【第七章】歩き出す世界(3)
クラスの子はみんな優しい。意地悪する子も、嫌なことを言ってくる子もいない。ここはとても居心地がいい。みんながAIだからか、今の私の姿に、いじめる要素が何もないからかわからない。
でも、ふと変だなと感じるときがある。
みんなが笑いかけてくれる笑顔。それは間違いなく嬉しい。でも……。
どうしてだろう。その笑顔が、まるで形だけの仮面のように感じられる瞬間がある。
数日学校に通ってみて、私は気付いた。やはり、この世界でたった一人、本物の人間であるハチとの会話が一番楽しい。うまく言葉にできないけれど、他の子たちのやりとりとは何かが違う。これが、「心がある」ってことなのだろうか。
初めはつまらなそうにしていたハチも、私と話している間だけ、とても可愛い笑顔を見せてくれるようになった。
このことをハチのお父さんに話すと、とても嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう。これからも元気が出るように、たくさん話しかけてあげてほしい」
私はうん、と元気よく頷いた。そのあとで、ハチのお父さんは小さく呟いた。
「洵の周りの何人かは、もう少し詳細な調整をする必要があるな」
その言葉の意味はわからなかったけれど、妙に心に残る言葉だった。
ハチは、クラスのみんながいるところでは話しかけてこないけれど、放課後になると声をかけてくる。
「今日の算数でわからなかったところ……教えようか?」
「ほんと? ありがとう。算数、ちょっと難しくて困ってたんだ。ハチ、優しいね」
「べ、別にそんなこと……」
時々恥ずかしそうにするのも可愛い。照れたように赤くなるハチの顔を見るのが好きだった。
だけど、楽しんでばかりはいられない。
私はママと、そしてハチのお父さんのお仕事を手伝うために、ここにいるのだ。
この世界では、時々変なことが起こる。
例えばある日の放課後、教室の窓を閉めたとき、ふと窓越しの景色に違和感を覚えた。外を見ると、そこにあるはずの山が消えていた。他の窓からは、きちんと山が見えている。
これはきっと「不具合」だ。ハチのお父さんに教えなくちゃ。
「何してるの?」
声に驚いて振り向くと、そこにハチがいた。
「窓が開いてたから閉めようと思ったの」
「ふうん」
「ハチはどうしたの?」
「ちょっと忘れ物」
ハチは自分の机から宿題のプリントを取り出し、ランドセルにしまう。
私が帰り支度をしていると、ハチが口を半開きにして、外を見つめていた。
もしかして、ハチも山がないことに気づいちゃった?
「ハチ、一緒に帰ろう!」
私は慌ててハチの手を取り、教室を出た。
不具合を見つけることも大切だけど、ハチをもっと元気にしなくっちゃ。
ハチのお父さんとの約束。
これからは、放課後もできるだけハチと一緒にいよう。
ログアウトして、今日見つけた「不具合」をハチのお父さんに報告する。まるで世界の間違い探しをしているようでとても楽しい。
こうして私が見つけた「不具合」は、すぐに直される。私がこの世界に変化をもたらしているようで、まるで物語の主人公になった気分だった。
学校では休み時間に、校舎の中を探索している。
廊下の隅。屋上へ向かう階段。へんてこな部分を見つけるたびに心が踊る。
でも時々先生に見つかってしまう。
「こんなところで何してるの? 教室に戻りなさい!」
――実は、先生に怒られるようになったのも、不具合を直した結果だ。
「職員室をうろうろしていても、先生が怒らないんだよ」とハチのお父さんに話したら、次の日から場にそぐわない行動をすると、先生に注意されるようになった。何をしてもスルーされていたときより、注意されたほうが、この世界での私の存在を認めてもらえているような気がする。
こうして、私が気づかない「不具合」もある。だからハチのお父さんには、その日の出来事を全部話していた。
最近のハチは、いつも最後まで教室にいる私を待つように残っている。今日も帰り支度を済ませたあと、こちらをチラチラとうかがっていた。一緒に帰りたいならそう言えばいいのに、と思ったけれど、私も現実の世界では思ったことをなかなか口にできなかったことを思い出す。だから私は、礼美ちゃんや佐奈ちゃんが私にしてくれていたように、私からハチを「一緒に帰ろう」と誘っていた。
この世界の「不具合」を見つけるのが私のお仕事。
だから、学校へ行くときも、毎日違う道を選んで歩く。ハチのお父さんから、「この道順で」と頼まれることもあるけれど、基本的に自由だ。冒険心のままに進んで、新しい風景や気になる場所を探すのがちょっとした楽しみになっている。
ある日、家から学校に行くまでの途中に、ワープできる場所を見つけた。
今日はハチを誘って、このワープをくぐってみよう。近道を教えてあげると言ったら、どんな顔をするだろう? 想像するだけで胸が弾む。
この「不具合」を報告したら、ワープはできなくなってしまうだろう。だから、たった一日だけの、秘密の抜け道だ。
「ねぇハチ、実はね、家までの近道を見つけたの」
私はハチに耳打ちする。
「近道?」
「そう。ここ、今だけ通れるのよ」
連れてきたのは、公園の隅にある古びたブロック塀の前。ここを通ろうとする私を見て、ハチは目を丸くした。
「……そこ、通れるの? 本当に?」
「ほんとよ。ここを通れば私の家のすぐ近くに出るの」
私はハチの手をぎゅっと握りしめ、一緒に塀の中へと進んだ。
周りが一瞬真っ暗になり、瞬きする間に景色が変わった。
目の前には、私の家の近くの狭い路地が続いている。
「ほらね!」
振り返ると、ハチはぽかんと口を大きく開け立ち尽くしていた。
「すごい……どうやったの? ここ、学校の近くじゃないよね?」
「ふふっ、秘密の抜け道だからね。今日だけ特別!」
私はそっと、唇に人差し指をあてる。
「ねぇハチ。今日、うちに遊びに来ない?」
そう誘うと、ハチはまだ半信半疑なまま、それでも「うん」と小さく頷いた。
ハチが家に来たときに、いくつかの「不具合」を見つけた。
最初に驚いたのは、ドアを開けたときだ。
「さあ、どうぞ」とドアを開けたら、うまく家とつながらなくて驚いた。
もう一度開け直したら、いつもどおりの家に戻った。ほっと胸を撫で下ろしてハチを誘う。
次に見つけたのは麦茶だ。
テーブルに置いた麦茶が、ハチにはうまく見えていないようだった。
そして最後、これは「不具合」というより、私がうっかりしてしまっていただけだけど。
「ねぇ、あれ、何?」
驚いた声が、ハチの口から漏れる。
その視線の先には、まだきちんと設定が終わっていない「作りかけの弟」がいた。弟が欲しいと言った私に、ハチのお父さんがその夢を叶えてくれたのだ。
くりくりの目も、まだ動かない。まるで眠っている人形のようだった。
「ああ……弟!」
なんとか笑って答えたけど、ハチの表情は驚きのまま固まっていた。
胸がずきんと痛む。きっと、怖がらせてしまったんだ。
私はハチが笑顔になるように、声を弾ませて遊びに誘う。
「今は動かないから気にしなくて大丈夫だよ。で、何しよっか。二人だとできるゲーム限られちゃうね。私、神経衰弱が得意なんだけど――」
今日は、ハチのお父さんに報告することが山ほどある。
公園にあったワープできる場所、ドアの不具合に、見えない麦茶。そして私は、ハチのお父さんからの頼まれごとを思い出した。
『そうだ、今日はハチの将来の夢をきいてきてくれるかい?』
でも、どうして自分で訊かないのか、不思議でたまらない。
『僕はハチに嫌われているからね……』
そう言って、寂しそうに笑うお父さん。
どうしてこんなに優しいお父さんなのに、ハチは――。
胸の奥で、その理由を知りたくなる気持ちが膨らんだ。いつかハチに訊いたら、答えてくれるかな。
私はもっと遊びたかったけど、ハチが急に帰ると言ったので、家まで送ることにした。その道すがら、私は今日の目的を思い出していた。
「ねぇ、ハチって、将来の夢とかあるの?」
横顔を見つめながら訊ねると、ハチは少し驚いたように目を丸くした。
「将来の夢……?」
一瞬考えてから、ぽつりと答えた。
「大人になったら東京に行ってみたいかな」
「東京?」
思わず聞き返すと、ハチは遠くを見るような目をして続けた。
「こことは違って、東京には何でもあるし、何にでもなれそうな気がする」
その目の中に、小さな星のような輝きが浮かんでいるように見えた。
私も、その夢に触れたくなった。
「ふーん、ハチは東京に行きたいのね。私も行けるかなぁ」
「行けるよ! 大人になれば、きっとどこへだって行けるよ」
どこへだって行ける――。
その言葉が、胸の奥にじんわりと広がっていく。
忘れていた感覚だ。心の中に、柔らかな輝きが生まれる。
「どこへだって……」
私は呟いた。
足が動かなくなってから、自由な未来なんて私にはずっと遠いものだと思っていた。でも……。
この世界でなら、私は自由に歩ける。誰の手も借りず、自分の力で一歩を踏み出せる。
ママと一緒に、車椅子では入れなかったお店にも行けるかもしれない。
ううん、今ならきっと、私は一人で――
「そうよね」
言葉が弾けるように、私は叫んだ。
「どこへだって行ける!」
手足を大きく振りながら、誇らしげに歩く。
振り返ると、ハチが眩しいほどの笑顔を見せていた。
「じゃあ私も一緒に行こうかな、東京」
「うん! 行こう、東京!」
私たちは、笑いながら歩き出す。
これから、どこへでも行ける。
この世界でなら、眠っているハチも、足が動かない私も、一緒に未来へ踏み出せる。
きっと、夢だって追いかけられる。何にだってなれるのだ。




