新たな日常
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夏の夜、八薙黎一は浴場で頭から湯を被っていた。
暖かな湯の感触が、頭を、うなじを通りすぎる。ざんばらな黒髪についていたシャボンの泡の香りが、ゆっくりと身体を伝って流れ落ちていく。
「ふぅ……」
泡が洗い流されたことを確認してから、以前より随分と引き締まった身体を少し温めの湯へと沈める。
白い大理石でできた広々とした浴場は、さながら旅館のようだった。洗い場にはシャワーが完備されており、魔法による追い炊きも可能ときている。浴槽の広さは黎一が足を伸ばしても、なお余裕があった。
(中世みたいな異世界に来て……ここまでいい風呂に入れるとはな)
今いる浴場がある屋敷は、元いた世界に在る場所ではなかった。突如、学校の級友たちとともに転移した異世界、ゲフェングニル。そこに存在する大陸の中央部に位置する、ヴァイスラント王国の首都にあるのだ。
この異世界に『勇者』として降り立ち、冒険者となって、はや三ヶ月。紆余曲折を経て英雄に祭り上げられ、あれよあれよと言っているうちに屋敷持ちである。
(他の級友の暮らし考えると、ちょっと悪い気もするけど……ま、役得ってことで)
一般市民のほとんどは、公共浴場の利用者だ。冒険者として日銭を稼ぎながら宿で暮らす級友たちも例外ではなく、その多くが宿に備えつけの共同シャワーを利用している。かといって貴族の屋敷でもここまで豪奢な浴場は珍しく、中にはちょっとした湯船があるだけの屋敷も多いらしい。
おそらくこの屋敷の前の主人は、よほどの風呂好きであったのだろう。
(ほんと、毎日こんな感じなら、この世界もそこまで悪く……は……)
――などと考えていると、ざばざばと浴場に響く水音が思考に覆いかぶさっていく。
音のほうを見れば、浴槽の片隅で縁に手をつき水を蹴立てている者がある。年の頃なら、三つか四つの少女だ。腰に届くほどの長さの黒髪を、簡素な髪留めで留めている。
「……フィロ。バタ足、終わり」
水を蹴立てる少女を、愛称で呼ぶ。
少女の名はフィーロという。異世界で最初に遭遇した事件で、魔物の襲撃によって焼けた村から助けた娘だ。なんでも魔法の源である魔力を打ち消す力を持っているらしく、王国からの依頼により同じ屋敷で暮らしているのだった。浴場で足を滑らせた日には目も当てられないので、こうして一緒に入浴中というわけだ。
「んんぅ~。はぁい」
フィーロは口を尖らせながらも、素直に従って黎一に身を寄せてくる。
極度の女性嫌いである黎一にしてみれば、本来は女性の裸身など見た日には呼吸が荒くなり、ともすればその場から動けなくなる。だがフィロは女児であるせいか、そうした反応は微塵もない。もちろん、劣情などもまったくない。
「ねね、みてたみてた? ばたばた、いっぱいできるようになったよ」
「縁に手をつかなくなって、バタ足で進めるようになったら合格だな」
「えぇ~? ぷか~ってするだけじゃだめなの?」
「それは浮いてるだけ」
「ちがうもん! まえにかわでおよいだとき、すいーってできたもん!」
「それは蹴伸び。すいーって行った先で止まったら、そこから進めないだろ」
「んぅ~。およぐの、むずかしい」
「すぐ、できるようになるよ」
言いながら額を撫でると、フィーロはにぱっとした笑顔になる。
実際、一緒に遊んでいても運動神経は悪くないどころか、すこぶる良い。少し練習すれば、すぐ泳げるようになるだろう。
その時、浴場の戸を叩く音が思考を遮った。
「ちょっと~? 身体洗い終えたんなら、早く上がってほしいんですけどっ! もう洗いもの終わって待ってるんだからさ~」
女子としては可もなく不可もない声音は、戸の向こうから聞こえた。
見れば曇り戸の向こうに、うっすらと黒髪の女性のシルエットが浮かんでいる。
(げっ……。もう来やがった)
蒼乃月――。共に転移してきた級友たちのマドンナにして、勇者の特権である『勇紋』の力で強制的に一対となった、黎一の相方だ。
美人、有能、いい性格と、あと一拍子が足りていない残念な女子である。今は黎一とともに、ひとつ屋根の下でフィーロを預かりながら暮らしている。
「えぇ~っ⁉ フィロ、まだばたばたのれんしゅうしたい!」
「毎日してるんだから、もうしなくていいで~す! 早く出てくださ~い!」
家事とフィーロの面倒は、相談のうえで日替わりの当番制になっている。
ざっくり分けると、片方は食事と各種掃除の当番で、もう片方はフィーロの入浴および寝かしつけ当番だ。食事は買い食いという抜け道があるため、どうしても風呂当番のほうが負担が大きくなるのだった――なお洗濯は、各自の分をそれぞれでやることになっている――。
(風呂当番のほうが大変なんだからさあ……。ちょっとはゆっくり入らせてくれよ……)
フィーロと蒼乃が言い合う間、心の中でため息をついた。
黎一は、蒼乃の後に風呂に入ることを許されていない。このため入浴時は、常に蒼乃に煽られる定めにあった。故に風呂当番の時くらいは、と思うのだが、どうやらそんな理屈は通用しないらしい。
「てゆーか、明日は予定びっしりだってこと忘れてませんか~? フィロちゃんの検査とお焦げちゃんの検査、被ってるんでしょ?」
(うへ、そうだった……)
蒼乃の声を聞いた途端、明日の予定を思い出してさらに暗澹とした気分になる。
ちなみに『お焦げちゃん』とは、とある遺跡で手に入れた黎一の愛剣だ。名の通り焦げついたような刀身を持つために、蒼乃からはこう呼ばれている。これまた色々と特殊な力を持っているため、遣い手の黎一ともども定期的に検査をしているのだった。
「はい! 思い出したらさっさと出る!」
沈黙が肯定と受け取られたのか、戸がふたたびノックされる。
明日は朝からお焦げちゃんと黎一の検査があり、午後にはフィロの定期検査である。早起きのため、さっさとフィーロを寝かしつけなくてはいけない。
「はぁ~い。……れーいち! おふとんで、ごほんよんで!」
「今日はダメ! 早く寝なさいっ!」
「ええ~っ? まえによんでもらったの、まだとちゅうなのに~」
「……フィロ、今日はおとなしく寝るぞ。さ、出よう」
こうなってしまっては、取りつく島もない。
暖かな温もりを湛えた大理石の浴槽に別れを告げると、黎一はざぶりと身を起こした。
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