【第七章】歩き出す世界(4)
私はログアウトしてから、ハチのお父さんに、ハチが東京に行きたがっていることを伝えた。ハチのお父さんは「東京?」と目を丸くして、ハハハと困ったように笑った。
「そうか、ハチの世界をもう少し広げておかないといけないなぁ」
「大変?」
「まあ頑張るさ。ハチの夢を訊いてくれてありがとう」
そう言って笑顔を見せたあと、ふと表情が影を落とす。くしゃりと歪んだ顔には疲れが滲んでいる。
「どうしたの? どこか痛いの?」
「いや、大丈夫だよ」
そう言うとノートパソコンを閉じて、机に置く。その手が少しだけ震えていた。薬をいくつか取り出し、口元に運ぶ動きも慎重すぎるくらいだった。
「少し休憩しよう」
ソファにもたれるように腰を下ろすと、目を閉じて長い息を吐き出した。
最近、ハチのお父さんが痩せたのは、気のせいではない。肩の線が前より細く、笑うと顔に刻まれるシワが、深く目立つようになった。
私が報告する「不具合」は、次の日にはいつも直っている。きっと夜はずっと起きて、「不具合」を直しているのだ。
ハチのお父さんは、私がハチの世界にログインしているときに眠っている。ハチがいるこの部屋に来るたびに、お父さんがそばにいるけれど、お布団で寝ているところを見たことがない。
ママもお仕事が忙しいとき、「大丈夫よ」と言ってソファにもたれる。でも、大人の言う「大丈夫」は、あんまり大丈夫そうじゃない。
「ハチのお父さん、頑張りすぎないでね。ママもね、お仕事忙しいときにお熱が出て倒れちゃったの。だからちゃんと休んでね」
ハチのお父さんは目を閉じたまま、口元に薄く笑みを浮かべた。
「そうだね。ありがとう」
ママが迎えに来た車の中で、最近のハチのお父さんの様子が心配なことを、ママに話してみた。
「ママ。ハチのお父さん、最近元気がないの。お薬もたくさん飲んでるし……大丈夫かな。でも私が「不具合」を教えると、次の日には全部直ってるの。ちゃんと寝てるのかな」
ハンドルを握るママの手に、ぎゅっと力が入った。眉毛がハの字になり、小さく息を吐くと、悲しそうな顔で口を開いた。
「ママも八幡くんのことがとても心配なんだけど……何を言っても聞いてくれないの。もう少し体のことを気にしてほしいんだけどね」
ママの声は、少し震えていた。私の中に、小さな不安の波が広がる。
それから数日後、リアルの世界も、ハチの世界も、夏休みに入った。
風に揺れる木漏れ日の下で、私たちはかくれんぼをしたり、川を覗き込んで魚の影を探したりして笑いあった。
ハチのお父さんから、この世界にも「夏祭り」があることを教えてもらった。提灯の明かりが灯り、夜店が並ぶその光景を想像するだけで、胸がドキドキした。
夏祭りの夜。私は浴衣を着てハチと一緒に歩いた。遠くから響く太鼓の音に心が弾む。
足元で鳴る下駄の音、風鈴が揺れる涼しげな音色、漂う焼きとうもろこしの香ばしい匂い。金魚すくいの水面がきらきら光る。
ハチと一緒に夜店を渡り歩き、ヨーヨーすくいや射的を楽しんだ。
「わぁ、ハチ! あっちに綿あめがあるよ!」
私が甘い匂いにつられて駆け出すと、ハチは少し驚いてから、大きな笑顔で追いかけてきた。
出会ったころ、あんなに暗い顔をしていたハチが、今はこんなに笑っている。それが、とても嬉しかった。
私たちは夏休みに入ってからも、毎日遊んだ。
ハチと過ごす日々は、本当に楽しかった。足が動かなくて塞ぎ込んでいた気持ちは、どこか遠くへ行ってしまった。
*
その日も、ハチと一緒に、公園へ向かい歩いていた。
「痛っ!」
足元の石に躓いて、私は前のめりに転んでしまった。地面の砂が、手のひらにざらりと当たる。膝を見ると、薄い皮がめくれ、血が滲んでいるのが見えた。
反射的に「痛っ!」と声が出たけど、不思議と痛みは感じなかった。
この世界でも怪我をすれば血が出るんだ。でも痛みを感じないのは「不具合」になるのかな? なんて考えていたら、隣にいたハチが青い顔をして私を見ていた。
「大丈夫? 僕の家がすぐそこだから。手当しよう!」
ハチの声が少し震えていたことに、私は気付いた。
彼の小さな手が、私の手をしっかり握りしめて引っ張り上げてくれる。その温かさに、胸がじんわりと熱くなる。
ハチの家に着くと、彼はすぐに救急箱を引っ張り出してきた。消毒液や絆創膏を使う仕草も手際がいい。
「僕、よく転ぶから慣れてるんだ」
少し誇らしげに微笑むハチ。その笑顔に、心が温かくなる。
――最近、ハチといると、胸の奥がぽかぽかと暖かい。この気持ちって、なんだろう?
「そうだ、カブトムシ飼ってるんだけど、見ていく?」
薬箱を片付けながらハチが言った。
私が笑顔で頷くと、ハチは照れくさそうに私を部屋に案内した。
扉を開けると、木の香りと土の匂いがふわりと漂う。部屋の隅には虫かごがいくつも並べられていた。中を覗き込むと、立派なカブトムシが角を振り上げ、クワガタがじっと身構えている。そして、小さな葉の影には、蝶か何かの幼虫がもぞもぞと動いていた。
「わあ……虫が好きなんだね」
「うん。お父さんがいた頃は、時々森へ行って昆虫採集してたんだ」
ハチはカブトムシのかごを指差しながら言った。
「このカブトムシは、その時に捕まえたんだよ」
誇らしげに話すハチの瞳が、きらきらと輝いている。その笑顔があまりにも嬉しそうで、私の胸も温かくなる。
「また行けるといいね」
軽い気持ちでそう言った瞬間、ハチの笑顔が急にしぼんでしまった。
「ハチ……もしかしてお父さんのこと嫌いなの?」
「うん」
その声は低く、重たかった。私は口の中が急に渇いて、言葉が出てこなかった。
どうして?
ハチのお父さんは、あんなに優しくて、ハチの世界を一生懸命作っている、素敵な人なのに。
「そうだ、僕が作ったゲーム、遊んでみる? まだ完成してないんだけど」
ハチの部屋には、子供部屋には似合わない大きなパソコンが置かれていた(後に、デスクトップパソコンだと知った)。ハチは手慣れた手つきで電源を入れ、キーボードを叩きながら画面に向かう。
「シューティングゲームがわかりやすくていいかな」
画面には星が輝く宇宙空間が広がっていた。敵機が次々と現れ、色とりどりの弾幕が迫る。ハチは指先を器用に動かし、自機のロケットを滑らかに操る。華麗に敵弾をかわしながら、タイミングを見計らって反撃する。
「え! すごい、これハチが作ったの?」
「実はけっこう簡単に作れるんだよ。こうやって、指示のブロックを組み上げて動かしてるんだ」
「へぇ~パズルみたい」
ゲームみたいな世界で、ゲームを作っているハチが面白い。この世界は、本当になんでもできる。そんな世界を作っているハチのお父さんは、やっぱりすごい。
「そうだ、花火大会!」
突然、ハチが私の方に振り向いた。
「え?」
画面を夢中で覗き込んでいた私とハチの顔が、思いがけず近づいて、私は小さく息を呑んだ。ハチの顔がみるみる赤く染まる。私の心臓もドキンと跳ねて、顔が熱くなる。
「明日の花火大会……こないだ魚釣りした川からよく見えるんだ」
ハチは言葉を詰まらせながらも、勇気を振り絞るように続けた。
「――ええと、その……一緒に……」
「行く!」
言葉が終わるのを待てずに、私は勢いよく答えた。
ハチの顔がぱあっと、まるで夜空に打ち上がる花火みたいに明るく輝いた。
どうしてもハチと花火を見たくて、ママに頼み込み、その夜ハチの世界にログインした。
現実の花火大会には、ママと一緒に行ったことがある。鮮やかに夜空を彩る花火はとても綺麗だった。でも、ハチの世界の花火は、その花火とは比べ物にならないほど見事だった。
大輪の花火が空いっぱいに咲き誇り、途切れることなく次々と夜空に輝く。万華鏡のように色や形が変わる花火、くねくねと不思議な動きをする花火、金魚や蝶などが花火となって空を舞う。
「すごいね!」
「うん! 本当にすごい!」
ハチと私は目を輝かせながら空を見上げた。
花火が終わったあとも、空気の中にその熱が残っているようで、いつまでも胸の高鳴りが収まらなかった。
ログアウトしてから、ハチのお父さんに花火の素晴らしさを伝えた。するとお父さんは少し誇らしげに笑って、こう教えてくれた。
「実はね、現実の花火より、たくさん打ち上がるように細工したんだ。綺麗だったろう?」
「うん! すっごく綺麗だった!」
私は笑顔で大きく頷いた。
夏休みが続く間、私はハチと毎日いろいろな場所へ出かけた。
水辺で魚を追いかけたり、公園や神社で宝探しをしたり、夜空の星を集めて星座を作るゲームを一緒に作った。
たくさんあった「不具合」も、夏休みが終わる頃にはほとんど見つかることがなくなっていた。
初めは不具合を探すという目的を果たすために、ハチをいろいろなところに連れていった。でも、今はそんなことを気にせず思い切り遊び、ただハチと一緒にいることが楽しくて仕方がない。
ハチの笑顔は日を追うごとに明るくなり、いつの間にか、あの曇り空みたいな表情はどこかへ消えていた。
その一方で、現実世界では、ハチのお父さんの様子が、日ごとに悪くなっていった。
私が心配してどれだけ声をかけても、返ってくる言葉は同じだった。
「大丈夫だよ」
そう答えるハチのお父さんの声は、いつもより掠れて、丸くなった背中は前より細く見えた。




