五十六話 不安
「ただいま」
自室への扉を開けて声をかける。九凪としては扉を開けてすぐに月夜の顔があることも予想していたのだけど、その予想に反して声をかけてからも駆け寄ってくる足音すら聞こえなかった。
「いないのかな?」
何かの用事で出かけているのだろうかと思いつつ彼は玄関を上がる。同居を始めてから月夜は一度も外出した様子はなかったが、真昼から神様がらみの仕事を頼まれるというのは有り得る話だった。
真昼に借りを作りたくないという理由から世話になった分を働いて返すというのは九凪も月夜から聞いていたからだ。
「月夜?」
しかしその予想も外れてリビングには彼女の姿があった。そこに置かれた二人用のソファの上に彼女は膝を抱えて丸まっていたのだ。
「どうしたの?」
「九凪!」
声をかけてそれでようやく彼の存在に気付いたというように、月夜はすぐさま九凪へと飛びついてきた。そのまま彼の胸に顔をうずめてくる感覚には既視感がある。
「また何かしちゃった? 僕は怒らないから落ち着いて話して」
以前同じような状況になった時には月夜は九凪と奏の様子を覗き見したことを謝罪した。ただそれに関しては許しているし今日だって二人の様子を見る許可は出してある。
それであれば他の理由のはずだけど、思い出す限り今日の奏と過ごした時間の中で違和感を覚えるような出来事はなかった。
「…………二人の様子を、見ていたのじゃ」
「うん、でもそれは僕もしていいって言ったことだよね」
「うむ、だから九凪が奏と会うところから見ておった」
それは逆に言えば律義に必要なタイミングだけ見ていたということだ。奏と合流する前の九凪の様子は見ていなかったし、奏と別れてから見るのをやめたのだ…………だから彼が帰ってきたことにも気づかなかったのだろう。
「僕は、何か月夜を不安にさせるような態度をしていたかな?」
九凪は月夜に誤解されないように気を付けていたつもりだけど、奏を傷つけないためにも露骨に拒否するような態度もとれなかった。なので自分では気づかないうちに奏に惹かれているような誤解を月夜に抱かせたのかもと思ったのだ。
「しておらぬ。あの娘には悪かったが九凪は毅然とした態度じゃった」
「そっか」
それならよかったと九凪は思うけど…………それであれば月夜のこの態度はどういうことなのだろうと彼は思う。彼女が何を不安に思っているのか九凪にはわからない。
「わしは、九凪が見ることを許してくれ良かったと思った。もしも見ることができておらなんだら九凪が帰ってくるまで…………いや、帰って来ても不安が残っていたやも知れぬ」
「でも、月夜は不安がってる」
その言葉と裏腹に月夜のその態度は明らかに不安がっていた。今も彼の体を掴むその手は震えているし、その不安を見たくないとでもいうように彼の胸元に強く顔をうずめている。
「一から、話してくれる?」
「…………うむ」
優しく九凪が尋ねると小さく月夜は頷いた。
「二人の様子を見ておったことは言ったの…………今しがた言うたが、わしはそれで不安に思うようなことはなかった。むしろ嬉しいとすら思ったのじゃ」
「嬉しい?」
「九凪がわしを選んでくれたことが、じゃ」
もちろん月夜はすでに九凪に選ばれている。しかし彼女の主観からして誰かと比べて選ばれたわけではなかった。別にそれでなにか変わるわけでもないはずなのだが、誰かと比べて選ばれるというのは優越を感じられる。
自分が、他ではない自分だから選ばれたのだというその肯定感はとても気分を高揚させるものだ。
「九凪はわしを浅ましいと思うか? 奏が九凪から選ばれなかったことをわしは喜んでしまった」
「…………ううん、思わないよ」
だってそれは誰だって抱いてしまうような感情だ。誰かが選ばれれば誰かが選ばれない。それは当たり前のことで、選ばれたことを喜ぶのを咎められるはずもない。別に月夜はそれで奏を直接けなしたりしたわけでもないのだから。
「不安だったのはそのこと?」
「違う」
けれどこれにも月夜は首を振る。
「それじゃあ何が不安なの?」
「…………想像してしまったのじゃ」
それは自分が選ばれたことで心の余裕が生まれたからなのだろう。考えなくてもいいことを考えてしまうのは余裕のある人間にも起こりえる。
「何を?」
「もしも、わしが九凪に選ばれなかったらと」
月夜は選ばれたのだからそんなことを想像しても意味はない。しかし意味はなくても思いついてしまえば思考は巡る…………想像したその光景の中で月夜は一人だった。その空いた心の穴を埋めるものは何もない。周囲にはいくつものお菓子が転がっていたが、それらは全て一口だけ齧って捨てられていた。何の味もしないのだ。
「それはただの想像だよ」
ここに自分はいると示すように九凪は月夜を抱きしめる力を強くする。確かに選ばれなかった未来では月夜は一人になったかもしれないけれど、九凪は月夜を選んだのだ。それはただの想像であって現実ではない。
「わかっておる、わかっておるのじゃが…………怖い」
封印から解放された時月夜は一人だった。あの時であればきっと未来でずっと一人だと言われても彼女は気にしなかっただろう…………けれど今は一人ではない。九凪という大切な存在と一緒にいられる幸せを知ったからこそ、一人になることがとても恐ろしく思えた。
「大丈夫、僕はずっと一緒だよ」
口先だけではなくその覚悟は月夜に告白した時に決めてある。この先何が起きたとしても彼は月夜と共にあり続けるつもりだった…………死がふたりを分かつまで。
「あ」
しかしそこで九凪は気づいてしまう。死がふたりを分かつまで、それは結婚の制約などで用いられる一文でふと頭に浮かんだ言葉でしかないが…………九凪がその寿命終える時もきっと月夜は死ぬことはない。
何千年と月夜が封印されていたように、神様の寿命は存在しないかとても長いものなのだろう…………きっといつか九凪は月夜よりも先に死んで彼女を一人にする。
「九凪?」
「なんでもないよ」
一度強く浮かんだ不安を心の奥底にしまい込んで九凪は月夜に笑いかける。確かにそれは確実に起こる未来ではあるがまだ遠い話だ。その未来がやってくるまでに月夜だって今より成長しているのは間違いない。それまでに彼女が穏やかな別れを受け入れてくれるように九凪が努力すればいいだけだ。
「今日はずっとこうしていようか」
「…………うむ」
ただ、九凪が知らないことがあるとすればそれは彼が巫覡であるということだった。真昼は彼に神に纏わる事情は伝えたがそれだけは伝えなかった。
なぜならそれは彼のこれまでの心情が全て二人に伝わっていたことを明かすことでもあり、せっかくうまくいった二人の関係に水を差すことになりかねないと判断したからだった。
もちろん、いずれ折を見て伝えるつもりではあった…………けれどそれは今日より前ではない。少なくともそれは真昼の完全なミスだった。
ほんのひと時抱いてしまった九凪のその不安は…………正しく月夜へと伝えられたのだから。
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