしまった。顔がこわばっていたのだろう。ハチが少し慌てたように口を開く。
「あの……可琳さん?」
「……見た目だけなのかなーって思って」
「違うよ! 見た目はもちろん可愛いけどそれだけじゃない! 一緒にいると楽しいし! 可琳と話してると、昔みたいにホッとするんだ」
その必死な様子が、なんだか昔のハチらしくて、胸がきゅっとした。同時に、つくづく、どうして本当の自分で会わなかったんだろうと後悔する。あの頃も今も、自分に自信がないからなんだけど。
沈みかけた心を隠すように、私は頑張って笑顔を作った。
「ありがとう……ごめんね、変な言い方して」
これ以上ハチを困らせたくなくて、私は笑顔でハチに言う。
ハチを騙しているような罪悪感が、胸にじわじわと広がる。
この世界での私は、この姿を選んだ。それだけのことなのだから、気にしても仕方がない。そう自分に言い聞かせる。
それよりも、ハチとの時間を楽しもう。
久しぶりの川遊びは本当に楽しかった。
水しぶきが陽光を受けてキラキラと輝き、ひんやりとした水が足に触れる感触が心地よい。冷たさがじんわりと体に伝わり、懐かしい記憶が私の中で鮮明に甦ってくる。
ハチと一緒にはしゃいでいると、あの頃に時間が逆戻りしたみたいだ。大人になった私たちが、あの頃の無邪気さを取り戻したような気がする。ハチの笑顔も声も、まるで宝物みたいに私の胸に刻み込まれていく。
足元の水を蹴り上げるたびに、波紋が広がる。それを眺めながら、あの頃の気持ちを思い出した。
人は、当たり前にできたことができなくなって初めて、その大切さに気づく――。
現実の私は車椅子に座り、もう一度歩けるようになるなんて、夢のまた夢だと思っていた。でも、この世界は違う。
私は普通に立ち、歩き、風を感じ、土の感触を足で確かめることができた。
自由に歩いていたときにはわからなかったその素晴らしさに、胸が熱くなったことを覚えている。
――この世界はハチだけでなく、私のことも救ってくれたんだ。
ハチと一緒に、転げ回るようにはしゃいで、笑って、遊んだ日々を思い出す。あの頃、どれほどここが私にとって大切な場所だったのか、改めて気づかされる。
あの頃と変わらない景色がここにある。太陽が水面に反射して、眩しいくらいに輝いている。頬を撫でる風の優しさに、私はそっと目を閉じた。
ハチが私のことを覚えていてくれて、また出会うことができて。再びこの世界に来ることができて、本当によかった。
「ねえ、可琳」
ふいに呼ばれて、私はハチに振り向いた。
「ん? なあに?」
ハチは一瞬ためらったあと、小さく息を吸い込んでから言った。
「こうしてるとさ……なんていうか、この世界に僕たち二人しかいないみたいに感じない?」
その言葉に、思わず胸がざわめく。
世界に二人きり――なんて、どこかロマンティックな響きがある。
でも、違う。
ハチの言う通り、この世界に本当の人間は、ハチと私しかいない。
だからハチは、私に興味を持ってくれるのかもしれない。
胸がチクリと痛む。
ハチを独り占めしている罪悪感が、ほんの少し顔を覗かせた。
そうだとしても、あの時二人で遊んだ思い出は全て真実で、私にとって大切な宝物だ。
「……そうだね」
柔らかく微笑むと、ハチも優しく笑い返した。
今日、ハチと過ごすこの時間も、きっと私の大切な思い出になる。
あの頃を懐かしむように、新しい記憶を刻むように、私はハチとの時間を楽しんだ。
そしてふと、心の奥から温かな記憶が甦り、空を仰ぐ。
「ねぇハチ、この場所、覚えてる?」
そっと問いかけると、ハチは少し目を細め、視線を遠くへと向けた。
「ああ……」
「花火。この場所から二人で見たよね」
二人の記憶が共鳴し、一瞬、周りの喧騒が遠のいた。まるで、あの日の残り火がまだそこにあるかのように。
この町で毎年夏に行われる花火大会。
ここから二人で見た花火は本当に美しかった。瞳を閉じると、瞼の裏に色とりどりの大輪の花が咲いた。空一面の花火と、水面にゆらゆらと映る花火は幻想的で、当時の私は、その美しさに圧倒された。
「すごいね」って、隣りから聞こえてきたハチの声。
「綺麗だね」と応える私の声。
そんな二人の声をかき消すように、心臓にずんと響く花火の音、夜空に大きく咲く花が、次々と私たちの心を打つ。パラパラとあられが溢れるような小気味よい音が絶え間なく鳴り響く。
目を瞑ると甦る、あの夜の美しさ。もう一度ハチと一緒に見れたらいいな。
「また二人で見たいね。花火」
小さな声で呟いた私に、ハチは穏やかに微笑んだ。
「うん。また二人で見よう」
その言葉を聞いた瞬間、心の奥に、ぽっと灯りがともるような温かさが広がる。
これから毎年、ここでこうして二人で、花火が見れますように。
日差しが真上に昇り、遊び疲れて川辺に腰を下ろした頃、私は作ってきたお弁当をいそいそとハチに勧めてみる。
「ねぇハチ、お腹空かない?」
「ああ、そういえば空いてきたね。お昼どうしようか?」
まだ付き合っているわけでもないのに、手作りのお弁当なんて重いと思われないかな――そんな心配をしながらも、できるだけ軽いノリで。
「ふっふっふ、そうくるだろうと思って、作ってきましたよ!」
食べる準備をして蓋を開けた瞬間、ハチの目がぱっと輝くのが見えた。
「たいしたものは作れなかったけど……まあ、外で食べると何でも美味しく感じるはずだから大丈夫だと思う!」
「絶対美味しいから大丈夫!」
いただきます、とハチが一口食べた瞬間、思わず息を呑んだ。
「美味しい!」
その言葉が聞けて、ほっとすると同時に嬉しくなる。
特に料理がうまいわけでもないし、慣れないキッチンで四苦八苦しながら作ったお弁当。中身も、卵焼きにウィンナー、ちょっとだけ彩りを意識した何の変哲もないおかず。でもこうして自然に囲まれて食べると、どんな豪華な料理よりも美味しく感じる。隣りにハチがいるから、きっとそう感じるんだろうな。
ちらりと横目で、ハチの顔を盗み見る。
ふふ、めちゃくちゃ幸せそうに食べてくれてる。嬉しいな。
――この時間が、ずっと続けばいいのに。
ふと、そんな思いが胸をよぎる。でも、ハチは明日、東京に戻ってしまう。
ハチは……寂しくないのかな。私はこんなに寂しいのに。ハチは私のこと、どう思っているんだろう。
「ねえ可琳」
「何?」
いつもと変わらない調子で返事をしたけれど、ハチの声が少しだけ緊張していることに気づいた。
「昨日の窪じゃないけど……僕たち、本当に付き合ってみない?」
――え?
突然飛び出した「付き合ってみない?」に、嬉しい……というよりまず驚きが先に来て、口があんぐり開いたまま固まってしまった。
あまりに突然すぎて気持ちが追いつかない。っていうか、その前に大事な工程があるでしょ! もう! ムードも何もないんだから!
「……ねえ、何か順番、間違えてない?」
「え?」
「付き合おうって言う前に、言う事があるでしょ!」
「あ……」
ハチが耳まで真っ赤になる。
俯いたまま何かを考えているようで、沈黙が少しだけ続く。ハチの緊張がこちらにまで伝わってきて、ハチに聞こえちゃいそうなくらい、私の心臓が激しく鳴り出す。
「え、えっと……」
絞り出すようにハチが口を開いた。
「可琳のことがす……好きだ。これからもずっとこうして一緒にいたい。僕と付き合ってもらえませんか?」
その言葉を聞いた瞬間、胸がぎゅーって締め付けられて、体温が急上昇する。
もしかしたらハチは、私のこと好きだったりするのかな、なんて思ったことはあった。そうだったらいいなって思ってた。でも、それが確信に変わる瞬間って、こんなにも衝撃的で、嬉しくて、恥ずかしくて、言葉にできないくらい胸がいっぱいになるものなんだ……!
心臓がこれでもかってくらいドキドキして、顔が熱くてたまらない。全身に凄い勢いで血が駆け巡る感じ! んんんんー!
私もちゃんと、伝えなきゃ。
小さく息を吸ってから、顔を上げる。
「私も大好きだよ、ハチ。これからもよろしく」
ハチの顔がぱっと明るくなった。
二人で真っ赤な顔になって、同時に吹き出してしまった。
川辺に響く笑い声。足元の草がさらさらと揺れて、花の香りを運んでくる。
こうして私たちは、正式に付き合うことになった。




