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逃げる男と追う男

作者: 秕 かなえ

 貸し切り状態の露天風呂は、山下の夜景が隠れるほどの湯気が充満していた。宮沢は湯を囲う木製の縁に後頭部をもたれ、肺の底からたっぷりと吐息を押し出す。

 屋根の外は、初冬を裏切るような大雨だった。旅館へ続く坂道を登っていた時に凍てついていたピアスは、じんわりと熱を帯びている。ここ数日で東北から九州へと小刻みに移動し、疲労した体が、温かさで芯から解されていた。


 煙草と酒がここにあれば最高だったのに、と宮沢は内心つぶやく。二十歳になった日から吸い続けている煙草は、ここ三年ほどで格段に量が増えた。バッグには予備が二箱入っているが、明日には買い足さなければと脳内にメモをした。


 ガラス戸のスライドする音に何気なく目を向けた宮沢は、「げ」と声を漏らす。タオルを持って入って来た男もまた、宮沢を見つけるなり息を呑む。

 ジュ、と床の湯が焼けていく。炎で炙られたような湯の温度が宮沢の肌を苛み、汗が素肌を伝い落ちていく。男の炎の異能が漏れ出て、浴場を炎の気配で充満させていた。宮沢が動けば、たちまち形作られた炎が襲い来るだろう。


 宮沢の気持ちに触発されたように、湯の中で影が蠢く。日中ならば見晴らしの良い浴場の外は夜闇に包まれている。しかし、炎に照らされてしまえば宮沢の影は掻き消されてしまう。


 ――ああ、本当に嫌な男だ。


 一歩踏み出した男への悪態を飲み込みながら、宮沢は周囲の影を凝縮して四方に構えた。すっかり水分のなくなった板張りの床を、男の足がゆっくりと静かに進む。男のこめかみにある古傷がくっきりと見える距離まで近づき、宮沢がひくりと喉を引きつらせた。

 その時。ガラス戸を開けた子供の笑い声が、浴場の張りつめた空気を弾けさせた。


「あっつーい」

「そうだなぁ。温泉に入る時は、温度を確かめてから入るんだぞ」

「はーい。パパ、髪もこもこして! 泡!」

「今日はダメ。あれはお家でしような」


 親子が木製の風呂イスに座り、体に湯をかけ始める。男は未練がましく宮沢から視線を外し、手早く髪と全身を洗うと、親子よりも早く湯船へ入った。宮沢とは斜めに位置し、足を伸ばしても触れない距離ではあった。視線も空へ向けられている。しかし、男の全身から発せられる意識は、宮沢の髪の毛から滴る湯の一滴さえ捉えていた。

 先ほどとは異なる意味で、宮沢はたっぷりとした溜息を吐く。縁に置いていたタオルを取って湯から出た宮沢の背中を、男の双眸はガラス戸で遮られるまで見つめ続けていた。





 広間には、長方形のローテーブルが六つ並べられていた。すでに食器類がセットされているが、どこにも一人用の席はない。従業員に笑顔で案内された卓に宮沢がつくと、二人分の料理が運ばれ始める。

 一人用の熱された鉄板が向かい合わせに用意され、従業員が肉の説明を行いながら焼き始めていく。無人の向かいへの嫌な予感で気もそぞろになっていた宮沢は、当然のように現れた人物への溜息を寸でで飲み込む。

 そんな様子をじっと見つめつつ、浴場で遭遇した男――谷崎が、浴衣の裾を落ち着いた所作で払いながら、宮沢の向かいに座った。


 三種類の刺身、天ぷらに焼き魚。他にも漬物や蓋で中身の分からない汁物、旬のフルーツなどが上品な皿に盛りつけられている。鉄板の上では、分厚い牛肉がじっくりと焼かれている。宮沢が注文した日本酒の瓶の横には、淡い青味を帯びたガラス製の猪口が二つ添えられていた。

 賑やかな卓上へ冷ややかな空気を被せるように、二人の間には沈黙が折り重なっている。小さく息を吐いた宮沢が先に箸を取り、まずは汁物の蓋を開ける。


「まさか、名前も経歴も嘘だとは思わなかった」


 まだ能力のコントロールが下手なのか、という言葉を真鯛と一緒に咀嚼する。そして、炎の味を帯びた真鯛を素知らぬ顔で嚥下した。

 谷崎は最後に会った三年前より精悍な顔つきになっていた。頬から青年の幼さが削ぎ落され、双眸は相手の嘘を許さない鋭さを纏っていた。鉄板の上で焼かれている肉の色の変化を尻目に、宮沢は温いブリを頬張る。


「帰って来い」

「言うこと聞かなきゃ無理やり連れて帰る、みたいな顔されてもね。オレの帰る場所はお前のところじゃないよ」

「じゃあどこだ。連合から追放された男のところか。それとも別の、」

「刺身が熱い」


 は、と谷崎が表情を引き締めると、刺身から炎の味が消える。宮沢が焼けた肉にたっぷりのタレをつけて食べていると、ようやく谷崎も肉を鉄板からタレの器へと避難させた。しかし、そのままタレの中へ置き去りにして箸を置く。


「お前が祓い師を続けていることは知ってる。でも、それならどうして俺から離れる必要があったんだ。……あの日(・・・)、何があったんだ」


 タレの中に沈んでしまった肉を眺めつつ、宮沢は猪口へ並々と注いだ日本酒を一気に呷った。甘口とは言え、濃厚なアルコールは喉をヒリつかせた。そして、谷崎の口には合わないだろうと内心独り言ちる。

 谷崎の醸し出す沈痛な空気を払い除けるように手を振った宮沢は、二つ目の猪口に酒を注いだ。そして、縁のギリギリまで酒が張った猪口を指で谷崎の方へ押し、へらりと笑う。


「せっかくの旅館で野暮な話は止めろよ。それよか、最近どう。谷崎くんのお世話してあげるぅ、って女の子に群がられてんじゃねーの? お前、しっかりしてそうに見えて案外抜けてるからなぁ。マンションの隣の子も、しょっちゅう料理のお裾分けに来てたし。あ、もう引っ越したか。シャワーの出が悪いっつってたもんな」

「興味ない。引っ越してもいない」

「何でだよ」

「お前が帰って来るかもしれないだろ」


 宮沢が目を細めて、谷崎は腕を伸ばして宮沢の小鉢を取っていく。それは大根の漬物だった。宮沢が苦手で、しかし食べ物を残さない主義であるため、ほとんど噛まずに飲み込んで食べるものだ。

 一緒に生活していた頃のように、空の器が宮沢の前へ戻された。そして、ようやくタレから引き上げられた肉を食べて眉間にしわを寄せ、酒で流し込もうとしてさらにしわを深くする。思わず笑った宮沢に、谷崎は眩さを感じたように目を細めた。


 「っ」ペースに乗せられていると気づき、宮沢は視線を外して最後の肉を口へ運ぶ。せっかくの分厚い肉は、気分同様に味が褪めていた。





 シャワー状の雨音が夜に降り注いでいた。寝返りを打つと、冷たいシーツが宮沢の頬から体温を奪っていく。

 しおりが冒頭に挟まれた文庫本の横で、デジタル時計は深夜の二時十三分を表示していた。従業員も客室近くを通ることはなく、初冬であるため虫の声も聞こえない。音もなく瞼を開けた宮沢は、そのまま体を起こして部屋を出た。


 スリッパの音が、人通りのない廊下を進んでいく。小さくあくびを噛み殺した表情は眠たげだが、迷いなく右へ左へと角を曲がる。

 突き当たりで足を止め、鍵がかかっている従業員用のドアを開けて外に出ると、浴衣の裾が夜風ではためいた。全身に目視できないほど薄く影を纏わせ(・・・・・)、建物の影を歩き、やがて開けた場所へとたどり着く。


 そこは、離れに続く中庭だった。飛び石の周囲には砂利が敷かれ、数種類の低木が見事な和風の造りになっている庭だが、今日は雨で見晴らしが悪く全貌は見えない。奥には露天風呂付きの部屋があり、特等部屋として雑誌に掲載されていたが、今日は無人だった。

 しかし、宮沢が視線を向けているのは、ただの庭ではなかった。


 中庭の中央に、ポツン、と異形が佇んでいる。

 一見すると、腰をかがめた人影のようだった。しかし、雨の中でもすぐに気づく。異形は全身真っ黒で、無数の目が散らばっている。腹辺りに斜め向きでついた口は、ブツブツと呪祖のような言葉を吐いていた。

 旅館のオーナーの情報通り、宮沢の存在に気づくなり、異形は黒い体から伸ばした腕を宮沢へと振るった。


 ふ、と短く息を吐いた宮沢は、建物の影に手のひらを翳す。すると、影が蠢いて宮沢の手のひらに集まっていき、刀を形成する。攻撃を避けながら異形の腕を切り落とすが、ダメージを受けた様子はない。

 相性が悪いな、と宮沢は内心ぼやく。異形には様々なタイプがあり、今回は宮沢と同じ影型。地道に異形の体を削っていくしかないが、周囲はとっぷりとした夜に覆われている。


「朝まで持久戦かぁ? 勘弁してくれよ」


 思わず天を仰いだ宮沢は、視線を向けずに異形から向けられた攻撃を切って弾く。切り落された腕は霧散しかけたところでコントロールを奪い、宮沢の足元の影へと吸収された。その間にも、周囲の闇が異形へと吸い寄せられていく。


 一進一退もない攻防が続き、宮沢が鬱陶しげに顔を顰める。その時だった。

 突如何もないところから膨れ上がった炎が、一瞬にして中庭の闇を掻き消した。絶叫する異形と対を成すように、雨を浴びた谷崎が離れの影から無音で現れる。

 宮沢は一瞥することもなく、炎によって深まった影を凝縮し、炎が消された瞬間に鋭い刃として異形へ降り注いだ。声をかけ合わずとも、二人は互いの動きを読み取って交互に攻撃を繰り出す。それは、相棒だった三年前と変わらぬ動きだった。


 異形の腕らしきものが振りかざされ、宮沢はとっさに砂利の上を転がって避ける。その隙を見逃さず、炎が異形の腹を貫くと、黒板を爪で引っ掻いたような絶叫が夜闇を轟かせた。

 体を左右上下と出鱈目にもがかせた異形が、苦し紛れに腕を振り回す。しかし、それも炎の追撃によって掻き消されていく。闇を吸い寄せる間もなく炎に炙られた異形は、あっという間に体躯を削られて行き、霧散した。


 異形が消滅すると、炎もまた姿を消す。あとに残ったのは、戦闘によって荒れた砂利と降り続く雨音、浅く息を吐いた宮沢と谷崎だった。

 乱れた前髪を掻き上げた宮沢は、炎が掠った低木の葉を摘まむ。


「枝まで焦げてら。……おい、千切るなよ。枝傷むって」

「放火だなんて騒がれたら困るだろ」

「オレが切ればいいだろうが」


 ナイフ状にした影で、枝の先端を整えるように切り落とす。そして、切り離した枝を谷崎に手渡すと、枝は一瞬にして燃やされ灰も残らなかった。

 宮沢は戦闘のせいで濃くなりすぎた影を使い、砂利を雨のせいと誤魔化せる程度にならす。異形など存在しなかったかのように元の姿を取り戻した中庭は、日が昇ってからお祓いをすれば依頼が完了する。

 影で雨を防いでいる宮沢と違い、谷崎は頭から爪先まで雨ざらしになっていた。


「あーあ、ずぶ濡れじゃん。こんな時間に温泉なんて、贅沢な夜になったな」

「乾かして寝る」

「いや、汚ぇだろ。洗えよ」

「相変わらず綺麗好き、」


 言葉の途中で動きを止めた谷崎に、首を傾げる。「変えたのか、煙草」うるさいほどの雨音の中、その声は不思議なほど真っ直ぐと宮沢の耳に届いた。「変えたよ、とっくにな」踵を返した宮沢が歩き出すと、数秒遅れて足音がついて来る。

 建物に戻る際、雨を蒸発させた谷崎が宮沢の腕を掴んだ。宮沢は振り向いたが何も言わず、谷崎も物言いたげに唇をはくりと開いたが、結局そのまま腕を離した。


 宮沢は来た時と同じく、足音密かに人気のない廊下を進んでいく。初冬の夜は、宮沢が使う影のように冷たかった。谷崎はついて来なかった。





 満面の笑顔を浮かべたオーナーに見送られ、チェックアウトを済ませた宮沢は、温泉街の坂道を下っていた。まだ町も起きていない早朝の風に肩が竦む。昨日の大雨が嘘のように、今朝は平均気温を五度も下回る寒さで、両耳のピアスがキンと冷えていた。

 煙草が恋しくなりながら、お礼に貰ったみかん入りの紙袋を抱え直す。こぼれ出しそうなほど入っているため、落ちれば一瞬で坂道を転がって行くだろう。指先が赤くなっている手で、上からはみ出そうなみかんを押さえた。


 道中で朝食用のハンバーガーとホットミルクティーを買い、駅へ向かう。

 次の行き先は、隣県の山奥にある別荘だった。浮浪者が不法侵入して暮らしていたが死亡し、遺体が発見された後、怪異が発生するようになったという依頼だ。

 宮沢たち祓い師が対峙する異形は、人が死亡した場所で発生しやすい。昨夜異形と戦った中庭も、近所の痴呆症の老人が徘徊してたどり着き、そのまま心臓発作で亡くなった場所だった。


 到着したばかりの新幹線に乗り込み、後方部の窓側の席に座る。前の客がよほど好んで飲んでいたのか、ほのかにコーヒーの香りが残っていた。そこにみかんの香りが混ざり、宮沢の気分を癒す。

 手早く朝食を済ませたらひと眠りしようと、あくびをしながら座席のテーブルへ手を伸ばしかけた時。隣の席に誰かが腰を下ろし、宮沢の視線を吸い寄せた。


「お前なら早朝に出ると思った」

「……ストーカーかよ」

「次は福岡か。部屋を取っているならツインに変更しておいてくれ」

「何当たり前のようについて来ようとしてんの、帰んな」

「お前が一緒なら帰る」


 通せんぼでもするかのように座席のテーブルが下ろされ、駅弁の入ったビニール袋が置かれる。見慣れた緑茶のペットボトルは冷えており、暖房によってわずかに結露し始めていた。

 早速弁当を開け始めた谷崎に、宮沢は顔を手のひらで覆って盛大な溜息をついた。谷崎は物静かに見えるが、その実、我が強い。何食わぬ顔で、宮沢の膝に乗っていたハンバーガーショップの袋を宮沢の前のテーブルに乗せ、一緒に朝食を取ろうとしている様子がそれを物語っている。


「相変わらず朝食が少ないな。おにぎり食べるか?」

「いらないよ。ってか、お前こそ買いすぎだろ。弁当におにぎり三個って、運動部の高校生かよ」


 宮沢は顔全体で渋々という感情を表しながら、袋の中からハンバーガーとミルクティーを取り出す。まだ温かいミルクティーの香りだけが宮沢を慰めていた。


 発車時刻になり、ゆっくりと走り出した新幹線の窓から、駅が遠ざかっていく。一時間とかからない旅の道中で、谷崎を撒く方法を考えなければならない宮沢は、チーズが固まりかけたハンバーガーに齧りついた。

 組んで仕事をしていた三年前まで、二人はこうして遠出することがしょっちゅうだった。寝台列車で夜中話して朝を迎えた日、大雪で線路上に止まってしまった電車の中で二時間過ごした冬、大仕事のあとで終電に乗り遅れて近場のカプセルホテルで泥のように眠ったこと。

 当時は金がなく、宮沢は大飯食らいの谷崎のため、カサ増しご飯を毎日のように作っていた。谷崎は谷崎で、寝食を疎かにしがちな宮沢の面倒を見ていた。


 無意識で煙草へ伸びていた手が強張るように止まった。何でもなかったようにミルクティーを持ち、カップをゆったりと回して甘くて温い香りを広げる。

 こうやって感傷が鳩尾で燻る時、思い出されるのは三年前の別離の日だ。しかし、横でモリモリと朝食を頬張っている谷崎の姿が視界をチラつけば、そんな空気はコメディーのように崩れてしまう。


「だから嫌だったのに」


 溜息交じりの言葉を聞き取れなかった谷崎が振り向くが、宮沢は気づかぬふりをしてミルクティーを飲む。


 五年前、宮沢は最愛の妹を殺された。谷崎と出会ったのは、犯人を捜す過程で祓い師の連合に入った時だった。相性の良さから組んで活動するようになり、節約のための同居も始め、依頼は少しずつ増えていった。

 宮沢が一人で何かしていることに気づいていながら、谷崎は何も尋ねては来なかった。その信頼にやつれていた心がじわりと癒され、犯人捜しを明かしてもいいかもしれないと思い始めていた頃。


 妹を殺した犯人が、谷崎と近しい人物であるという情報を掴んだ。


 谷崎のこめかみに傷痕を残すほどに戦ってまで別離したのは、犯人を殺す時に躊躇わないためだった。中学生という若さで殺された妹の墓前で、敵を取ったと報告することが、宮沢の唯一の本懐だった。


 そして、三年が経過した。

 結局、犯人候補は三人から絞り込めないまま、停滞の時間が長く続いている。犯人を捜すため、宮沢が清濁選ばずに情報を掻き集めていることも、谷崎はいまだ知らずにいた。


 すっかり冷えたハンバーガーを食べ終え、ミルクティーを啜る。谷崎は三個目の鮭おにぎりに齧りついていた。窓の外は街中の風景が流れていき、ガラスには薄っすらと宮沢の俯いた横顔が反射している。

 谷崎の前から行方をくらます方法を考えながら飲むミルクティーは、煙草よりもほろ苦かった。



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