黄金の糸
―――闇の中にいた。
前もうしろも右も左も、上も下もわからない。かろうじて立っているのだとは思うが、足裏に頼るべき固さはなく。
ただ、一面の闇。
辺りを見回したつもりでも、映る闇には何も見えず。
一歩を踏み出したつもりでも、それを示すべき流れる景色も足の感覚もなく。
手を差し出したつもりでも、己の腕さえ見えぬ始末。
ここは、と、呟いた音すら闇に呑まれる。
一面の漆黒に、気付けば足も動かず。
ただ、そこに在った。
何かをしていたような気がした。
何かを望んでいたような気がした。
だが、どうしてもそれが何かわからない。
己の存在すら希薄になる闇の中。
見えぬ身体が闇に溶けるように、ゆっくりと、心も溶けていく。
何も見えず、何も聞こえず、何にも触れず。
なぜここに、ここはどこ、己は一体どうして。
次々浮かぶ疑問も溶ける。
何を考えていたのか。
なぜ考えていたのか。
考えていたのかどうかすら。
何もかもが、闇に溶け、闇となり、そして―――。
ほんの一瞬の出来事だった。
主体の腹部が大きく開き、牙のような交差する棘がリーを抱え込むように呑み込んだ。
開かれた腹部はまた元のように閉じ、中にリーがいるなど欠片もわからない。
「リー!!!」
駆け寄ろうとしたエリアとティナを制したフェイが、自ら近付く。
青ざめ立ち尽くすミゼットの横を抜け、リーの剣をうしろに放り投げたあとは変わらず主体を斬り刻むレジストに並んだ。
「………可能性は?」
短いフェイの言葉に、レジストは手を休めずにさぁなと答える。
「ふたり目だということに賭けるしかないな」
「影響は?」
「取り込まれたものに外傷はない」
取り乱しもせず、手を休めることもないレジスト。戦うことを生業とする請負人の長であるのだ。死なせる覚悟は今更聞くまでもないだろう。
そして同時に、自ら命を懸ける覚悟も。
見据え、フェイが低く呟く。
「…今のところ、ここにいるとわかる。もう止めはしないな?」
「取り込まれないようには頼む」
「心得た」
言葉とともに、フェイの体が龍へと戻る。
主体と変わらぬ大きさの火龍。主体の頭を爪が喰い込むほどに掴み、そのまま地面に叩きつけた。
目の前は闇だった。
何も見えぬ、何もわからぬ、音さえ聞こえぬ漆黒の世界。
その中に、ただひとり。
間違いなく確立していたはずの、己。
それすら塗り潰す闇の中。
ただ、そこにいた。
呟く言葉も姿形も闇に呑まれ、次第にその存在までも紛れていく。
何もかもが闇に染まり、同化して。見えぬ身体と同じように、心もじわりと闇に堕ちる。
考えること。感じていたこと。すべて染まり紛れていく。
なんの疑問もなく。それが当たり前であるかのように。
身体も心も闇に溶け、徐々に形を崩しゆく、その最中。
―――どうしてるかな?
無音の闇の中、ほわりと浮かぶ小さな声。
―――今、どうしてるのかな?
無邪気な想いが見えぬ細い糸を輝かせながらまたひとつ。
―――ちゃんと、ここで頑張ってるから。
また、ひとつと。
闇に溶けゆく心に届く。
―――だから、だからね。
暗闇に明かりを灯すように。
外との繋がりを示すように。
輝く糸が心へと、祈りにも似た言葉を伝える。
―――また、会いに来てね、リー。
呼ばれた名に、己が誰だか思い出した。
(俺はっっ……)
一気に覚醒する。
自分が誰でどうしてここにいるのか。
ここがどこなのか。
まだ暗闇の中には違いないが、確実に思い出す。
胸の中には、自分を思い遣る温かさと小さな望み。伝わるのは感情だけ、言葉が伝わるわけではないというのに。
ぎゅっと、リーは胸元を掴む。
アディーリアの、声が聞こえた。
自分を気遣うその声が、聞こえたのだ。
おかげで忘れかけていた自分自身を取り戻せた。闇に呑まれず、正気に戻れたのだ。
深く、息をつき。
「…ごめんな、もう大丈夫」
こちらからは届かぬと知りつつ、それでも声に乗せる。
己に言い聞かせるために。
そして何よりも。
「ありがとな」
感謝の気持ちを伝えたかった。
改めて己の状況を確認する。
自分はあの時主体に取り込まれた。なのでここは主体の中だろう。
既にエルフを取り込んでいる主体。まさか自分まで取り込まれるなど夢にも思わず、なんの警戒もしていなかった。
(心配かけてるだろうな…)
請負人なのだから自己責任、己の安全は己が確保するべきだというのに。
謝罪と反省は無事戻れてから。とにかく行くしかない。
自分は一歩も動いていない。今はもう見えないが、あの時見えたアディーリアとの絆の糸、それを辿るように進む。
正直ちゃんと進めているかどうかはわからない。それでも立ち止まっていたくはなかった。
変わらぬ景色では歩けているのかも覚束ないが、それでも己の感覚を信じ足を動かす。
体感的にはかなりの間そうしているように感じ始めた頃だった。
視覚が利かない分、ほかの感覚が鋭敏になっているのかもしれない。
もちろん見えないので確証があるわけではないが。
それでもそこに、何かがいると感じたのだ。
「……誰かいるのか?」
自分同様主体に取り込まれたものがいたのかもしれない。そう思い声をかける。
応えはない。しかし
ざわりと周りの闇が動いたかのような錯覚を覚え、リーは見えぬ周りを見回した。
「俺はリー。請負人だ。名前は?」
誰かがいるという確信はないが、もしいるのなら。もしかしたら自分同様、名を思い出すことで己を取り戻せるかもしれない。
そう考え、名を問う。
暫く立ち止まって待っていたが、やはりどこからも応えはない。
気のせいだったか、と歩きかけたリーに追い縋るように確実に密度を増す闇も、この暗がりの中では見えないが。
それでも周囲の空気が変わったことを肌で感じ取る。
再び足を止めたリー。
「……いるのか」
確信を持って呟くリーに応えるように、何者かの思いが伝わってくる。
自分と同じように闇に囚われ抜け出せなかった、その、末路―――。
もはや闇となってしまったその者。
主体の核たる、エルフの記憶だった。




