5.父は娘の幸せを望む
「寮住まいは不便だろう。戻ってこないか? お前の部屋はそのままにしてあるから」
バルカルセ子爵は家に戻らないかと誘ったが、エドガルドはそれを断った。四年前の蟠りにこれ以上拘るつもりはないが、王宮外れに建つ男子寮はとにかく便利なのだ。
部屋は狭いが、ルシエンテス公爵の執務室に詰めている時間が長く、ほとんど寝るためにしか使用していないので不便は感じない。下働きは交代で深夜や早朝も勤務するため、遅く帰っても食堂は開いている。貴族の食事に比べるとかなり粗食だが、肉体労働も多い下働き用なので量は十分だ。
王宮図書館が近くにあり、休日でも調べものが捗る。何より、ルシエンテス公爵の呼び出しにすぐ応えることができるのだ。
諸外国との交渉を担う公爵には、夜中でも重要な文書が届くことがあり、エドガルドが急遽呼び出され翻訳を担当することも多い。ルシエンテス公爵も外国語は堪能だが、微妙な表現まで熟知しているエドガルドに全幅の信頼を寄せており、彼に翻訳を任せていた。
エドガルドがバルカルセ子爵邸に移り住むことになると、仕事に支障が出かねない。
「そうか、仕事のためなら仕方がない。だが、たまには顔を見せろ」
「仕事が忙しく、あまり時間は取れませんが、新年くらいは泊りがけで帰るようにします」
今日もこのまま王宮に戻って仕事の予定だ。
「いつでも帰ってきてね。その時はエドの好きな料理を作らせるわ。寮では庶民の料理を食べているのでしょう?」
「慣れれば結構旨いですよ」
四年前は料理を味わう余裕などなかった。エドガルドはただ命をつなぐためだけに食事をとっていた。
「世の中にはアルマみたいな酷い女だけじゃなく、優しい女もいるからな。嫌うなんて勿体ないぞ」
「兄上は父親になるのですね。義姉上にはお大事にとお伝えください」
二年前に結婚した兄嫁は初めての妊娠で実家へ帰っている。兄夫婦が仲良くしているのは喜ばしいことだと、エドガルドは他人事のように感じていた。
どこかよそよそしいエドガルドの態度のためか、少し寂しげな父母や兄の様子に僅かな罪悪感を覚えながらも、多忙なエドガルドはそのまま家を後にした。
その後すぐに王宮へと戻り夜遅くまで勤務した。
ようやくその日の仕事を終え寮へ帰ろうとしたエドガルドをルシエンテス公爵が引き留めた。
「話があるので残ってくれないか?」
公爵の秘書官は複数いるが、エドガルド以外はすでに帰ってしまっている。執務室にはエドガルドと公爵の二人きりだ。
エドガルドにソファを勧め、ルシエンテス公爵も対面のソファに腰を下ろした。
ソファに案内するのは来客だけだ。今まで公爵とこのように向かい合って座ったことはないエドガルドは、いつもと違う公爵の様子に緊張していた。
「娘の誘拐事件は全て終わった。アルマの侍女が未だに捕まらないのだけが残念だが、アルマに命じられただけの女だ。いつ捕まるかもしれないと怯えながら一生暮らすだけで罰となるだろう」
そう言いながらもルシエンテス公爵はとても悔しそうだ。
「そうですか」
エドガルドは返事に困っていた。終わって良かったとも言えない。
「パスクアル伯爵は廃爵され一家は追放された。そして、その領地は我がものになることが決まった。新しく伯爵位も賜った。リカルダへの賠償金代わりだ。しかし、領地は思った以上に酷い有様でな。パスクアルは国の取り決めの五倍以上の重税を課し、それに反対する者を見せしめに処刑していた。領民は領主への不信感を募らせ、栄養不足も相まって勤労意欲をすっかり失ってしまっている。農地は荒れ放題で雑草に覆われているらしい。領都さえ酷い品不足で、捨てられた子どもたちが道端で寝ているような状態だ。このままでは、税を免除しても大量の餓死者が出るだろう」
「それは大変ですね」
公爵は面倒な領地を押し付けられたらしい。今は勤務時間外で夜も更けかなりの空腹であったが、こうして公爵の愚痴を聞くのも仕事のうちだと、エドガルドは日付が変わる前に寮へ帰ることを諦めた。
「最初はね、リカルダを女伯爵にして、領地で穏やかに過ごさせようと思ったのだが、とてもそんな環境ではない。傷ついた娘にあの領地の領主を押し付けるなんてとてもできない」
「それはそうでしょうね」
優秀な代官がいる平穏な領地ならば、女性が領主でも成り立つだろうが、そのような問題を抱えた領地を年若いリカルダが治めていくのは無理がある。旧パスクアル伯爵領の領民も気の毒とは思うが、一介の文官であるエドガルドにできることはない。
「そこでだな。リカルダを優秀な男と結婚させ、その男に伯爵位を継がせて領地の立て直しを任せようと思う」
「リカルダ様は結婚に納得されたのですか?」
優秀な人材なら領地の改善は可能かもしれないが、婚約者だった王太子に裏切られ、遊び人の男に純潔を奪われたというリカルダが本当に結婚を望むのか、エドガルドには疑問だった。彼も婚約者に手酷く裏切られ女性不信に陥った。結婚に希望など持てなくなったのだ。
悪評と金銭的被害だけだったエドガルドとは違い、女性としての尊厳まで奪われたリカルダは彼より更に傷ついているはずだ。世の全ての男性を恐れ嫌っても当然だとエドガルドは思っている。
「娘は修道院へ入りたいと言っている。だが、そんなことは許さない。考えてみろ! 娘は被害者なのだ。なぜ、娘を傷つけたあの女と同じように修道院へ行かなくてはならない! リカルダだって幸せになる資格はある。いや、幸せにならなくてはならないのだ!」
いつもは冷静な公爵が声を荒立てた。それは親として当然の怒りだとエドガルドは思う。
「私もリカルダ様は幸せになるべきだと思います」
神に祈る生活が不幸だと決めつけることはできないが、自由が制限されるのは事実である。裕福な公爵家の令嬢として何不自由なく育ってきたであろうリカルダにとって、修道院での暮らしが幸せだとは、エドガルドにも思えない。
「そうだろう。だから、リカルダと結婚して、伯爵として領地を豊かにしてくれないか? 平和な領地で伯爵夫人として穏やかに暮らしていけるようにしてくれ」
「はぁ?」
エドガルドは思わず間抜けな声で聞き返してしまった。
「もう一度言う。我が娘リカルダと結婚して、新しく賜った伯爵位と領地を継いでくれ」
「し、しかし、私は平凡な男で、結婚相手として優良ではなく……」
当時男爵令嬢であったアルマにさえ、相応しくないと思われていたエドガルドだ。王太子の婚約者であったリカルダに釣り合うはずはない。
「男としての魅力はともかく、君の能力は評価に値すると思うぞ。君ならば必ず領地を立て直してくれると信じている。同じ女に嵌められた被害者同士だ。リカルダを心安らかに過ごせるよう、尽力してもらえないだろうか?」
ルシエンテス公爵はエドガルドの恩人である。婚約者の侍女を襲ったと思われていたエドガルドは、文官を辞めさせられることはなかったが、資料の整理という閑職に回されてしまった。しかし、公爵は彼の能力を認め、国のために活かせと自分の秘書官へ登用したのだ。
ルシエンテス公爵に出会わなければ、エドガルドは生きる目的を見失っていたかもしれない。
「わかりました。リカルダ様が了承されるのなら、結婚をお受けいたします」
恩人の公爵が大切な娘を託そうというのだ。エドガルドに断ることなどできるはずもない。
それに、エドガルドはリカルダに対して罪悪感を覚えていた。四年前、徹底的に無実を主張し、アルマに騙されたと公言していれば、アルマは同じ手を使わなかったかもしれない。
そうなれば文官を辞めさせられただろうなと、エドガルドは唇を噛む。
ルシエンテス公爵のお陰で得ることができた、やりがいのある仕事と同等くらいの幸は、リカルダに与えなければとエドガルドは思う。それが公爵への恩を報い、アルマを放置した罪を償うことになる。