第44話『2月』
真っ暗闇に薄い光が差し込み、少しのざわめきとそれを注意する担任の怒声に机にくっついていた額をはねあげられる。黒板には『対異妖活動推進講座』の文字。体育の担当だからかいつもはスポーツウェアの男性教諭は、今日は珍しく黒い背広姿だ。ネクタイもかっちりと締められている。
「えぇ、皆には、異妖がどうして生まれたのか、どういう存在か。また、異妖とDNFSの関係性。みなさんが今後自分の能力や異妖とどう関わっていくかをよく考えながら、話を聞いてもらいたいと思います」
コンコンと黒板を叩きながら言う担任は、なんともつまらないといった表情だ。噂では無能力らしい。映画を見て泣いたという話をした途端にクラスの空気が変になったのは昔の話ではない。中学生とはいえよくわかっている。自分たちにはないものと、先生と俺が感じる悲しみという感情。多分、みんなは先生を劣勢だと思っているんだろうな。
では、俺の事は。
俺が悲しみを感じることはほとんど知られていない。
まじどうでもいいんだけど。そんな声がチラホラ聞こえる。
「ほら、道大、行くぞー」
「あー、ごめんちょっとまって」
クラスメイトに呼ばれ、筆箱をもって駆け足で教室を出る。俺の後に出た先生が先頭に行く瞬間チラとその死んだ魚の目をした横顔が見えた。
この人も、下手くそだな。黙って演じていれば勝ちなのに。
◆
無限に広がっていた闇なんて一瞬で、その闇の存在に気づいた頃には多種多様な雑音が俺の鼓膜を叩く。ここで、もう無限にはいないのだと気づく。
少しジャラジャラと音が鳴る蕎麦の枕は、今までとなんら変わらない。ちょっといい匂いのする枕カバーに染みたいわゆる俺の匂い。合わさってちょっと臭い。そろそろ洗った方がいいかもしれない。
たまに、夢を見る。
俺が俺みたいな人を尻目に置いていたかった頃の自分の夢。こうありたかったという、微かな願望。実際には起きず、そして起きなかったこと。そして、近年胸の中に燻っていたこと。
甚だしい夢を抱いては、それが叶わないことに苛立ち焦って挙げ句の果てにぶち壊す。そういうことを多分してきたのだと思う。いつか逢坂さんが言った「本物の心じゃない」というのも、きっとこれの事だ。
こんなことを言っていると、誰のために俺は力を使ったのだろうと言われるかもしれない。たしかに、この言い草ならば自分のために使ったように見えるし聞こえる。だがそうではない。断じてそうではないのだ。俺はもう誰も悲しまないことで苦しまないために、そして異妖化の加速の原因である俺の力を消すために、力を使ったのだ。
だから、俺のためにじゃない。
上半身を包み込むような寒気に身震いして、勉強机に昨日の晩放り投げていた裏起毛パーカーに袖を通す。カーテンを開けても、さして光は入ってこない。しかたない、まだ6時だ。
部屋の電気を付けて、目に光を慣らしていると、ふとカレンダーが目に入る。雑に破られた1月分の一部だけが残り、2月の表記を覆っている。日にちだけが2月になっていた。そういえば一昨日破った後、丸めてゴミ箱に捨ててしまった。昔はあれですごろくを作ったものだ。
リビングでは母さんがいつも通りパチパチとウィンナーを炒めていた。
「…おはよう」
チラといることを確認して声をかけると、母さんはこれぞとばかりに素早く手を上げる。
「おは、グッモーニン!」
「今『おは』まで言ったよね?」
ツッコミを入れたことが不服だったのか、むぅ、と頬をふくらませる。あれ、今両側の頬を押すと口からビュッて声出るやつ(語彙力)。
口に溜めていた息を吐き出すかのようにため息をつくと、鍋の取っ手を握っていた左手を額の前で人差し指を立てそのまま下ろしてくる。そして鼻の辺りでピタリと止めた。
いやカブトムシの人なの?天の道でも行くのかな。
「道大はそういうこと言うから嫌われるんだよ」
ぐうの音も出ない。ごもっともでございます。
俺が力を使ってからも、何も変わらず母さんは接してくれる。むしろ俺の力のこと、異妖のことについて話さなくなった。今思えば、俺からしか話していなかった。俺が聞いて、母さんが答え、それに対し元から使えもしない頭をひねって悩んだふりをして言い訳を作る。そんなことをしていたのだ。
「あのさ、母さん」
「ん?」
フライパンに顔を向けたまま続きを促す。その態度があまりにも普段と変わらなかったから、俺は喉まで出た言葉を押し込んだ。
「…いや、明日波野とか来るんだって」
◆
さて、俺の家に友人を入れるなどいつぶりだろう。母さんは仕事で忙しかったから基本家には俺しかいなかったし、家に誘おうと思えば誘えたのだろうが、悲しいかなまず友人がいなかった。化け物に友人など甚だしいことこの上ないが、それでも友人というものはあって損はない。少し変な言い方をしたが、要するに、いてくれるだけで嬉しいし、楽しい。誰かと関わっていて、相手も俺を見てくれている。そう思うだけで満たされる。片想いと違うのは、そこに見てほしいという欲がなければ、思い浮かべるだけで心臓がピアノ線でぐるぐる巻きにされているかのような痛みを感じることもないということ。ただ、友人としていることがお互いの承知の上に成り立っている。そこに男女の垣根はなく、いたって平等に1人の人間として関わり合える。
これが多分、本物の心ってやつなのかもしれない。
ピンポーンとインターホンが鳴った。リビングにあるモニターには、亜麻色の短髪を風になびかせ、マフラーに顎を埋める少年と、ダウンコートのチャックを一番上まで上げ、これまたマフラーに顔を埋める雪のように白い肌に黒縁眼鏡のよく合う黒髪の少女が映っている。2人ともガチガチに寒そうだったので通話ボタンを押す。
「はい、基木多です」
言うと、2人してこちらに目をやる。
波野が北上に軽く手をあげて制し、カメラに顔を近づけた。
「こんにちは波野です」
「はーい、今行くから待ってて」
◆
「ねぇ基木多君」
眼鏡を拭きながら北上が問う。
「なんだ」
北上は眼鏡を装着すると、正座のまますっと背筋を伸ばし、俺の方に体を向ける。その瞳のなんとも言えない温度に俺も身を構えて少し距離を置く。竦んでるじゃねぇか。
カチカチと時計が俺の部屋にいる3人を急かしているように音を刻む。波野は突然変わった空気に驚いたか少し膝立ちになってオロオロしている。
北上は閉じていた目をゆっくりと開いていく。
「将棋でもしましょう」
「さては暇になったか…あっ」
ああそうだ。将棋はだめだな。
ほら、波野半泣きじゃねぇかよ。
「お前なぁ…波野いるの分かってんのか?将棋だぞ?波野勝てるわけないじゃん」
「そういえばそうだったわね、波野君の実力はもはや裏七冠の域だものね。なら私とタッグマッチというのはどうかしら」
「おいおいそれじゃ1引く酢酸の電離度になるに決まってる」
電離定数の式において酢酸の電離度はたしか1より遥かに小さいから近似して1に置き換えられたよね。
「二人とも酷い…酢酸は特にひどい…」
ちゃんと意味わかってる波野は勉強家だな。尊敬してるぞー。
「というわけで、どうする。ノープランで呼んだけどまずかったかな」
言うと北上と波野は2人していかにも意外と言った表情を浮かべた。
「あら、そうなの?てっきり仁戸さんとの恋バナ(笑)でも聞かされるのかと思っていたのだけれど。ね?波野君」
え、なんで今鼻で笑ったのかな?
波野もシャツの襟を触りながら首を縦に振る。
「来る時ずっとその話してたんだよ。道大の恋バナ(笑)。略して道バナ(笑)」
街ブラみたいに言うんじゃねぇよ。昼の番組になっちゃうじゃねぇか。それに2人して『(笑)』を付けるなんてほんと仲良しかよいい感じかよ付き合ってしまえ。
「はぁ、特に何もないけど…」
としかいいようがない。イーヨーはロバだけどぐらいしか言いようがない。何の話だよ。
てかまずバレてんのかよ。
「俺そんなに仁戸ちゃんのことす、す好きそうに見えるか?」
あーあススキになっちゃったよ。
「結構見ててわかるぞ」
北上も黙って頷いた。
はぁ、最悪だ。勉強机の椅子に腰掛け、体の向きを変えようとすると、久しぶりに聞くような鋭い声が俺の体を止めた。
「基木多君」
そう呼ばれてしまえば、そちらに向くしかない。黒のニットのセーターから除くその首より上にとてもじゃないが目がいかない。
「なんだよ…」
「4月と今との仁戸さんのあなたへの態度の差は少し気になるけれど、あなた達の間に何があったかは知らないし知る気もない。でも、私たちが部活に出られる期間は着々と短くなっているのはたしかだわ。それに、この学校にいる時間だって。来年の今にはもう、いないに等しい。あくまで基木多君の話だし、あなたが決めることだけれど、ちゃんと伝えないと、それは嘘をついていることになると私は思う」
彼女の隣に胡座をかく彼は、じっと床の絨毯を見つめている。いつかこぼしたコーヒーのシミがまだ残っているのだろうか。おそらくそんなことじゃないんだけど。
「嘘、か」
俺は確かに嘘をついていると言えないこともない。仁戸ちゃんに抱いているこの感覚を決して彼女に伝えず、俺の中に閉じ込めて離さない。そうして容疑者と原告のような立場を保っている。少なくとも、俺はそうしてきた。もし嘘だというのなら、今まで俺がしてきたことはなんだったのだろう。
「今私達がこうして話していることも、私は想像していなかった。もしかしたら私じゃないほかの何かにでもなるんじゃないかと思ったから。でも、違う」
波野は全く口を開かない。まるでじっと耐えているように北上の後ろ姿を見ている。
仁戸ちゃんも、変わっていない。そう言っているのはよくわかる。でも、本当にそうなのか。一つ大きなピースが埋まったことによって全く別の―見かけじゃなく中身が全く別の何かになってしまっているのではないのか。いや、そうじゃない。
首を振ってそんな考えを振り落とした。
俺は彼女らを救いたかったのだ。
俺を救いたかったわけじゃない。
暑くなっていく体をまだ急かすように動悸が激しくなる。吐く息は次第に熱を帯び、胸が痛い。心臓に有刺鉄線を巻き付けられているかのような、全方向からアイスピックで刺されているかのような、はたまた内側から破裂しそうな、そんな痛みが俺の体を蝕んでいく。心臓に広がったどす黒くて甘ったるくて酸味の効いたものは喉の奥に到達し、やがてそこに蔓延って燻り始める。
「ちゃんと、言わなきゃいけないのか?」
2人を交互に見る。亜麻色の髪は優しく縦に揺れ、艶やかな黒髪は微動だにしない。
ああほんと、こいつらが友達でよかった。
次回更新は9月30日午前1時です!
<次回予告>
「今日は部活あります、とのことです」
仁戸優夏への想い。
それを秘匿することは、嘘なのか。
その構図は、一方通行の信頼なのか。
対異部の活動休止するなか、自身の感情に向き合うことを決めた基木多。
そんなある日、教室の隅の彼に仁戸優夏が手招きする。
次回、2月編第2話『嘘』
それは、嘘とも呼べるもの。




