水が抱く記憶
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悪態をつく蒼乃の声を、背で聞きながら――。
黎一は改めて、塔の屋上を見回した。
(……ったく、わざわざ最上階まで行かなくたっていいだろうに)
床は今までの階層と同じく金属製だが、幾何学模様に似た紋様がいくつも描かれている。すでに光を失ってはいるが、ちょうど上天に張られた水に浮かぶ模様と連動しているように思えた。床の模様が光を失っているのは、おそらくフィーロの力の影響だろう。
(あの水のドーム、もしかして地下にあった青水晶が変形したのか? 床の紋様と連動させて、動きを安定させてる……屋上が御座か)
ドーム状に張られた水の中には、青白い影が渦を巻くように動き回っている。
そうこうするうちに、背後に二つの気配が現れた。
「すまない、遅くなった!」
「フィロちゃん、アオノさん! ご無事ですかぁ⁉」
「はあっ、はあっ……。ちょっと、もう……みんな遅すぎ……」
アイナとマリーの声と同時に、どさりと音がする。蒼乃が床にへたり込んだのだろう。
その直後に、濡れた黒髪を振り乱したフィーロが駆け寄ってくる。
「れーいちっ! おつかれっ!」
「おう、お疲れ。って、どっかのお化けみたくなってるぞ?」
空いた左手で、フィーロの小さな身体を抱き上げる。長い黒髪はあたりの水のおかげか、ぐっしょりと湿り気を帯びていた。そのせいで前髪が張りつき、某ホラー映画の悪霊さながらの見た目になっているのだ。
「んむう、おばけじゃないもんっ!」
「はい、髪ぶるぶるしない。……あのでっかいのが、おねえさんか?」
上天の影を見上げながら聞くと、フィーロは途端に顔を曇らせる。すでに竜の姿になっているせいか、女性に対する怯えはない。
「んぅ……なかなおり、できなかった」
「おねえさん、一緒に来てくれないと嫌だって?」
「うん。るなとは、なかなおりできたのに……」
「でも、ルナとは仲直りできたんだな。えらいぞ」
濡れた髪に額をこつんと当ててやると、フィーロは寂し気に微笑む。
その時――。
上天を覆う水のドームから飛沫が逆さに噴き上がり、巨大な水蛇が姿を現した。
『ソウマ……ソウマソウマソウマ……ッ!』
「一人で盛り上がってるところ悪いが、俺は父さんじゃない」
女性だった時の面影をまるで残していない蛇の面を見ながら、言い放つ。すると、黎一の傍らにキトンを纏った美青年の姿が現れた。
『……姉さん、もうやめよう』
『アステリオッ! 閉ざした道を開いたのはお前かッ!』
『こんなことをして何になる。今はもう、ボクらの時代じゃない』
『下賤の者どもの時代など、認めてなるものかッ! すべてはあの者の……ソウマの謀り! 姫様の御力を借り、我らが世を取り戻す!』
『彼は最善を尽くした! 国王陛下や御妃様は、おそらくご存知だったはず……。その上で、ソウマを信じたんだ!』
『そんなはずがあるかっ! あの聡明な陛下が……ッ!』
「……さっきから聞いてりゃ、人の親をずいぶんといいように言ってくれるな」
ゆらりと、一歩前に立つ。大水蛇の視線が突き刺さるのが、肌で分かった。
「教えろ。父さんは……八薙聡真は、何をした?」
黎一の問いに、大水蛇はぎりりと歯を食いしばる。
『ソウマは有能だった……ああ、有能だったよ。お前と同じ力を振るい、仲間とともに数多の魔物を討ち果たした。優れた才覚で、我らが世の技術の発展にも大いに貢献した』
「だったらいいだろうが。なんで恨む?」
水のドームの向こうで、雷鳴が一度鳴った。
共鳴するかのごとく、大水蛇が吼える。
『だが……ソウマが旅立ったとされたあの日に……全部消えたッ!』
「おい、ちょっと待て……」
『家族も、友も、愛しき者も……なにもかもがッ! 彼方より押し寄せた光に呑まれて、唐突にッ!』
「待てって! お前ら、結局父さんがなにやったのか知らねーのかよ!」
『……その通りだ。レイイチ・ヤナギ』
言葉を継いだのはアステリオだった。
その顔には、残念と虚脱が同居している。
『彼は、仲間たちとともに突然消えた。「面倒な仕事ができた、けど必ず帰る」って言葉だけ遺してね』
「父さんが消えた日に、お前らの文明が滅んだのは分かった! でもだからって父さんのせいとは……!」
『そうだ、まったくその通りだよ。言葉を遺したのだって国王ご夫妻や、少数の縁ある者のみらしい。実際ここに集った思念たちのほとんどは、それすら知らなかった』
「だからって……!」
『だからこそ、だよ。ここに集った皆が怒るのは……何も知らされずに滅んだが故、さ』
アステリオの言葉に同意するかのように、大水蛇がふたたび吼えた。
蛇の目からは、いつの間にか大粒の涙があふれている。
『なぜ、なぜ消えた……なぜ何も教えてくれなかった……。なぜ……我らを……置き去りに……』
(ああ、そうか……。こいつら、俺と同じか)
あの夏の日、何も告げられずに置いていかれた。
何も知らぬ母の怒りは、黎一へと向けられた。
そして今もまた、慕情を反転させた慟哭を突きつける者がいる。
「やれやれ……。俺も被害者なんだがな」
『それだけ皆に愛されてたってことだよ。キミのお父さんは、ね』
達観したように笑うアステリオを、恨めしげに睨みつける。
「それを聞かせるために、俺をここまで連れて来たんすか」
『言ったろ? 業は背負ってもらう、ってさ……』
アステリオはいたずらっぽく笑うと、表情を引き締めて大水蛇へと向き直った。
『さあ姉さん、終わりにしよう。彼に力を預けて、ボクとふたたび眠りにつこう』
その言葉に、むせび泣いていた蛇の顔がふたたび激情の色を帯びる。
『……ならぬ。ならぬならぬ……ならぬッ! 何も告げずに去った罪、我らの世を滅ぼした罪ッ! かの者の血族の命を以て贖わんッ!』
『姉さんっ! よせっ!』
水のドームに描かれた紋様が、光を放つ。蛇の身体を流れる水模様が、いっそう輝いた気がした。
『そして……ふたたび、我らが世に光をッ!!』
蛇の咆哮とともに、その身体がひとまわり太くなる。
浮かび上がってきた水塊が結びつき、無数のヒトガタを生んでゆく。
『ダメか……。ゴメンよ、やっぱり手を借りることになりそうだ』
「別にいいっすよ。当事ですら何も分からなかったことが分かっただけ、収穫だ」
ぶっきらぼうに応じると、愛剣がちりっと震えた。
『ま、オチは予想してたけどな。あの夢見がちでガンギマったお前の姉貴が、すんなり応じるものかよ』
”剣”――もといダイダロスの声が脳裏に響いた。
途端、大水蛇の表情が苛立ったものに変わる。
『その声……忘れもせぬッ! ダイダロス! 弟を誑かしたのは貴様かッ!』
『ヘッ。勝手に暴れ回って勝手にイチャモンつけるたあ、いい度胸だ! そういうとこだぞ、アエリアッ!』
古の存在たちの間に、見えない緊張が生まれる。
火蓋が切れることを察して、フィーロに視線を移した。
「フィロ、マリーさんのそばに行ってろ」
「みんな、おねえさんとけんかするの?」
「ああ。そうするしかなさそうだ」
フィロに応じると、蒼乃とアイナが前に進み出る。
「やっぱり、こうなるよね~……」
「やむを得んな。元より期待はしていなかったが」
蒼乃は元の短杖の他に、左手に青い宝石がついた鉄鼠色の短杖を持っていた。
アイナが持つ剣の刃にも、すでに黄金の輝きが宿っている。
「早く終わらせて、戻りましょう! ロヴィたちを助けなきゃ……!」
背後のマリーも、先ほどより元気な声で錫杖を構えた。
会話する最中、魔法がかかるのは肌で感じていた。大水蛇と問答するうちに、蒼乃とマリーで全員の回復と補助を済ませていたのだろう。
『おうおう、準備のいいこって。さあっ! 来るぜええッ!』
『ゆくぞ……ソウマの子よッ! その血を御座に捧げ、我らが新しき世の礎とせんッ!』
ダイダロスの濁声と、大水蛇の咆哮が重なる。
それが、戦いの始まりを告げる鐘となった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
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