【第六章】重なる世界(4)
食事を終え、僕たちは会社に向かって歩き出した。
田中さんと鈴木さんは気があったのか、二人で話しながら前を歩いている。結果的に、僕の隣には可琳がいた。
「時安さんはこのあとも、会社で仕事ですか?」
「いえ、今日はもともと家にいるので……折を見てログアウトします」
「あっ、そうか、まだ〈MAHORA〉にログインしてたんだった」
その一言にみんなが笑い、田中さんが振り向いた。
「リアルすぎて時々わからなくなるよな。さすがに俺はもう慣れてるけど。そういや八幡はまだ〈MAHORA〉初心者だったな。初心者モードにすればわかりやすいぞ」
「……初心者って言わないでください」
僕がむくれると、可琳が口元に手を添えて小さく笑った。そして控えめに言葉を継ぐ。
「〈MAHORA〉のおかげで、こうして気軽に人と食事できるようになったので嬉しいです」
「ほんとよねー」鈴木さんが頷きながら続けた。「うちのおばあちゃんも足が悪いんだけど、気軽に旅行に行けるようになったって喜んでるの。職場のリモート環境も快適になったし。この新システムが完成すれば、セキュリティの面ももっと安全になるわね」
「まあ、スケジュールはタイトだけどな」と、田中さんが肩をすくめる。
みんなが談笑する中、僕は隣の可琳にそっと話しかけた。
「時安さん」
――これで駄目なら、β世界の可琳のことは忘れよう。
もう、変なやつだと思われたっていい。最後に、どうしても確かめたい。
可琳が僕に視線を向けた。
「今日の夜、六時五十分に、β世界の、あの河原で待ってます。意味がわかったら来てください」
話し終わると同時に、心臓が激しく鼓動する。
可琳は目を大きく見開いた。
その表情は、わけのわからないことを急に言い出した僕を見ているとも、その言葉の意味がわかるとも、どちらともとれる表情だった。
「あ! 意味がわからなかったらスルーしてください。忘れてください。これから一緒に頑張りましょうね」
無理に作った笑顔を浮かべ、僕は可琳から視線を外し、田中さんに話しかけた。ちらりと横目で可琳を見ると、彼女は困惑した表情を浮かべ、俯いていた。
僕達は会社の前で挨拶を交わし、可琳は〈MAHORA〉からログアウトした。
*
「田中さん、すみません! 今日は定時で退社します!」
僕は高らかにそう宣言すると、爆速で仕事を片付けていく。
「ほう?」田中さんは目を細め、口元にニヤニヤとした笑いを浮かべていた。けれど僕は、仕事に集中する。
「青春だね~」と茶化すような言葉が背中に聞こえたけれど、僕は気にしないことにした。
家に帰り時計を見ると、もう六時半を回っていた。時間がない。
急いで冷蔵庫から麦茶を一杯注ぎ、ゴクリと飲む。
深呼吸をして心を落ち着ける。手が微かに震えているのを自覚しながら、ベッドに横たわった。
目を閉じ、β世界へログインする。
――可琳と、逢えますように。
視界が暗転し、やがて、β世界が目の前に広がった。
前回ログアウトした場所は僕の部屋だった。ここから急げば約束の時間に間に合う。
可琳と約束した河原を目指して、僕は走り出した。
だけど、怖くてたまらない。
――何が怖いんだろう。
走りながら、自分に問いかける。
可琳が来なかったら?
もし、来てくれたとしても、僕は何を言えばいいんだろう。
あの子が僕の世界の可琳だったとしても、あの日、可琳が約束の場所に来なかった事実は変わらない。
息が苦しくなるのは、走っているせいだけじゃない。
僕はきっと――可琳の本当の気持ちを知るのが怖いんだ。
河原に着いたけれど、誰もいなかった。
時計を見ると、六時四十七分。まだ、約束の時間には少し早い。
僕は乱れた息を整えようと、空を仰ぎながら深く深呼吸する。
日はすでに傾き、空には茜色の残像がうっすらと漂っている。
川を流れる水の音が、草むらで鳴く虫の声とともに静かに響いていた。湿った風が頬を撫で、汗ばんだ肌にひんやりと心地よい。
可琳が僕の目の前から消えて、もうすぐ一年が経とうとしている。
ここに立っていると、あの日の悲しみが甦る。
空を見上げると、雲の隙間から、星が瞬き始めた。
今日は花火は上がらない。
代わりに、美しい夏の夜空が広がる。
僕はもう一度時計を見る。――六時五十二分。
「やっぱり来ないか……」
ため息混じりの僕の声は、湿った夜風に溶けて消えていった。
「ハチ……」
背後から、消え入りそうな声が聞こえた。
僕の心臓が、一瞬止まったように感じた。
僕はゆっくりと振り向く。
そこには、月明かりに照らされ、ぼんやりと浮かび上がる人影があった。
僕が何度も夢に見た、探し続けた――僕の世界の、時安可琳。
やっと逢えた……。
足元から、力が抜けるような安堵感が押し寄せる。僕は震える声で言った。
「来てくれたんだね、可琳。僕はずっと君のこと――」
「がっかりしたでしょ?」
彼女が僕の言葉を遮るように口を開く。その声は震えていた。
「ほんとの私は、こんなに綺麗じゃないし、スタイルもよくないし、歩くことだって……できないし」
僕は可琳の言葉に息を呑む。
彼女は俯いたまま、言葉を続けた。
「人と話すことも得意じゃないし、言いたいことも言えなくて、ただ呑み込むだけで……」
「待って、可琳。僕は――」
「自分に自信なんてない……私なんか、ハチの理想には程遠い……」
彼女は下を向いたまま言葉を絞り出すように続ける。違う、僕はそんなこと思ってない! と声を上げたかったけれど、息がつまって言葉にならない。
可琳が顔を上げた。月明かりが、その表情を照らす。
彼女の目には涙が浮かんでいた。
「来ないで!」
僕が一歩踏み出そうとすると、彼女が叫んだ。
その声は、これまでの彼女のどの声とも違った。
鋭くて、痛々しくて、僕の胸に深く突き刺さるようだった。
なんで――。
なんでまた会えたのに、そんな顔をするんだ。
「私は――本当の私は、ハチに好きになってもらえるような女の子じゃないの。ここでどれだけ好きだって言ってもらえても、それは本当の私じゃない。ずっと嘘ついて、騙して……ごめんなさい。ここでの私は、偽りの私だから。ハチが好きになってくれた可琳は、現実の世界にはいないの」
彼女の瞳が、僕をゆっくりと捉える。大粒の涙が溢れていた。
「だからもう、ここで会った私のことは、忘れてください」
胸の奥が抉られるような痛みに襲われた。忘れろだなんて――
「そんなの……」
僕の言葉をかき消すように、可琳が悲しく笑った。
「さようなら」
「待って! 可琳!」
僕の中で感情が弾け、彼女の名前を叫んだ。
駆け寄って全力で手を伸ばし、可琳を抱きしめようとした。
でも――僕の両手は可琳の体をすり抜けた。
目の前で、可琳の姿が音もなく消えていく。
その瞬間、風がそっと頬を撫で、懐かしい甘い香りが鼻をかすめる。
可琳の香りだ。
手を伸ばしても、そこにはもう誰もいない。ただ、夜の静けさだけが広がっている。
僕は呆然と立ち尽くし、そして膝から崩れ落ちる。
その場に残されたのは、いつか彼女と過ごした日々の残像と、胸の中にぽっかりと空いた穴だけだった――。




