アシュトンと素敵な若奥様
「アシュトン」
甘い声で名を呼ばれる。私の腕に抱きつく彼女は、蠱惑的な眼差しで熱っぽく私を見上げた。
「見ろ、魔術狂のウィラードだ。あの冷め切った目、本当にぞっとするな。また奥方を邪険にする気か?」
「あの冷血漢に、ウィラード夫人のような女性はもったいない。夫人も、あんな男のどこがいいのか……」
聞こえてくる雑音が煩わしい。それを振り切りたくてぎゅっと目をつむる。
何もかもを忘れて二人の世界に没頭できるように、彼女を抱き寄せて口づけを捧げた。
*
宮廷魔術師として王宮で出仕しているとはいえ、主たる勤務先は王宮の庭園内にある小宮殿だ。勤務時間中に大宮殿に立ち入ることはあまりない。それでも今日は大きな会議があったので、珍しく大宮殿内をうろつく羽目になった。
「おや、アシュトン殿ではありませんか。お変わりないようで何よりです」
「……」
その声に振り返ると、シエリット殿が立っていた。
彼はイルベイズ男爵家の跡取りで、若手の貴族院議員として宮廷でも注目を集めている逸材だ。
そのうえ、私にとっては義兄でもある。そういった意味でも軽んじることはできない。
「貴方の話はよく妹から聞かされていますよ。あの騒がしくて手のかかる妹の手綱を取れるのは貴方しかいません。セレネのこと、どうか末永くよろしくお願いします」
「こっ……こちらこそ」
シエリット殿の不興を買わないよう、何か気の利いた受け答えをするべきなのだろうが……こんな時でもうまく言葉が出ない。まともに回らない舌がただ忌々しかった。
妹を任せるにはあまりにふがいない男だと思われてしまわないように、必要最低限の返事にとどめる。
ただでさえイルベイズ家の方々は弁が立つのだ。その家のご息女が嫁いだ男が、しどろもどろで支離滅裂な話し方しかできないなんて知られれば、夫として不適格だと言われかねない。
「そうだ。今度、我が家で夕食を共にしませんか? よければアシュトン殿もぜひご出席を。きっと今頃、妹が招待状を開封しているでしょう」
頷くと、シエリット殿は微笑んで去っていった。さすが兄妹と言うべきか、その笑顔は愛しい妻を想起させる。
セレネに会いたい。今日はまだ寝顔しか見ていないから、家に帰るのが待ち遠しかった。いつものことだが。
私の妻、セレネは社交家だ。彼女は華やかな場を好む。私は社交にはあまり興味はないが、楽しそうなセレネを見るのは好きだ。置物としてでも構わないのであれば、セレネが同伴を求める限り付き添う所存だった。
いつも明るく朗らかな彼女は社交界でも人気者で、根暗で出不精な私とは明らかに釣り合いが取れていない。いくら政略結婚だったとはいえ、よりにもよって何故私との縁談を二つ返事で受けてくれたのかわからないというのが正直なところだ。
確かに家格自体は侯爵家である我がウィラード家のほうが上だが、イルベイズ家には爵位に囚われないほどの絶大な力がある。
金と人脈というその力は、この国におけるイルベイズ家の地位を約束していた。しかもセレネは美しくて頭の回転が速くて話術に富んでいる。彼女に焦がれる男は多い。無論、私もその中の一人だ。
あのような完璧な妻がいれば、いつ愛しい妻が自分の元を去り、他の男の手を取ってしまうか毎日気が気でないのが普通なのだろう。もしもそんな日が来れば、私も一生立ち直れないかもしれない。
もっとも、そんな日が来ないことは私が一番よく知っていた。理由こそよくわからないとはいえ、セレネは私を強く愛してくれているからだ。あのセレネが私以外の男に心を寄せるなど信じられなかった。
……やはり早く帰りたい。いつもと変わらないあの素敵な笑顔を見て、幸福を噛みしめたいものだ。
*
私のセレネは今日も可憐だ。
華奢で小柄な彼女を見ていると庇護欲を掻き立てられる。輝くローズピンクの瞳も、きめ細かい真っ白な肌も、穢れのない彼女の魂をそのまま表しているかのようだった。セレネの天真爛漫さには、治癒魔術に匹敵する癒しの効果がある気がする。学会で発表するべきかもしれない。
「お帰りなさい、アシュトン!」
抱きついてきたセレネを受け止め、されるがままにキスを浴びる。この時のために今日も頑張って働いた。セレネの熱い抱擁と口づけは最高のご褒美だ。
私は残業が大嫌いだ。結婚するまではそうでもなかったが、結婚してから嫌いになった。残業などしているとセレネに逢える時間が延びるうえに、セレネと過ごす時間まで短くなってしまうからだ。
だから、会議だの出張だのといった自分一人の力ではどうにもならないような予定を除き、通常の業務は定刻内に終わらせるようにしていた。
私は研究職なので、実験の結果や論文の進捗次第で業務の進行が大きく左右されてしまうが、それでも無理やり切り上げる。勤務先である王立魔術研究所のトップは私なので、誰にも文句は言わせない。
そもそも、延々と残っていても効率が落ちるだけだし、研究に熱中するあまりやめどきを見失って身体を壊していては意味がないだろう。「ウィラード卿がさっさと帰ってくれるおかげで帰りやすいです」と部下達にも好評だ。
「聞いてアシュトン! 今日、兄様から晩餐会の招待状が届いたの。今週末ですって。アシュトンも一緒に行ってくださるでしょう?」
「……」
この、ほのかに潤んだローズピンクの瞳にはどうしても弱かった。セレネの上目遣いはどんな魔術よりも強力に私の心を貫いてしまう。
いつも通り、頷こうとして────なんとなく引っかかるものがある。何か普段と違うような。じっとセレネを見つめると、セレネは表情をこわばらせた。
「セレネ、どっ、どうかした……のっ……か?」
「ううん。なんでもないわよ?」
「……そ……うか。……わ、わかった、参加すっ……る」
セレネは華やいだ笑みを浮かべ、すっとつむじを私に向けた。
今のは勘違いだったのだろうか。内心で首をかしげながらも、求められた通り彼女の頭を撫でる。これも毎日の習慣のひとつだ。よく手入れされたセレネの金色の髪はとても触り心地がいい。
二人で夕食を摂り、団欒の時を過ごし、やがて就寝の時間になった。連れ添って主寝室に向かう。結婚して以降、私達が寝るのはいつも同じベッドの上だ。
その時、ネグリジェ姿のセレネの肩に手を回してキスしたことについて、別に深い意味はなかった。
どうせ朝は私のほうが目覚めが早く、彼女が寝ている間に出勤するので、平日にゆっくり会話できるのは夜の間だけだ。だから、もっと彼女の温もりを感じたかった。あるいは、帰宅直後に感じた違和感を、無意識のうちに払拭したかったのかもしれない。
それなのに。
「あっ……ごめんなさいアシュトン、今日はそういう気分じゃないの」
セレネはするりと私の腕を抜け、私に背を向けて横になった。
恐らく彼女は、私が夜の誘いをかけたと思ったのだろう。そして、それを明確に拒んだ。
「……どうしましょう。やっぱり今日は、一人で寝ようかしら」
小さく呟き、すぐにセレネは起き上がる。そしてそのまま、続き部屋の彼女の寝室に行ってしまった。こんなことは結婚以来初めてだ。
誘いを断られたこと自体はどうだっていい。誰しも乗り気でない時はあるし、そもそも私にもそんなつもりはなかった。
ただ、普段はセレネのほうから可愛らしく甘えてくれる。そんな彼女が、純粋に私を拒絶するだなんて。初めてセレネに突き放された気がして、結局一睡もできなかった。
*
「今日の魔術師長、なんか機嫌悪くないっすか?」
「そうか? いつもと変わらないように見えるが。ウィラード卿は、いつもあの仏頂面だろう?」
普段は他人のことなんて興味も持たないはずの宮廷魔術師達が、やたらと私のほうを見てくる。煩わしさに耐えかねて一瞥すると、みな慌てて視線を戻した。だったら最初から見ないでほしい。
「……」
出勤前、眠るセレネに宛てて手紙をしたためた。何かしてしまったのなら謝るのでどうか許してほしい、と。帰宅して返事を聞くのが怖い。
もし彼女が許してくれなかったら、これからどうやって生きていけばいい?
セレネのいない人生なんて、もはや考えられないのに!
「あのー。魔術師長、そうやって威圧感放つのやめてくれません? 集中できないんですけどー」
「おい馬鹿メルゼム、やめろって!」
研究所の新米魔術師、メルゼム・カーナーだ。彼は最近宮廷魔術師に任命されて、この研究所に配属になった。確か、セレネと同い年の十九歳だったはずだ。
カーナーはこれまで研究所にはいなかったタイプで、なんというか、距離感がよくわからない。
私を含め、少なくともこの研究所にいる魔術師は一人の時間が好きなのに、彼はしょっちゅう周りに絡んでは面倒くさそうに追い払われていた。かといって特別他人と仲良くなりたいというわけでもないようで、別にプライベートの時間を割いてまで人付き合いをする気はないらしい。
「いっ……威圧感……?」
「そうっすよ。何があったか知らないですけど、俺らは無関係ですよね。それなのにそんな風にイライラされたら迷惑です。周りに当たらないでくれませんー?」
他の魔術師達の制止も聞かず、カーナーはへらへらと笑っている。
イライラ……していたつもりはないが、焦燥がにじんでいたのかもしれない。それなら、確かに彼の言うことにも一理ある。
「しっ、仕事に戻れ、カーナー。あの、新型っ、浄水装置……まっ、ま、魔術回路の改良……の、レポート、まだ提出っ、していない……だろう? か……完成次第、私の机にっ、置いておくぅ……よ、よ、ように」
「げ。はいはい、すぐやりまーす」
普段は誰に対しても文書で指示を出すが、カーナーにはそれだけだと伝わらない。ろくに指示も出せない恥ずかしさを振り切るように立ち上がる。カーナーはきょとんと目を丸くした。
「あれ? どっか行くんすか?」
「…………書庫」
他の宮廷魔術師達もいる執務室だと邪魔になるというのなら、もっと一人で黙々と打ち込める仕事をしよう。
ちょうど、今開発中の通信装置の参考資料として、現代語に訳しておきたい古文書があった。今の時間帯は誰も書庫の使用申請書を出していないから、あそこなら一人になれるはずだ。
「うわっ。一日中書庫にこもってる気ですか? もう定時回ってるのに。珍しいっすね、急ぎの仕事でもないのに魔術師長が残業するの」
カーナーの声を聞いて、ようやく我に返る。いつの間にか現代語に訳して要約も終わった資料が目の前に積まれていた。集中しすぎたらしい。
「レポート置いといたんで、後で読んどいてください。問題あったら明日直しまーす。じゃ、お先でーす」
「…………待て」
「え、なんすか? 俺もう上がりたいんですけど」
「す、すっ、すぐに済む。……私は、いっ、威圧感がある……のか?」
「はい? まあ、そりゃあ。いっつも仏頂面で、めったに喋りませんし。ま、喋ったら喋ったで言ってることよく聞こえないっすけど。まさか自覚なかったんですか?」
「……」
「何考えてるかもわかんないっすよねー、魔術師長って。そりゃ魔術師としても上司としても尊敬してますけど。研究所所属の中でもさらに賢人位、しかも伝説の無詠唱魔術の使い手で、そのうえ歴代最年少で宮廷魔術師長になった人なんですから。ただその、人としてはあんまり友達になりたくないタイプみたいな?」
「……」
「何してても睨んでるみたいでこえーし。クールって言えば聞こえはいいっすけど、ようはお高く止まった無愛想ってことですからね。ちょっと顔と家柄がよくて才能があるからって調子乗ってんじゃねーよ感じで! あっ、一般論ですよ?」
「……」
何故だろう。セレネの上目遣いとはまた違った意味で心を貫かれている気がする。
「わ、わわ私も……き……君のように、すっ、素直にぃ、ふふ振る舞うべき……だろうか」
「いやいや、俺はただ空気読めないだけっすから。アカデミーでさんざんそう言われてきましたんで。何が悪いのか自分じゃよくわからないですけど、たぶん俺の真似したらもっと駄目だと思います」
だが……カーナーが忖度せずに欠点を指摘してくれたおかげで、わかったことがあった。
そう。
私には、セレネに好かれる要素が何もないのだ……。
私達の結婚は政略的なものだ。裕福なイルベイズ家の金と、由緒正しいウィラード家の血統を結びつけるための夫婦。それが私達の関係だ。
それでも出逢ってからずっと、セレネはとても熱烈に愛を囁いてくれていた。
だから慢心していた。彼女の好意にあぐらをかき、その愛が無限に湧き出るものだと愚かにも錯覚していた。そんな夫、愛想をつかされて当然だろう。
こまめなプレゼントやら、毎朝残す手紙やらだけで、セレネの深い愛に応えられるはずがなかった。
そんな物質的なものでは彼女の歓心など買えない。何もかもが完璧な妻と釣り合いが取れるよう、人間的な魅力を磨くべきだったのだ。
どれだけセレネと過ごす時間を作ろうと、私自身の魅力がゼロなら何の意味もない。むしろ彼女に苦痛を与えてしまうだけだ。
笑顔の一つもろくに浮かべられない。毎回言葉に詰まってしまい、上手に喋ることもできない。
こんな体たらくで、何故セレネの愛が永遠だと思い込めていたのだろうか。思い上がっていた昨日までの自分が恥ずかしい。誰か私を殺してくれないだろうか。
「どうしたんすか、魔術師長。変な顔して。もう帰っていいっすか?」
「あ……あ、ああ。きっ、気をつけて」
……私も帰ろう。一体どんな顔をしてセレネに会えばいいのだろうか。憂鬱だ。
*
「お帰りなさいっ! 今日は平均より帰るのが三十四分五十二秒も遅かったのね、アシュトン。残業するとは聞いていなかったけど……どこかに寄り道していたの?」
セレネは小首をかしげた。そんな些細なしぐさもまた可愛い。
「ぶ、部下と話しっ、話していて、それで……」
「そうだったのね! 職場の人とコミュニケーションを取るのって、とても大切なことだと思うわ。……ところでその部下の方って、男の人? それとも女の人?」
「…………男だが」
最近配属になった新人だという説明を添えてカーナーの名を伝えると、セレネは満足そうに表情を緩めた。そのままいつも通り抱きついてきたが、今日は幸福感より苦い気持ちが広がってくる。
「そういえば、今朝のお手紙はどういうことでしょうか? わたしが貴方に対して怒っているだなんて。怒ってなんていないのに、急にどうしたの?」
「……」
口を開くが、声にならない。どういう風に伝えればいいのだろう。
セレネは返事を急かすことこそなかったが、情けない私に対して呆れているように見えた。結局何も言えないまま、灰色の時間が重苦しく過ぎていく。
今日も私達の寝室は別だった。セレネは照れたような、いたたまれないような顔をして、そそくさと自分用の寝室へと入っていく。
『親愛なるセレネ
思えば、私はいつも貴女から愛を与えられるばかりでしたね。貴女が私を愛してくれたように、私も貴女を愛していたつもりですが、どうにもうまく伝えられません』
『親愛なるセレネ
貴女と結婚できて、もう三年になろうとしています。時間というのは一瞬に過ぎるのに、何故これほど重いのでしょうか。貴女のいない人生など、今さら考えられないのです』
あまりにも眠れないので、書斎にこもってセレネ宛のメッセージカードを用意する。だが、納得のいくものが書けず、丸めたカードがどんどん屑籠に溜まっていった。
『親愛なるセレネ
たとえ貴女がどう思っていようと、私は貴女を愛しています』
これではただの重い男だ。セレネの気持ちをもっと考えたほうがいい。却下。
『親愛なるセレネ
もっと貴女にふさわしい男になりますから、どうか私を捨てないでください』
……さすがに女々しすぎやしないだろうか。むしろ嫌われる気がする。却下。
『親愛なるセレネ
貴女と結婚できて幸せでした。ありがとうございます。
アシュトン』
これは中々いいのではないだろうか。押しつけがましくなく、端的に事実を述べている。
短すぎるきらいはあるが、語りすぎているということはないので引かれはしないはずだ。もうこれで十分だからと身を引くようにも、ただ日々の感謝を伝えているようにも取れるから、セレネの負担になることはないだろう。
やっと満足のいくカードが用意できたときには、空がうっすらと明るくなっていた。
*
「魔術師長、目の下のクマひどすぎじゃないですか? 人でも殺してきたみたいな顔してますよ」
『眠れなかった』
「体調管理も仕事のうちっすよー」
出勤早々からかわれた。誰かに指摘されかねないと思ってあらかじめ用意しておいた手帳の文面を見せると、カーナーはげらげらと笑う。
「おかげでもっと迫力ある顔になってますね。人相悪すぎです。これじゃあの噂もやむなしかぁ」
「なっ……何の話だ?」
「いつも奥様を怖い顔で睨みつけて、面倒くさそうにあしらってるじゃないですか。ウィラード夫妻は奥様の強すぎる精神力のおかげで破綻してないだけで実態は冷え切ってるって、もっぱらの噂ですよ。今日は寝不足のせいでいつにも増して不機嫌そうだから、あの例のベタベタしてくる奥様がそこにいたらなおのことうっとうしがってるように見えそうですね!」
「そっ……そ、そそ、そうなのか……?」
……心当たりがないこともない。
セレネと二人で社交界に赴くとき、やれ「冷たい夫」だのやれ「取り繕えもしない木偶の坊」だのと言われることがあったからだ。
何故そういう風に揶揄されるかまったくわからず、そういうことを言う輩とは関わり合いになりたくなかったので、傍らのセレネにだけ意識を集中して気を紛らわせていたのだが……。
「だってあの健気な奥様と違って、魔術師長ってぜんっぜん愛情深そうに見えないですし。形だけでも奥様に付き合うのって、角が立たないように奥様を引き離したいからなんですか? 満足してくれれば離れてくれるかもしれませんしね」
すると、バン! と強い音がした。
部下の一人のカトリー・トライトだ。どうやら彼女が机を勢いよく叩いたらしい。
「魔術師長! そこの馬鹿の話は真に受けないでくださいね! それ、ウィラード夫人に横恋慕する独身男どもが勝手に流した噂ですから! 良識ある人達は、お二人がとても仲のいい夫婦だって知ってますよ!」
「あっ……ああ……」
「えー、そうだったんすか? なんだ、魔術師長ならやりかねないなーって思ってたのに」
トライトはおとなしい女性で、あまり目立つようなことはしないのだが……珍しいこともあるようだ。
まだ始業前とはいえ執務室にはすでに職員が揃っていたので、彼らの注目を集めてしまったトライトは気まずげに咳払いして着席した。ただ、女性の魔術師達はトライトの意見に賛同を示している。
……そういえば、トライトはセレネが主宰したお茶会によく招かれていたな。
彼女に限らず、この研究所に出入りする女性職員は招待されたことがあるらしい。女性だけの社交の場なので何を話しているかはわからないが、終わった後のセレネはいつも機嫌がよさそうだった。
とはいえ、これで最近のセレネの様子がおかしかったことの手がかりがつかめた。
恐らく、私の態度が悪く見えるせいで、セレネに懸想をする男達がセレネに何か吹き込んだのだ。
きっと、それでセレネも不安に────なるのだろうか……? あの、私だけにあふれんばかりの愛を注いでくれるセレネが……?
い、いや、思い上がるのはよくないと、この前学んだばかりではないか。
セレネだって不安に思うことはあるはずだ。相手が私のような朴念仁なのだから、なおさら疑いたくもなるだろう。
少し気持ちが軽くなった。今日こそきちんと話そう。私に対する誤解を解けば、きっとまた以前のように暮らせるに違いない。
いつにも増して仕事を手早く片付け、定時きっかりに研究所を出る。
セレネの好きな花を集めた花束を見繕い、言うべきことを頭の中で考えながら、意気揚々と家に帰った。
「…………セレネは?」
「それが、昼過ぎにお出かけになってから、まだお帰りになっていないのです」
「いっ、いいい行き先は!?」
いつも私を出迎えてくれるセレネが、今日に限ってどこにもいない。執事に尋ねると、執事はある大通りの名前を口にしたが、思い当たる知り合いや店はなかった。
だ、大丈夫。落ち着け。外出先での用事が長引いているだけだ。情けない私にしびれを切らしてとうとう出ていったなんて、そんなことがあるわけがない。
とにかく心を鎮めようと、あてもなく書斎に引きこもる。何か本でも読んで時間をつぶそうと思ったが、まったく集中できないのでやめた。
……おや? 朝、家を出た時には、あの屑籠にはセレネに渡すのをやめたメッセージカードが大量に捨ててあったはずだが……今ではすっかり空だ。
おおかた、掃除に来たメイドが捨てたのだろう。気にするほどのことでもないか。
悶々としていると、とうとう使用人がやってきた。セレネが帰ってきた、と。
時計を見ると、私が帰ってきてから十分しか経っていなかった。永遠にも感じるほど長かったのに……。
「セレネ!」
「ごめんなさいアシュトン、遅くなってしまって。貴方の平均の帰宅時間を過ぎてしまったのはわかったのだけれど、診察に時間がかかったせいで帰るに帰れなかったのです」
「ど、どどどっ、どこか具合が悪いのか!?」
階段を駆け下りてきた私に、セレネは慈愛に満ちた聖女のような笑みを向けてくれる。彼女の苦しみを知ろうともせず、私はなんて身勝手な悩みを抱えていたのだろう。
「そ……そんな時なのに、たっ、たた頼りない夫でっ、本当に申し訳ない! ……っ、貴女を不安に……さ、ささ、させたのは、私がっ、こ……ぉ……んな体たらくっ、だから……」
「やだ、アシュトンったら。一体何をおっしゃってるの? 貴方ほど最高の夫なんて、世界のどこを探してもいないわよ? これ以上素晴らしい夫になりたいだなんて、どこまでわたしを虜にすれば気がすむのです? わたしの心臓がもたないわ!」
セレネは蕩けた笑みを見せ、私に抱きついてキスをせがんだ。求められるままに応じる。
「わたしも貴方を愛してるし、貴方と結婚できて幸せなのに。まさかわたしが貴方を捨てるだなんて、本気で思っていたの? どうやら貴方が自分の愛はわたしに伝わってないと思い込んでいたみたいに、わたしの愛もまだまだ貴方に理解してもらえなかったようね。わたしだって、貴方なしではもう生きていけないのよ?」
「……ん?」
先ほどから、何か聞き覚えのあるフレーズを耳にするような……? 気のせいか?
「もしかして、わたしが貴方を不安にさせてしまったせいなのかしら。確かに、貴方に対して最近よそよそしかったものね。ごめんなさいアシュトン、決して貴方の寝相が悪いと言いたいわけではないの。でも、寝ている間って何が起きるかわからないじゃない?」
「セ、セレネ、何の話を……」
「安心してくださいな、わたしはどこも悪くしていないもの。……予兆はあったの。けれど、貴方に打ち明けるのは確証を得てからにしようと思って。だから今日、お医者様のところに行ってきたのよ」
そしてセレネは、幸せそうに腹部に手を当てた。
「男の子でも女の子でも、きっととても可愛いわ。だって、わたし達の子なんですもの。アシュトンもそう思わない?」
人生で一番幸せな日は、セレネとの結婚式の日だと思っていた。
だが、どうやらこの世には、それを上回るほどの喜びが存在したようだ。
*
イルベイズ家の晩餐会のデザートは、生クリームがふんだんに使われたイチゴのケーキだった。可愛らしい飾りつけに乙女心がくすぐられるのか、セレネは目を輝かせている。
「セレネはね、昔から甘いケーキみたいな子なんですよ。ほら、可愛いし」
「あら。わたしの兄様はいつから妹馬鹿になってしまわれたのかしら」
フォークを手にしたシエリット殿は私を見て微笑んでいる。セレネも楽しそうなので、私も嬉しい。
「アシュトン殿は、ケーキはお好きですか?」
「…………ええ」
「それは何より。どれだけ癖の強いケーキだろうと、好みに合致するなら何も問題ありません。どうぞ好きなだけ召し上がってくださいね」
ありがたくいただく。料理もそうだったが、このケーキもとても美味しい。これならいくらでも食べることができそうだ。
さすが国でも指折りの富豪の家といったところか。料理人はもちろん菓子職人も、一流を抱えているらしい。
「……重くてくどくて、胸焼けがして、ねっとりまとわりついてきて。人を選びますからね、生クリームたっぷりの甘ったるいケーキは。にもかかわらず、アシュトン殿はお気に召してくださったようでよかった」
「やだ、兄様ったら」
仲のいい兄妹もケーキを口に運んで談笑している。実に微笑ましい光景だ。
舌の上で蕩ける甘いケーキは、まるで幸福の味わいそのもののようだった。