【第五章】懐かしい世界(2)
可琳の弟については、正直あまり記憶にない。
可琳と外で遊ぶときはいつも二人だったし、弟を見たのも数えるほどしかない。
可琳の部屋に初めて訪れたとき、部屋の隅で動かず座り込んでいた弟の姿を覚えている。あの時は奇妙に感じたけれど……今ならわかる。あの時の彼は、まだ「アバターとして機能していない」状態だった。
そうか――。
子どもの頃に可琳と遊んだ、あの不思議な体験の数々は、この世界のバグだったんだ。
「あの、可琳は、可琳は今どこにいますか?」
彼の言動には疑問が山程あったけれど、何よりもまず、可琳の行方が知りたかった。しかし、彼は静かに首を振る。
「時安可琳は……もうここにはいないよ」
「……いない?」
「けれど、洵が目覚めたということは、会えたんじゃないのか?」
「え?」
僕は眉をひそめる。彼の言葉は、最初から何一つとして理解できない。
「僕は、洵がこの世界からログアウトした後、再びログインしたとき、この部屋で待機し、洵と会話するようにプログラミングされていたんだ」
「プログラミング……?」
「洵に何か困ったことがあれば、できる限り手助けできるようにね。とはいえ、僕にできることは限られているけれど」
そうか……彼は父さんの置き土産か。つまり父さんは、僕が目覚めるかもしれないっていう希望を捨てずにいてくれたんだ。
胸の奥が、じんと温かくなる。
「現実の世界はどうだい? 何か困っていることは?」
「困ってることだらけだよ……。わからないこともたくさんある。君はこの世界について詳しいの?」
「まあね。でも、洵にはもうこの世界は必要ないはずだ。これからは現実の世界で生きていくんだからね。……ところで、〈MAHORA〉の正式版はきちんとリリースされたんだろうか」
「うん。今や生活になくてはならないレベルだよ」
「そうか。それはよかった。じゃあなおさら、この世界はもう必要ないね。僕にできることもなさそうだ」
彼の言葉に、僕は大きく首を振った。僕にはまだ、この世界が必要だ。
「僕の大切な人が、どうやらこの世界にしかいないらしいんだ……」
「大切な人?」
「時安可琳。君のお姉さんだよ。僕と可琳は付き合っていた。プロポーズしようと思った日に……僕の前からいなくなってしまったんだ」
彼は沈黙し、考えるようにして俯いた。
「僕にはわからないことが起きているようだ。順を追って説明してもらってもいいかい?」
僕は、可琳と再会した同窓会から今に至るまでの出来事を彼に話した。
可琳にもう一度会いたい。
彼女が僕にとって、どれだけ大切な存在なのかを、彼に必死に伝えた。
「大人になった可琳がこの世界に……なるほど、彼女には彼女なりの事情がありそうだね」
「事情? 君はこれまで、可琳と一緒にいたんじゃないの?」
彼は少し考え込むようにして黙った後、静かに答えた。
「姉さんとは一緒にいたわけじゃないんだ。そして、恋愛という分野において、僕にはどうすることもできない。僕はこの世界のことしか把握できないし、この世界のサポートしかできないからね。でも洵――」
彼はとても優しく微笑んだ。
「僕はいつでも洵の力になりたい。そう思っているよ」
「……なんで?」
思わず、口をついて出た。彼の言葉に、僕は複雑な感情になる。
「どうして、ほとんど話したこともない僕に、そんなに優しくするの? それも、父さんにプログラミングされているから?」
気がつくと、抑えきれない思いが溢れていた。
「この世界の人たちはみんな僕に優しいんだ。母さんも、窪も、これまで出会った人、全て。誰も僕を責めないし、僕にとって都合のいいことしか起きない。それがどれだけ寂しいことか、君にわかる?」
彼はしゅんとして、そして静かに尋ねた。
「この世界は……楽しくなかった?」
「正直に言えば……楽しくはなかった。でも、辛くもなかったよ。可琳と再会してからは本当に幸せだった。この世界を作ってくれた父さんには感謝してる」
僕の言葉を聞き終えた彼は、複雑な表情を見せ、ポツリと呟いた。
「洵はお母さんが大好きで、お父さんのことは嫌いなんだよね? それでもお父さんに感謝するの?」
「母さんのことは大好きだったし、こっちの母さんはとても優しいよ。でも、今は父さんに感謝してる。僕のために、命がけでこの世界を作ってくれたこと。本当のことを知ったときはショックだったけど、今ならわかる。父さんは僕のことを、大切に思ってくれていたんだって」
絞り出した言葉が、自分の気持ちを浮き彫りにしていく。その事実に、僕自身が驚いていた。
「変な話だよな。現実と同じように、母さんが出ていく設定でもよかったのに。――でもきっと、僕がそうさせてしまったんだよね」
璃花子さんから聞いた、父さんの過去。その断片を思い出しながら、言葉を続ける。
「僕は今、父さんがいた会社――アストラルアークに入社して、父さんが作った〈MAHORA〉の開発に関わる仕事をしたいと思ってるんだ」
彼は僕の言葉を聞くと、ゆっくりと頷いた。
「そうか……」
柔らかい微笑みを浮かべる彼の表情は、僕が人生の目標を見つけたことを、心から喜んでくれているようだった。
「頑張って。応援してるよ」
「ありがとう。君と会うのは初めてなのに……こんなにいろいろ話しちゃってごめんね」
「そのために僕はいるんだから。大丈夫だよ。洵とこうして話ができる日が来て、とても嬉しいんだ」
彼の言葉に、僕の胸は温かくなる。
「可琳に会うためにこの世界に来たんだけど――君に会えてよかった。また遊びに来てもいい?」
「もちろんだよ。僕はいつでもここにいる」
僕はまだ大切なことを訊いていないことに気付いた。
「えっと……ごめん。僕、君の名前覚えてないんだ」
「……圭」
「圭か。これからもよろしく」
僕が手を差し出すと、圭も笑顔で握手を返してくれた。どこか温かく、懐かしい感覚がした。
「……ところで圭。可琳が今どこにいるか、わかったりする?」
「ごめん。僕にはわからない。さっき検索してみたんだけど、今はこの世界にいないみたいなんだ」
「この世界にいない……?」
僕がうなだれると、圭は慰めるように、僕の肩に手を置いた。
「本当に洵は、可琳のことが大好きなんだね」
「うん。可琳は僕の世界のすべてだ」
こんなセリフ、現実じゃ恥ずかしくて言えない。だけど、圭にはどうしてか正直な気持ちを話すことができた。
「大丈夫。洵が望めば、きっとまた会えるよ」
「どうやって? この世界にはもういないんだろ? でも、この世界でしか会えないって、君のお母さん――璃花子さんは言っていたんだ。じゃあ、可琳は一体どこにいるんだ?」
圭は少し考え込むようにしてから答えた。
「きっと方法があるはずだ。僕はそう思う。現実を見て、そして受け入れれば。だから諦めないで」
圭の言葉には不思議な力があった。まるで、暗闇に一筋の光が差し込むように。
「ありがとう。うん、諦めないよ。諦めるつもりもないしね」
僕が笑うと、圭はそれを待っていたかのように笑みを浮かべた。
*
β世界からログアウトして、自室に戻ってきた。
しんと静まり返った現実の部屋はどこか殺風景で、少しだけ寂しくなる。圭との会話が楽しかったから、余計にそう感じるのかもしれない。
思いがけず、β世界に友達ができた。
圭の言葉は不思議と温かく、僕の心に染み込む。
圭が言っていたことはいまいち理解できないことも多かったけど、それでも希望をくれた。
『洵が望めば、きっとまた会えるよ』
圭の言葉を反芻するたびに、胸の奥で小さな光が揺らめく。
もしかして可琳は、現実世界のどこかにいるのだろうか。
それとも……。
璃花子さんが「可琳のデータは小さい頃の自分のデータを使っている」と言っていたけれど、つまり、可琳は璃花子さんだと言いたいのだろうか。
圭の言葉の意図ははっきりしない。
でも――。
現実世界のどこかに、可琳がいる。
僕は、そう信じることにした。
〈MAHORA〉に初めてログインしたとき、僕は「時安可琳」という名前を検索してみた。珍しい名前ということもあるだろうけど、結果は0件。もちろん、データを非公開にする設定があることも知っている。名前が見つからなかったからといって、希望は捨てない。
いつかまた会える。
そう信じて、僕は現実の世界で生きていくことを決めた。
*
β世界で学んだプログラミングの知識は、こちらでも基本的に通用した。けれど、技術は日進月歩で、さすがに僕が持っている知識は古くなっていた。
遅れを取り戻すために必死で勉強し、僕は必要な資格を次々と取得していった。
父さんが残してくれた遺産のおかげで、生活費の心配をせずに勉強に集中できたことは、本当にありがたかった。
時々、息抜きにβ世界へログインして、圭と話すのが習慣になった。
「洵、また新しい言語を勉強してるのかい?」
「うん。現実のプログラミングは、β世界のものよりずっと複雑だよ。でも、いろんなコードを組めるようになると楽しいね」
圭も、この世界を管理しているからか、プログラミングに詳しくて、一緒に勉強をすることもある。現実世界の新しい技術や言語に興味津々だ。
「凄いな。洵はどんどん成長していくね」
圭はいつも、僕の努力を嬉しそうに褒めてくれる。窪に続いて、β世界で二人目の友人だ。AIの友人……というのが適切かどうかはわからないけれど。
アストラルアークの内定が決まったときも、自分のことのように喜んでくれた。
「おめでとう、洵。いよいよ、お父さんと同じ職場で働くことになるんだね」
「ありがとう。君には本当に感謝してるよ。圭がいつも励ましてくれるから、僕はここまで頑張ってこれた」
圭はこの世界だけではなく、僕のことも見守り続けてくれている。
いよいよ明日から、アストラルアークで働くことになる。
期待と不安が入り混じって、少し緊張していた。
父さんが開発した〈MAHORA〉。その片鱗に触れることができるかもしれない。
そしてここから、僕の新しい人生が始まる予感がしていた。




