【第七章】歩き出す世界(5)
夏休みもあと数日で終わる、八月の終わり。
私はハチの世界にログインする前に、ハチのお父さんから声をかけられた。
「可琳ちゃん、ちょっとこれを見てごらん」
パソコンの画面には、私がかつて、昆虫好きなハチのために考えた幻想的な森が広がっていた。
「これ、私が考えた森……!」
「そう。可琳ちゃんが描いてくれた絵を元に作ったんだ。さすがに現実離れしてしまったからマップには載せていないけどね。このポイントから入れるようにしてある。ハチを連れて行ってみるといいよ」
「ありがとう! 今日さっそく遊びに行ってみるね!」
その瞬間――
「ううっ……」
低いうめき声を漏らし、ハチのお父さんが顔を歪めてうずくまった。
「ハチのお父さん!」
「すまない……そこの薬を……」
私は慌ててテーブルの上にあったお薬とお水を手に取り、震える手で渡した。
「私、お医者さんを呼んでくる!」
「大丈夫だよ……大丈夫だから」
額に汗を浮かべ、苦しげに息をつきながらも、ハチのお父さんはかすかに笑みを浮かべた。その笑顔は、今にも消えそうなろうそくの火のように、頼りなかった。
「薬を飲めばすぐに良くなるから。可琳ちゃんは、ハチの世界に行っておいで」
「でも……!」
「ほら、もう大丈夫。ちょっと楽になったよ。さあ、遊んでおいで」
顔中くしゃくしゃにしながら微笑むハチのお父さん。その笑顔は全然「大丈夫」と言えるものではなかったけれど、私は胸の奥に湧き上がる不安を押し込め、ゆっくりと頷いた。
ハチのお父さんのことが心配でたまらなかった。でも、ハチと一緒に遊び始めると、次第にその気持ちは薄れていった。
ハチのお父さんが作ってくれた森には、これまで見たことがない昆虫たちがいた。花のような翅を持つ蝶、木漏れ日に輝く虹色の甲虫――どれもファンタジーの中の生き物みたいだった。
ハチの瞳は、好奇心と喜びで輝き、その笑顔を隣で見ていた私の胸は、じんと熱くなる。この森を作ってくれたハチのお父さんに、この瞬間を伝えたい。ハチがこんなに楽しんでいることを――。
「可琳!」
突然、目の前にママの顔があった。
「……え?」
私は辺りを見回す。さっきまで緑と光に包まれていたはずの世界は、見慣れた白い壁と機械音のする病室に変わっていた。
「ママ? 私、ハチと遊んでたのに……ハチ、疲れて今は木の下で休んでるの。早く戻らないと」
ママの顔はいつになく険しく、眉間に深いシワが刻まれていた。
「急に呼び戻してごめんね。ハチのお父さんが……あなたに伝えたいことがあるそうなの。とても大切なお話」
その言葉の重さに、胸がぎゅっと縮まった。
「そんなに急がなきゃいけないの……?」
ママは悲しそうな笑顔を浮かべて、ゆっくりと頷いた。
ママが個室の扉を開けると、冷たい機械音が静かに部屋を満たしていた。
ハチのお父さんはベッドの上で横たわり、体中からいろいろな管が伸びていた。気持ちよさそうに眠っているハチとのあまりの違いに、胸の奥がひやりと凍りついた。
看護師さんが慌ただしく動いていて、白い壁にその影が揺らめくたびに、不安が胸の中で大きく膨らんでいく。
「八幡くん、可琳を連れてきたわ」
ママの声に応え、ハチのお父さんがゆっくりと目を開いた。その瞳には、これまでの優しさと、今押し寄せる痛みが溶け合っていた。私はハチのお父さんの、すぐ横まで来て、そっと顔を覗き込んだ。
「……ありがとう、可琳ちゃん」
ハチのお父さんは、微かに笑みを浮かべたが、それは泡のように儚かった。
「これまで、ハチと、ハチの世界を守ってくれて、感謝してるんだ……「不具合」も、なくなったし……ハチの世界は、完成した。それに……おじさんはもう、これ以上、直せなくなったんだ」
言葉のひとつひとつが、空気に触れた瞬間に散っていく。
「だからもう……ハチの世界へは行かなくていいんだ。君の未来は、この世界にある……」
「いや! ……私は、私は――」
声が震えた。
「私はこっちの世界より、ハチの世界が好き! 今日、あの森に行ったんだよ。ハチはすごく楽しそうだったの! あの森を作ってくれたハチのお父さんに伝えたかったの! ありがとうって! 私にはまだ、あの世界でやりたいことがあるの。ハチが、私を待ってるの!」
私の声も手も震えていたけれど、心の中にある揺るぎない思いを必死に伝えた。
「可琳ちゃん……」
ハチのお父さんは目を閉じ、苦しそうに大きく息を吸った。そして再びその目を開いたとき、その瞳には深い悲しみが映っていた。
「ハチとたくさん遊んでくれて、本当にありがとう。だけど――君が本当に生きるべき場所は……あの世界じゃない。可琳ちゃんには、この世界でしか見つけられないものが……たくさん、あるんだよ」
「いや……! あの世界の私は、何にだってなれる! こっちの世界の私じゃだめなの!」
「大丈夫。もうすぐ〈MAHORA〉が、完成する。そこでは……君はどこへでも行ける。あの世界のように、自由になれる。だから……心配はいらないよ。安心して――」
「嫌だ! ハチがいない世界なんて意味がない!」
叫びながら、私は車椅子を力いっぱい漕ぎ出した。
「可琳!」
「時安さん……パソコンを……」
掠れた声が背中越しに聞こえたけれど、振り返ることもせず、私は病室を飛び出した。
ハチの部屋にたどり着くと、迷うことなくヘッドセットを手に取った。
――ログインに失敗しました
「……え?」
目の前に小さな文字が浮かぶ。
――ログインに失敗しました
無機質なメッセージが、何度試しても繰り返される。
「どうして? なんで?」
震える指で操作を繰り返す。
――ログインに失敗しました
「どうして! どうして!」
エラー音が頭の奥に突き刺さり、耳鳴りがする。
私はハチの方に振り向いた。彼はそこにいる――ただ、目を閉じて静かに眠って……
「ハチ……! ねぇハチ! 起きて!」
私は声をかけ続けた。
「目を覚ましてよ! 私、ハチに会いに行けなくなっちゃったの! ねぇ、どうしたら会える? 教えてよ、ハチ!」
叫ぶ声がかすれて、涙がぽろぽろと頬を伝った。
川で魚を追いかけた日、甘い綿あめを分け合った夏祭り、一緒に見た見事な花火――ハチの笑顔が、次々と浮かんでは、霧のように消えていく。胸の奥が、壊れてしまいそうなほど痛かった。
「ねぇ……ハチ……」
ハチはあの場所で、きっと今も私のことを待っているのに。
ハチとお友達になってとお願いしたのはハチのお父さんだ。そして何もできなかった私に、「不具合」を探すお仕事をくれた。私の居場所を作ってくれたのはハチのお父さんなのに。どうして急に、私から全てを奪うんだろう。
私は涙を拭い、考える。ログインできないのは、きっとハチのお父さんが何かしたからだ。ハチのお父さんがいる部屋に戻ろうとしたら、ドアの向こうで足音が近づく。
ママが戻ってきた。くしゃくしゃな顔――たくさん泣いたあとの顔だった。
胸の奥で、不安の渦がどんどん大きくなる。ママが私の車椅子を静かに押した。
ハチのお父さんの部屋に入ると、そこはまるで、違う場所のように静かだった。耳障りだった機械音が消え、時計の針の音だけが、かすかに聞こえる。
ベッドの上で、ハチのお父さんが眠っていた。
「ママ? ハチのお父さんは?」
ママは震える声で言った。
「この世界じゃない、遠い場所へ行っちゃった……」
言葉が消えるように響くと、ママの瞳から涙がこぼれ落ちた。
私はハチのお父さんの顔をじっと見つめた。
まるでハチのように――穏やかで、優しい顔をしていた。
「ハチの世界に行っちゃったの?」
私の問いかけに、ママはゆっくりと首を振る。
「ううん、いつか、みんなが行く世界よ」
その日から私は、眠っているハチとしか、会えなくなってしまった。




