【第八章】あなたと色づく世界(4)
ラーメンを食べ終わって外へ出ても、胸の鼓動はずっと高まったままで、頬の火照りも収まらなかった。
私の隣にハチがいる。
それがまだ信じられなくて、時々そっと、横顔を盗み見る。
これまで私は、恋らしい恋をしたことがなかった。
仲良くなった異性は何人かいた。でも、〈MAHORA〉の中では親しく話していても、リアルの私と会った途端に彼らの態度は変わった。
私の身体に障害があることを知った瞬間、彼らはどこか距離を置くようになり、自然と疎遠になっていった。
何度か同じ経験をするうちに、私は傷つくことが怖くなり、人と深く関わることを避けるようになった。
でも、ハチは違う。
現実世界のハチは病室で眠ったままで、このβ世界でしか彼とは会えない。
だから、ハチにとってβ世界で会う私が「時安可琳」であり、そこに現実の私との違いなんて関係ない――少なくとも私はそう思える。
だからだろうか。ハチと距離が近づくのは、なぜか怖くなかった。むしろ、もっと近づきたくて仕方がない。
こんな想いはハチにしか抱いたことがない。
夏の夜風が優しく頬を撫で、輝く星たちが私たちを見守るように輝いていた。
ここにいると、現実で感じるような恐怖や不安は、不思議と感じない。
それはきっと、この世界が優しいから。
ハチのお父さんが、ハチのために作り上げた優しい世界――。
その中には、私のような人間の居場所も用意されているのかもしれない。
少なくとも、ここには私たちを傷つける人はいない。
隣りを歩くハチが、私を気にするように時々こちらを見てくる。話すタイミングを窺っているのかな。
この世界では物怖じせずに、言いたいことが言える私は、自分からハチに声をかける。
「明日、ハチの家まで迎えにいっていい?」
「えっ、僕が迎えにいくよ。そういえば、可琳の家がなくなってたんだけど……今、どこに住んでるの?」
そう訊かれて、頭の中が真っ白になった。
私の家は、この世界から私の存在ごと、綺麗サッパリ消されていた。なので、同じ場所に新しく作り直してみたけれど……ハチがすでに更地になっていた私の家を見てしまったのなら、作り直した家はすぐに消しておかないと……。
ヒヤリとしながらも、平静を装って笑みを浮かべる。
「内緒! っていうか、私の家、来てくれたんだ」
ハチの顔を覗き込むと、ふいっとそっぽを向かれてしまった。
なんで~?
「いや、たまたま、たまたま前を通りかかって……」
そう言いながら、耳まで赤くなっているハチを見て、思わず口元が緩む。……もしかして、照れてる? ふふ、可愛い。
「明日、十時頃に迎えに行くね。それでいい?」
「ああ」
本当はまだまだハチと話していたい。でも、家を修正しないといけないし、今日は早めにログアウトしよう。それに明日、またハチに会える。その約束があるだけで、私は嬉しくて胸がいっぱいになった。
「じゃあ、また明日」
名残惜しさを隠しながら、別れを告げて歩き出したその時だった。
「もう遅いから家まで送ってくよ」
……!
ハチがそんなことを言ってくれるなんて、思ってもみなかった。嬉しい。でも、困る。私の家は、修正してからでないと無理だ。
「すぐそこだから、大丈夫!」
せっかくのお誘いを断るのは心苦しかったけど、慌てて手を振り、私は足早にその場を後にした。
ハチは少し心配そうな顔をしていたけど、それ以上は引き止めずに「じゃあ、また明日」と穏やかな声で見送ってくれた。
*
夢みたいな数時間だった。
β世界からログアウトした私は、ベッドの上に横たわっていた。
枕をぎゅーっと抱きかかえ、ハチと過ごした時間の余韻に浸っていた。
ずっと心がふわふわして、胸の中がぽかぽかと温かい。こんなに心が満たされる日が訪れるなんて、今までの私は想像すらしていなかった。
「あ、いけない! 家を修正しないと!」
慌ててベッドから体を起こすと、ふいに、部屋に置かれた鏡が目に入る。
鏡に映った自分の姿を見て、幸せだった気持ちが一気に冷めていく。
そこに映っているのは、β世界でハチと過ごした「時安可琳」ではなく、現実の私だった。歩くことができない、可愛くない自分。無意識に髪を触る指先が、微かに震えている。
現実は、いつも残酷だ。
「シンデレラって、こんな気分だったのかな……」
首をぶんぶんと振って、気を取り直すように車椅子に乗る。
これは現実逃避なのだろうか。
ハチと一緒にいる私は、β世界の中で自由だった。
姿形は現実の私と違うけれど、思ったことを言葉にできるし、自分がしたいと思ったことを、素直に行動に移せる。それに対して、現実の自分は……。
言いたいことを呑み込むことに慣れてしまって、本当の気持ちを隠すのが当たり前になっている。気づけば、自分の周りに壁を作っているような感覚がある。それこそ偽りの自分なんじゃないだろうか。
――偽り?
β世界の私と、現実世界の私。
一体どちらが、本当の「私」なんだろう――。
その疑問は胸の奥に沈んで、しばらく心の中に居座った。でも、今は考えないことにした。せっかく今日はとってもいい日だったんだから。
私は深呼吸をして、気持ちを切り替えた。
そうだ、明日のことを考えよう。
ハチとどこへ行こうかな。小さい頃に二人で遊んだ場所、今でも覚えてる。川沿いの道。神社の境内。今も変わってないかな?
あの頃を思い出したらとても懐かしくて、心がぽかぽかしてきた。
「まずは家を修正して、それからいろいろ確かめないと」
私はパソコンを立ち上げ、手を動かし始めた。
どんなふうにハチと過ごすかを想像しながら作業を進めるうちに、少しずつ胸の曇りが晴れていくのを感じた。
ハチと一緒にいられる時間を思うだけで、心が軽くなった。




