シングラリア
ほぼ戦闘です。
苦手な方はご注意ください。
『残酷描写』とまではいかないと思いますが…。
「荷物頼む。絶対に魔法使うなよ」
ティナに鞄を押しつけてから、リーはエリアを見る。
「ふたりで町の外に避難誘導、頼めるか?」
「わかった」
いつもの様子は微塵もなく、すぐさま頷いてくれたふたりに短く礼を言う。
「無理はするなよ」
「リーもね」
エリアの返答を置き去りに、リーが駆け出した。
逃げ惑う住民たちに町の外へ出るよう声をかけながら、比較的落ち着いた様子の男を捕まえる。
「請負人だ。何があった?」
「お、大きな黒い獣が暴れてて…」
男から場所を聞き、町の外へ逃げるよう告げる。
近付くにつれ、足元がぬかるんでいるかのように重くなり、ぞわぞわと落ち着かない。近くにいることはわかるのだが、姿が―――。
ふっと翳った光に、飛び退いてから振り返った。
対峙するのは黒い獣。大きさはリーとさほど変わらない。四つ足の割にはしなやかな動き、長く細い尻尾、鋭い爪。塗り潰されたような漆黒の中、仄暗く光る眼。
(…今度はネコ……)
黒トカゲはトカゲらしく壁を這っていたが、今回は建物の上から飛び降りてきた。
もしシングラリアの姿と性質が同じだとすれば、周りを建物に囲まれたここでは不利だ。かといって町の外には住民たちが避難している。
意識はシングラリアに向けながら思案していると、建物の二階の窓に人影を見つけた。
騒ぎに気付いて覗いてみて、この状況を知ったのだろう。異形を見て青ざめている。
「町中に広いところはっ?」
視線をシングラリアに向け直して尋ねたリーの声に、窓にいた女性がはっと我に返った。
「す、少し先に広場が」
「ありがとう! 窓閉めて奥に!」
女性の声に気を取らせないようあからさまに殺気を籠めながら剣を向け、距離を保つ。
女性が窓を閉めた音を聞き届けてから、リーは少し爪先を動かした。
広場の方向を指差してくれていたようだが、シングラリアから目を離すことができずに確認できなかった。ここに来るまでにはなかったので、このまま道なりに先へと追い込むことにする。
半歩歩を詰めるとシングラリアも僅かに下がった。足元が本当はぬかるんでないことを頭に叩き込んでから、ぐっと地面を蹴る。
突っ込んだリーに、シングラリアは横へと跳んだ。建物の壁を足場に体躯の割には軽く屋根へと登っていく。
視界の端にその姿を収めながら走り出すと、屋根の上で追い越した黒い影がかき消えた。
どこへと疑問に思うまもなく降る圧に、咄嗟に剣を横にかざす。
ギイィン、と耳障りな金属音と腹部への軽い衝撃。踏ん張り足りずに少しうしろに押しやられる。
胴部分は下着と服との間に特殊素材の防具を着込んでいる。衝撃はいなしきれないが、傷はない。
振り上げられた反対の爪に剣を当ててそのまま振り切るが、即座に引かれた。離れた隙にまた駆け出す。
狙いが自分であるうちに広場まで連れていかなければ。敏捷さは向こうが上、町中を逃げられては追いつけないし戦いづらい。
追いかけてきていることを確認しながら走り、斬り結ぶこと数度、ようやく広場へと出た。
中央付近で足を止める。屋根が途切れたところでシングラリアは大きく跳び、音もなく着地した。
瞬間を狙い、低い軌道で剣を振る。四肢のどれかを削れば速さも落ちるはずだ。
跳び躱されるのは織り込み済み、力に任せて軌道を跳ね上げる。初めて爪ではなく左前肢に当たりはするが。
手応えが軽いのは浅いせいだけではなく、肉を断つには密度の低い感触で。
何かと思いながら、引き寄せた剣で爪を受け止め弾き返す。
一旦離れて左前肢を見ると、斬った所からは血ではなく黒い靄のようなものが僅かに洩れていた。
さしてダメージはないようで、鈍らぬ動きで飛びかかってくる。潜り抜けるほどの隙間はないので横に避け、後肢を狙うが躱された。勢いのまま剣を振り上げ背に向け下ろすが、届く前に逃げられる。
剣を引き、追いかけて。急に反転したシングラリアにそのまま突っ込む。薙ぐような右前肢の爪を避け、下から跳ね上げるように剣を振り抜いた。
ズッ、と喰い込む一瞬の感触はあったものの、あとは拍子抜けするほどあっさり通過する。
それでも痛みがあるのか、ニギャアと喚いてシングラリアが飛び退いた。先程より大量の靄が流れ出している。
すぐさま追い縋り喉元めがけ突き出すが、切っ先が僅かに掠っただけだった。
少し距離を取られたので、また立て直す。
右前肢から止まらぬ靄を鬱陶しそうに振り払い、シングラリアが獲物を狙うように頭を低くした。
ふっと短い息を吐いてリーが駆け出す。ほぼ同時に飛びかかってきたその爪を避け、剣を振りかぶりながら踏みつけた。
勢いよく振り下ろしたその手に伝わる手応えは、やはり最初だけで。止めきれなかった剣先が地面に突き刺さる。
ギャアァァ、と戦い始めてから一番の悲鳴とともにシングラリアが飛びずさった。リーの足の下、残された左前肢の先が多量の靄に変わって流れていく。
足は削れた。しかし。
(やりづれぇっ)
剣を引き抜き、内心洩れる悪態に舌打ちをする。
思っていたより深く刺さった剣に追撃ができなかった。
視覚と触覚のズレで感覚が狂う。
振り下ろされる爪の硬さも乗せられる重さも確実にあるのに、斬り心地だけが頼りなく。そこにあるべき存在がないのだ。
やはり目の前のコレは魔物ではなく、未知の何かなのだと。
改めて、リーは痛感した。
足先を失ったシングラリアは確実に動きが落ちた。走ろうとしてがくりと体勢を崩したところを斬り上げ、向かってくる爪を思い切り払う。
この先またシングラリアとは戦うことになる。できれば今、少し余裕ができたうちに感覚のズレに慣れたかったが、町中なので断念した。
手負いの相手ほど怖いものはない。この場所での失態は、自業自得の怪我や死だけでは済まないのだ。
爪を弾かれ、二足立ちで前肢を開いた体勢のシングラリア。引き寄せた剣を構え直し、まっすぐに、喉元へ向けて突き出した。
纏わりつく悍ましさが解けて消える。
ぐらり、とシングラリアの体が揺れた。
「うわっ」
剣を抜く前に倒れてこられて、リーはそのまま押し倒された。体躯の割にはやはり重さはなく、苦しいほどではない。
剣の柄を握ったまま、とりあえずは息をついた。
剣の刺さる喉元から立ち昇る黒い靄は、辺りに霧散することなく一方向に流れていた。ぼんやりとそれを見上げながら、これからのことを考える。
道中怪我人はいなかった。多かれ少なかれ恐慌状態の町民たちをあのふたりに誘導ができるのかは疑問だが、何とかしてくれてると信じるしかない。
身体にかかる重さと視界に入る黒い体が徐々に減り、舞い上がる靄が完全に消えた頃には僅かな重みだけが胸の上にあった。
怪訝に思って手で触れ、残るそれが何であるのかに気付いて息を呑む。
覚悟を決めるように、息を吐き。
落とさないよう手を添えて、ゆっくりと身体を起こした。
片手で抱ける小さな体。
首輪をした白いネコが、胸の上で事切れていた。