西に昇る陽
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朱に染まった峡谷に、声が響く。
それは徐々に小さくなっていき――やがて、聞こえなくなる。
崖の縁で見守っていた黎一は、はじめて小さなため息をついた。
(人、殺した。しかも、知ってるヤツを)
空いた左手を見つめる。かすかに、震えていた。
人の死を、目の前で見たことはある。だが自らの手で殺したのは、初めてだった。今は自らが振るった力よりも、そのことが怖い。
(ここから先……。あと何回、超えればいいかな。父さん)
戦いの最中で響いた父の声を、はっきりと覚えている。
立ちはだかる存在はきっと現れる。魔物も。人も。
別たれた果ての先。たどり着くまでに、どれほどの屍を積めばよいのか。
「……おつ、かれ」
ぬかるみに似た思考に耽っていると、背後から声がした。
見れば、フォルティスの外套を羽織った蒼乃である。後ろには、フィーロの手を引くマリーと、アイナ。さらに後ろには、天叢を除いた級友たちとフォルティスが続いている。
「ああ。無事か」
「うん。ねえ……?」
「どうした」
「怖い顔、してる」
蒼乃の言葉に、はじめてフィーロがマリーから離れないことに気づく。
今の自分は、どんな顔をしていたのだろうか。
「……そんなに、か」
「でも、ありがと」
礼の言葉とともに。蒼乃が、すっと近づいてきた。
いつもの距離を超えて、黎一の肩へと顔を寄せる。
「え、いや、ちょ……っ……」
肌が粟立つ。足が震える。
数多の魔物を討ち、知った顔を手にかけても。女性を前にすると、これほどまでに脆い。それが、妙に情けなく思えた。
「こわ……かった……」
蒼乃の声が、肩が、震えている。
不思議と、手が動いた。なにに震えているのか分からぬ左手を、蒼乃の右肩に置く。
震えが収まっていく。自らの手も、蒼乃の肩も。
「もう、大丈夫だから。だから……」
「……ん」
蒼乃が、肩から顔を離す。
フィーロがマリーの元を離れ、とててと走ってしがみついてくる。
それをきっかけに、にわかに後方がざわつき始めた。
「わぁおぉ~。夕陽をバックにとか映えますぁ~……」
「妻ガ恋しくなるな」
「まだ敵地だというのに、見せつけてくれる」
「進歩、って言うにはちょっと進みすぎな気がしますね」
「わたしもレイイチさん、崖から突き落として一緒に落ちればいいんでしょうか……」
「おう、そこ。物騒な発想やめろや」
眺める仲間たちは各々、複雑な笑みを浮かべている。
なにか言わないと、余計な誤解をされかねない。
「あ、いや、その……これは……」
口を開きかけた時。
不意に、崖のほうに熱を感じた。
『勇者よ、見事であった』
背後からの声に、思わず振り向く。
崖の先の中空に、緋色の長衣を纏った老爺がいた。肩先まで伸びた白髪と元から赤い衣が、夕陽を受けて燃えるような輝きを放っている。
その左に、今度は藍色の砂とも埃ともつかぬものが群れ集う。
『大したもんだぜ。あの勾原、ブッ倒しちまうなんてな』
藍の砂は形を取り、壮年の男の姿になった。刈り込んだ短髪にごつい顔立ち。いかつい体格に、老爺と同じ長衣を纏っている。
その間に、老爺の左には幾重にも絡まる緑の蔦が茂り始めた。
『彼の者の軛から解き放ってくれたこと、礼を言います』
絡まった蔦は人の形を取り、程なく妙齢の女性の姿となる。腰まである緑色の長髪と、長衣に包まれた豊満な白い四肢が、絶妙なコントラストを生んでいる。
「あんたたち……。ひょっとして……」
『うむ、リブクシャンと申す。先ほどまでは、火喰赤鵬と呼ばれておったがの』
老爺もといリブクシャンが頷くと、短髪の男が頭を描き始めた。
『オレはバージャ。さっきの姿だと天覆黒蛇だっけか? 魔性と化した後の名なんぞ、どうでもいいがよう』
『あら。ワタシは結構、気に入ってたわヨ? 意志の自由はなかったけど。……あ、名乗るのが遅れたわネ。ヴィヴァンよ』
くつくつと笑うヴィヴァンは、見た目からして十角白獣だろう。
「竜人……。魔力の流れの中で魔物と化したか」
『いかにも。在りし日の残り香が漂う、この地に棲んできた』
「ここが魔物の巣窟になったのも、あなた方の影響だったんですね……」
『なんの毒気に当てられてたのか、強そうなのには片っ端からケンカ売ってたからなあ。他の魔物にとっちゃ、都合が良かったんだろうよ』
『そこに魔性使いの紋を持ったヤツが来て、あのザマよ。こんなこと言えた義理じゃないけど、感謝してるわ』
(この三人……。アンドラス湖のアエリアやアステリオと同じか)
かつて戦いの果てに、力を託してくれた竜人の兄妹を思い出す。
他の竜人の意思たちと交信する術がなかったがゆえ、お山の大将で済んだ、と言ったところだろう。
と、そこまで話した時。リブクシャンが、神妙な顔つきになった。
『さて、勇者たちよ。最後にもうひと仕事、残っておるでな』
「もうひと仕事……?」
『ああ。そろそろじゃねえかな』
バージャの言葉とともに――。
崖から望む北の尾根に、いくつもの影が蠢いた。最初は黒いシミのようだったそれは、垂れ流した墨のごとく山肌を染めていく。
そのひとつひとつが魔物であることは、想像に難くない。
「ちょっとちょっとっ! なにあれっ! 百や二百じゃ効かないじゃんっ!」
光河が、素っ頓狂な声を上げる。
その言葉のとおり、今や黒い影は北の尾根をほとんど覆っていた。
『彼の者の使役から逃れた、この山脈の魔性どもよ……。北の尾根は、彼奴めもあまり手を出しておらんかったからのう』
『勾原がいなくなった上、頂上だったワタシたちまでいなくなったからねえ。調子づいちゃってんのよ、きっと』
『変異種も、みんな勾原に捕らえられてたからな。このままいったら、山をあげての大乱闘よ』
「まずいですよ……っ! もし山魔物たちを山脈に惹きつけてたのが、お三方が持つ魔力だったんなら……!」
マリーの一言に、その場にいる全員の顔が引きつった。
それはとりもなおさず、魔物たちが山脈に留まる理由が消えたことを意味している。
「このままじゃ、北や麓まで行かれる……!」
尾根の北端には、魔力湧出点である煮え立つ湖の迷宮跡地がある。そこにはヴォルフ率いるノスクォーツ守備軍がいる。麓には、ルミニアの部隊もいるはずだ。
『そういうことじゃ、勇者よ。この場を納められるのは、そなたしかおらん』
『感じるんだ、六天魔獣の力を』
『あの子たちの力があるなら、やれるでしょ?』
背を押す言葉に、黎一は北の尾根を見た。
巨大な影はまだ動かないが、裾野から蟻のごとく影が増えているのが分かる。
(あれしかねえ……。けどあの場所に撃っても、集まってる奴らしか倒せない。山の形だって変わっちまう。どうすれば……)
ふと、気づく。
今は能力を二つ使える。
二つの力を融合し、新たな力とすることも。
(……やって、みるか)
脳裏にある祠堂の中で、一番奥にある石碑に光を灯す。
炎帝抹消焔――。すべてを消す炎の御業に、火の魔力を増幅する炎巧結界を組み合わせる。
新たな能力は生まれない。代わりに炎帝抹消焔の石碑に灯る光が、一層強まった。
(よし、これで火力は上がる。問題はどこに撃つかだが……)
北の尾根の地形を見ると、魔物たちの大半は西側のゆるやかな斜面に集結している。東側は峡谷に面した断崖になっているせいか、こちらに屯しているのはごくわずかだ。
(西側の斜面だけを焼けばいいな。だったら……!)
「蒼乃、管制室に連絡してくれ。北の尾根近くにいる奴らがいたら、退避させろってな」
言いながら崖の縁に立ち、愛剣を構えた。
能力は強化した炎帝抹消焔と、魔律慧眼を選ぶ。
「勇紋共鳴、魔力追跡……! 紅炎刃!」
刃を遠くに飛ばすイメージを以て、炎の弧を飛ばす。
魔律慧眼の視界の中で、火を顕す赤い弧が飛んだ。弧はやがて、魔物が集う西側の斜面の上空へと達する。
「……管制室から応答! ヴァイスラントの部隊はなし! ノスクォーツ守備軍は魔力湧出点内に退避済み! いつでもやってっ!」
蒼乃の声がした。なにも聞かずに管制室に連絡を入れたあたり、これから何をするのか分かっているのだろう。
「勇紋共鳴、魔力追跡……」
魔律慧眼と蒼乃の能力によって、先ほど飛ばした赤い弧をイメージする。はるか彼方で、先ほど魔力追跡で放った弧を掴んだ。
(ここが、爆心点だ……!)
炎帝抹消焔の射程からは、遠く離れた位置だった。
だが魔律慧眼と魔力追跡であらかじめ爆心点となる魔力を掴んでおけば、そこを中心にして発動する。
剣の鋒を、爆心点へと向けた。
「勇紋権能……!」
不意に、誰かの手が背に触れた。
蒼乃のものだということが、なんとなく分かる。
背を押すでも、しがみつくでもない。ただ支えるのみの手に心を預けて、言葉を紡ぐ。
「……炎帝抹消焔ッ!!!!」
――刹那の間だけ、朝が来た。
爆ぜた炎は巨大な光球と化し、さながら地平線から昇る太陽のごとき光を放つ。
あまねく魔物の影が炎に呑まれ、塵と消えていく。
『西から陽が昇るのを、拝む日が来るとはのう……』
『長生きはするもんだな』
『ワタシたち一応、肉体は滅んでるんだけどねえ』
竜人たちのぼやきを聞きながら。
黎一は日輪となった炎が収まるまで、崖に立ちつくしていた。
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