【第六章】重なる世界(1)
入社して早々に、様々な洗礼を受けた。
歓迎会では、「あの八幡リーダーの息子さんなんだろ?」から始まり、「長い事寝たきりだったんだって?」と続き、お酒が回ったころには「元リーダーの息子で、現リーダーの時安さんともつながりがあるなんて、コネ入社だろう」と笑いながら言われた。
心の奥底がじわりと熱くなった。怒りなのか、悔しさなのかわからない。ただ、言い返せるほどの自信も言葉もなく、苦い笑みを浮かべるしかなかった。
酷い言いがかりだ……と思ったけれど、本当にコネ入社なのかもしれない、と悔しくなる。面接官の中に璃花子さん――時安リーダーもいたし。本当に、情をかけられた結果なのかもしれないと思ったら何も言い返せななかった。
僕に当たりが強い人もいれば、優しくしてくれる人もいる。β世界で働いていた頃は、こんなに人間関係で悩んだことなんてなかった。
「なにくそ!」と心の中で叫びながら、僕はさらに勉強にのめり込んだ。
会社に残り、社内システムの改善案を次々とパソコンにメモしていく。家に帰ってから何パターンもの設計案をまとめる。
数週間後、朝の会議で僕が提出した改善案が採用された。その日、いつも冷たかった先輩がぽつりと、「お前、結構やるんだな」と言った。その一言が、僕の胸を震わせた。
人間関係の壁は厚いけれど、それを少しだけ乗り越えた瞬間だった。
「コネ入社」と陰口を叩いていた人たちの態度が、少しずつ変わり始めたのは、僕の努力が目に見える形で成果を出し始めた頃だった。
「社内システムの改善案、お前がやったんだって?」
声をかけてきたのは、かつて僕に冷たい視線を投げていた同僚だった。僕が驚いた顔をすると、彼は照れ隠しなのか、「新人にしては、まあまあ見れる仕事だったな」とつぶやきながら去っていった。
誰かが僕の仕事を認めてくれる。そのことがこんなにも嬉しいものだとは知らなかった。
人と摩擦が起きるたびに「生きている」という実感を強く感じた。
β世界では一度も味わうことがなかった、この苦しみと、その先にある喜び。それは、時に辛いけれど、現実だからこそ味わえるものだと思えるようになった。
「でも、田中さんだけは、未だにチクチク言ってくるんだよ」
今日も圭に、会社であった愚痴をこぼす。
「田中さんって?」
「僕の指導係。他のみんなが頑張ってるなって褒めてくれても、田中さんだけは違うんだ。『ここが甘いとトラブルになるって言ったよね?』とか、『納期意識してる?』って厳しいことばっかり言ってくる」
「それって、洵に期待してるからじゃない?」
「期待?」
圭はいつも僕の愚痴を笑顔で聞いてくれるだけじゃなく、時々こうしてハッとすることを言う。
「だって、適当に流せる相手には、わざわざそんな厳しいこと言わないんじゃないかな」
そう言われてみれば、田中さんの指摘は的を射ていることばかりだった。厳しいけれど、それだけ僕に何かを教えようとしてくれているのかもしれない。
「言われてみると、確かに」
「まあちょっと厳しいかもしれないけど、洵のことを鍛えてくれてるのかもしれないよ?」
「うん、そうだね。これまで、褒めてくれたり、距離をおかれたりってことはあったけど、叱ってくれる人はいなかったから、新鮮ではある……」
「洵の今後に期待してるのかもしれないし、逆に、ただ気に食わないってこともあるから、まあ程々に聞き流して、指導だと思う部分は受け入れればいいんじゃないかな。田中さんが何も言い返せないくらい完璧にこなせるようになって見返してやればいいさ。……で、仕事はどう? 楽しい?」
「うん。きついけど、楽しいよ。今日は小さなバグを潰したんだ。それが結構複雑でさ。解決するのに三時間もかかった。でも、原因がわかった瞬間、『これだ!』って声が出ちゃって、周りに笑われたよ」
圭は微笑みながら頷く。
「バグ潰しをそんなに楽しめるなんて、面白いね」
「うん、一つずつ潰していって、全部なくなったときが最高に気持ちいい!」
僕自身も、SEの仕事をこんなに楽しめるとは思っていなかった。まだ僕の力なんて微々たるものだけれど、僕も世界を創る一員になれた気がする。
バグを潰したあとの世界は、とても美しいと思う。
ただ、そんな楽しさの中にも焦りはある。
アストラルアークに入った理由は、〈MAHORA〉のシステム自体に興味があることも事実だが、本当の目的は、可琳の手がかりを探すことだった。
入社してから半年が過ぎても、僕に任されるのはメンテナンスやサポート業務ばかりで、可琳の手がかりを探すどころか、日々の業務に追われる毎日だった。
「本当に可琳に会える日が来るのだろうか」
夜、一人きりの自室で呟いた声が、無機質な部屋に溶けていく。
圭は何かを知っているような気がするけれど、可琳について訊いてみても「外の世界のことは僕にはわからない」と繰り返されるばかりだ。胸の奥に焦りが湧き上がり、波紋のように広がっていく。
いずれ時安リーダーのチームに加わり、〈MAHORA〉の中枢に触れるために、もっと知識と経験を積む必要がある。
苦しいことも多いけれど、それを超えた先にある未来を信じて、僕は今日も目の前の仕事に全力を注ぐ。
いつか、可琳に会える日を信じて――。
*
「今日の打ち合わせ、品質管理部でやるぞー」
田中さんに声をかけられ、僕は慌ただしく資料をまとめて席を立った。
エレベーターに乗る時、僕はいつもボタンの前に立つことにしている。こういう小さな気遣いの積み重ねが大事なのだと、田中さんや周囲から学んだからだ。全員が降りたことを確認し、僕も出ようとしたところで、車椅子の女性がエレベーターの脇で待っていることに気づいた。
「あ、どうぞ」
僕は慌てて再び開くボタンを押し、彼女に声をかけた。
「あ、ありがとうございます……」
最後の方は、聞き取れないくらい小さな声だった。そわそわと落ち着かない様子でエレベーターに入ってきた彼女を見届けてから、僕は降りる。
品質管理部の子かな?
そう思いながら歩き出したとき、前から小走りで近づいてくる女性の姿に目を奪われた。心臓が大きく跳ねる。
「あー、もう行っちゃったか~」
彼女はそう呟いてからスマホを取り出す。
黒髪が肩で揺れ、大きな瞳が印象的なその顔立ちは、β世界の可琳とあまりに似ていた。思わず彼女の顔をじっと見つめていると、視線に気づいた彼女がこちらを向いた。僕は慌てて言葉を絞り出す。
「あ……えっと、車椅子の子ですか?」
「そう。IDカードを渡すの忘れちゃって」
「たった今、エレベーターで降りていきましたよ」
彼女の首から下がっているネームプレートに目をやると、「鈴木佐奈」と書かれていた。もちろん彼女は可琳じゃない。そこまで確認して、ようやく僕の心臓は正常なリズムを取り戻した。
「普段はリモート勤務の子なの。今日は手続きのために来てもらってて」
彼女がそう説明すると、僕は「そうなんですか。では」と頭を下げてその場を離れた。
歩きながら、自分に呆れる。少しだけ、もしかしたら彼女が可琳なんじゃないかと期待してしまった。
可琳は確かに、β世界で「お母さんと同じ会社で働いている」と言っていた。けれど、それはあくまで、β世界での設定だ。
僕は何を期待しているんだろう――
それでも、あの女性を見た瞬間、胸にわき上がった希望のような感情を完全に否定することはできなかった。
気持ちを立て直し、だいぶ先に行ってしまったみんなの後を、小走りで追いかける。その時、後ろからふと聞こえた声に、僕の足が止まった。
「……あー、かりん? ごめん、IDカード渡すの忘れちゃって! 1階で待ってて、今から降りてくから~」
エレベーターの前でスマホを耳に当てた鈴木さんの声だ。
――かりん?
一瞬、心臓が跳ねる。けれど、すぐに違うと思い直す。距離があったし、聞き間違いだろう。それに、さっきの車椅子の子は可琳とは全然違う見た目だった。
でも――
頭が勝手に「可琳」という名前を拾ってしまっただけだ。鈴木さんの容姿が可琳に似ていたせいで、僕の中のどこかが過敏になっているんだ。
深く息を吐き、雑念を振り払おうとする。
「おい、八幡、どうしたー?」
立ち止まっている僕に気づき、田中さんが振り返った。
「すみません! ちょっとお腹が痛くて……トイレに寄ってからすぐ行きます!」
僕は咄嗟に嘘をつき、再びエレベーターに向かう。
馬鹿げてる。こんなことが気になるなんて。
それでも、心がざわつくのを止められない。「かりん」という言葉が耳に焼き付いて離れない。
エレベーターに乗り、震える手で閉まるボタンを押す。
違うとわかっている。でも……もしも、あの子が可琳だったら?
理性ではわかっている。こんなことはただの思い込みだ。でも、心が、確かめずにいられない。
この衝動を無視したら、きっと後悔する――
エレベーターが静かに1階へと向かう中、鼓動が高鳴るのを感じた。
扉が開く瞬間、僕は息を深く吸い込んだ。
1階のエントランスに降り立つと、すぐに目に入ったのは、車椅子の彼女と鈴木さんが話している姿だった。
鈴木さんを見上げ、何気なく笑う彼女。その瞬間、全身に鳥肌が立った。
彼女が笑う時、そっと口元に手をあてる仕草――それは、僕の記憶の中の可琳、そのものだった。
いや、でも見た目が全然違う。
髪型も、顔つきも、瞳の輝きも違う。
けれど、話しているときの表情や身振り、何気ない仕草が、なぜか可琳の姿と重なって見える。
理性では否定しようとするのに、胸の奥から込み上げる感覚が抑えられない。
気付いたときにはもう体が動いていた。話が終わって、外へ出ようとしている彼女に駆け寄った。
「可琳!」
僕の声に、彼女が驚いたように振り向く。
その表情に、僕の胸は締め付けられる。
彼女は、僕の顔を見た瞬間ひどく驚いて、目の前まで走ってきた僕を見上げた。
ゆるくウェーブした髪、小柄な体、たれ目がちなメガネの奥の瞳が揺れていた。
距離を詰め、少し息を切らせながら、僕は言葉を絞り出した。
「あの……僕、システム開発部の八幡洵って言います。突然すみません。あなたの……お名前を伺ってもいいですか?」
彼女は一瞬、戸惑ったような表情を浮かべ、それから困惑の色を濃くして顔を赤らめた。
当然だ。僕の行動は明らかにおかしい。
そんなことはわかっている。それでも、この感情を止められない。
「――ごめんなさい!」
彼女は短くそう言うと、車椅子を走らせ、その場を離れていった。
僕の足は、その背中を追うことを拒んだ。
冷静に考えれば、彼女が可琳であるわけがない。
けれど、心の奥底で、僕の中の何かが必死に訴えている。
――あの子は可琳だ。
遠ざかる彼女の後ろ姿を、ただ呆然と見送った。
激しく脈打つ心臓を押さえつけるように深く息を吐き、僕はなんとか感情を鎮めようとした。
それから、打ち合わせに戻るため、重い足を引きずるように歩き出した。
打ち合わせが終わった後も、頭の中は可琳のことでいっぱいだった。
気がつけば、帰り際に足が自然と品質管理部へ向かっていた。車椅子の子と一緒にいた鈴木さんが、デスクで書類をまとめているのを見つけ、僕は思わず声をかけた。
「あの、すみません、さっきの車椅子の子って、可琳って名前であってますか?」
鈴木さんは少し驚いた様子で顔を上げた。
「そうだけど……え? あなたたち知り合い? あ、そうか、八幡さんって時安リーダーと知り合いだものね」
「え……。時安……可琳?」
「そう、時安可琳。ん? 私、何か変なこと言ってる?」
鈴木さんの表情が、不安げに揺れる。僕の表情がきっとおかしいのだろう。
「いえ、なんでもないです。ありがとうございました」
なんとか笑顔を作り、場を収めるように頭を下げると、僕はその場を立ち去った。
頭の中は、完全にパニックだった。
あの子が時安可琳。時安リーダーの娘。
そんな偶然があるだろうか。僕の世界にいた「時安可琳」と、現実世界の「時安可琳」。名前が同じだなんて、何の関係もないと思えるはずがない。
僕は歩きながら、時安リーダーの言葉を思い出す。
『可琳のデータは、私が子どもの頃のものを利用したの』
――この言葉は嘘で、もしかしたらあのデータは、娘さんのものだったのではないか?
そう考えた瞬間、全身が震えた。
彼女の見た目が違っても、あの車椅子に乗った彼女の中身が、僕の世界の「可琳」だったとしたら……。
現実と仮想の境界がぐらついていく感覚に、胸の奥がざわめいていた。




