25.元王太子がやってきた1
エドガルドは確かに幸せだった。
リカルダの優しさや気遣いを彼は日々身をもって感じている。そして、愛おしい女性と肌を重ねることは何に増しても素晴らしく得難い経験であった。
しかし、だからこそエドガルドは不安な思いを抱えていた。
リカルダが世継ぎをもうけるのは義務と言ったのは、乙女としての羞恥心からであったが、もちろん、エドガルドに微妙な女心などわかるはずもなく、しかも自分が女性に気に入ってもらえるはずがないと思い込んでいるため、言葉通りに受け取っていた。
リカルダが世継ぎを産んだ後は、平凡な夫など見向きもされなくなるのではないかと恐れていたのだ。
上司であるルシエンテス公爵夫妻や両親のバルカルセ子爵夫妻は世継ぎ誕生後も仲が良いが、世の中にはお互い愛人を持つ仮面夫婦も多いとエドガルドは聞いていた。彼自身は愛人など作るつもりは一切ないが、リカルダが愛人を持ちたいと願えば反対できないと思っている。
リカルダが自分の子を産むというのは、どれほどの喜びを与えてくれるだろうと感じながらも、エドガルドは少しでもそれが先であればいいとも願っていた。
リカルダを愛していると言いたい。しかし、エドガルドが口にできたのは『一生大切にする』との言葉だけだった。リカルダが彼の愛を負担に思うのが怖かったのだ。
リカルダもまた恥ずかしくて『愛している』との言葉を伝えられずにいた。エドガルドの愛を疑ってはいないが、やはり彼の方から伝えてほしいとの思いもある。
エドガルドとリカルダはそんな穏やかだが微妙に距離がある新婚生活を送っていた。使用人からすれば、二人が想い合っているは周知の事実なので、微笑ましくそっと見守っている。
そんな中で迎えたエドガルドの休日の朝、いつもより少し遅く起きてきた二人は、食事室で向かい合いながら幸せそうに頬を染めていた。
領地からの報告書を確認したり、代官への指令を出したりと、休日といえども執務を抱えているエドガルドだが、なるべくリカルダと過ごすようにしている。リカルダもとても楽しみにしていた。
花が咲き乱れる庭を共に散歩し、エドガルドが護衛たちに交じって剣の鍛錬をするのを見学する。そして、一緒に美味しい昼食をとるのだ。
それから午後の休憩時にはエドガルドとお茶を楽しむ予定だ。リカルダはそれを心待ちにしていた。
しかし、そんな予定を狂わせる来客があった。
「旦那様。レンドイロ公爵閣下が先触れもなく突然いらっしゃいました。今は応接室でお待ちいただいております」
そう伝えにエドガルドの執務室まで来たダビドは、かなり不快そうにしていた。無理もない。レンドイロ公爵とは賜姓降下した前王太子。リカルダを裏切った元の婚約者その人だからだ。
「レンドイロ卿が?」
エドガルドは来訪の意図を図りかねていた。
「用向きをお伺いいたしましたが、奥様に会いたいとおっしゃられるだけでした」
「今更リカルダ様に何用だろうか? とにかくまずは私が会ってみよう。卿と会うのはリカルダ様にとって辛いことかもしれないから。ダビドはリカルダ様にレンドイロ卿の来訪と、私が何とかするので卿と会う必要はないことを伝えておいてほしい」
「畏まりました」
ダビドが執務室を出ていくと、エドガルドも重い足取りで応接室へ向かった。悪い予感しかしない。しかし、リカルダを守りたいとの想いにぶれはない。
「レンドイロ公爵閣下? あの男が今更何をしに来たのでしょうか?」
私室にやってきたダビドからレンドイロ公爵の来訪を聞いたリカルダは、不快感を隠そうともしなかった。
あのバルコニーで、アルマが真っ赤な爪を彼の頬に這わせながら、リカルダを貶める相談をしていたのだ。そんな二人をリカルダはまだ許してはいない。許せるはずもない。
リカルダが何も知らずに王太子に呼び出されていれば、彼女は王太子の婚約者でありながらフアニートを誘ったふしだらな女と謗られていたのだから。
「旦那様はご自分が何とかするので、奥様が会う必要はないとおっしゃっています。奥様はこちらでお待ちください」
「わかりました。お部屋で話し合いが終わるのを待っております」
釘を刺すダビドにそう答えたものの、リカルダはおとなしく待つつもりなどない。
ダビドが出て行ったのを確認したリカルダは、壁際に控えているトニアを振り向いた。
「応接室の声が聞こえる場所はないの?」
このファリアス伯爵邸は元々サルディバル子爵邸だった。ここに住むのは辛いのではないかとリカルダはトニアを気遣ったが、他の者の手に渡り取り壊されるよりはと、リカルダにここを新居とするように頼んだのだ。
邸内の内装は随分と変わっているが、結婚まで時間がなかったこともあり建物自体に手は入れていない。
「応接室の隣は給湯室になっております。来客の状況を把握して茶が出せるように壁は薄くしていますので、声ははっきりと聞こえるでしょう」
サルディバル子爵家はあまり余裕がなかったので使用人が少なかった。そのため効率を優先してそのような造りになっている。
豪華な公爵邸で育ったリカルダには思いもよらない答えだった。
「トニア、行くわよ」
優雅にドレスの裾を捌きながらも、リカルダの歩みはとても力強い。
「は、はい」
リカルダの行動力を知っているトニアは、諦めたように彼女の後に続いた。
「レンドイロ卿、本日はこのような拙宅にわざわざおいでいただき、お礼を申し上げます」
「私は君ではなく、リカルダに会いたいのだが。まさか、私が謹慎している間にリカルダが結婚しているとは思いもよらなかったよ」
「申し訳ございませんが、我が妻を呼び捨てにするのは止めていただきたい」
壁の一部に小さな穴を開けているらしく、本当に隣の応接室の声が良く聞こえた。リカルダは満足そうに頷いている。
『そうよ。わたくしの名を気軽に呼ばないで』
声を出せば隣に聞こえるかもしれないので、リカルダは心の中でエドガルドを応援することにした。
「妻ね? リカルダが君を夫と認めているとも思えないが」
エドガルドを馬鹿にしたような声が聞こえてきたので、
『認めているに決まっています! 旦那様ほど素敵な男性はいないですからね』
リカルダは内心で強く突っ込んでいた。
「リカルダ様の気持ちなど、貴方には関係ないと存じますが」
『旦那様の言う通りだわ。本当に何をしに来たのかしら』
黙って頷いているリカルダを、トニアは心配そうに見ていた。そのうち、レンドイロ公爵の失礼な物言いに耐え兼ね、リカルダが応接室へと怒鳴り込むのではないかと気が気ではない。
「私はリカルダに結婚の申し込みをしに来たのだ。彼女に会わせてくれないか?」
「一旦リカルダ様を裏切っておいて、今更何をおっしゃっているのですか? ふざけないでいただきたい。それに、卿は結婚を許されていないと伺っておりますが」
「それはルシエンテス公爵との取り決めだからね。公爵だって、可愛い娘が願えば結婚を許すだろう」!
『無能な名ばかり公爵とわたくしの結婚なんて、お父様が許すはずないではありませんか。わたくしだって絶対に願いませんから』
国のために王太子と結婚してくれと、辛そうに頼んだルシエンテス公爵なのだ。王太子ではなくなったレンドイロ公爵とリカルダを結婚させる意味はないのに、父としてそんな馬鹿なことを許すはずもない。
「パスクアル伯爵領の他にもモンティージャ侯爵領の一部を貰ったそうではないか? もちろん、それらはリカルダのものだから、結婚後は私が貰う。しかし、伯爵位と子爵位は君のものでいいよ。子爵家の次男にしては素晴らしい出世だろう? それで満足したまえ」
「サルディバル子爵位と領地は私のものではなく、継ぐ予定の者がいます」
公爵とはいえ、領地を持たない一代限りに認められた爵位だ。それだけルシエンテス公爵の怒りは大きく、王も庇うことができなかった。そんなレンドイロ公爵はリカルダとの結婚で、領地を手に入れようとしていた。
「サルディバル子爵家の縁者は皆死んだか行方不明だと聞いているが。とにかく、子爵位は君の好きにすればいいが、領地は私のものだ」
「リカルダ様との結婚は、領地目的なのですか? そんな不実な想いで私の妻に求婚しようなど、許せるはずはありません」
「それは君も同じだろう? 他の男に汚されたリカルダと結婚したのは、爵位と領地が欲しかったからではないのか? よもや彼女を守るためだとか綺麗事を言うつもりではあるまい」
『ちがうもの。旦那様は困っている領民を守るためにわたくしと結婚してくれたのよ』
今が幸せだからこそ、リカルダは結婚時の経緯を忘れそうになっていた。彼女が領地を救いたいと願ったのだ。そして、エドガルドがそれに応えてくれた。
そこには愛など存在しない。




