第26話『師走へ』
11月最後の朝が来た。布団の外は既に極寒の兆しが窺える。ベッドの転落防止のフェンスにかけた裏起毛フルジップのパーカーを羽織り、一階のリビングへ。
俺が何者で何をして何をすべきか。
この二日ずっとそんなことばかりが頭に残り、依頼も勉強にも精は出ない。
思えば俺はもう受験生扱いみたいなものだ。違う市の高校では、既に『受験生宣言』が行われている進学校もあるらしい。もう来年は俺も受験でいっぱいいっぱいなのだろうか。まぁ、大学進学を目指すなら、間違いなくそうなるだろう。なるほど本屋の一部も赤一色だった。俺もそろそろあそこに足を踏み入れなければならないのだろうか。むしろ、遅いくらいか。
なんて考えるのは、現実逃避じゃない現実逃避なのだろう。
台所ではいつも通り母さんが長い髪をひとつに結わえている。
「母さんおはよう」
呼ぶと、いつもと同じどこか不意をつかれたような返事で振り返った。
「おぉ、道大おはよう」
そのあまりの平穏さに、戦いた。台所から離れテーブルに着席。テレビをつけてニュースをたしなむ。そしたまた席を立ち電気ポットで湯を沸かし、インスタントコーヒーをブラックのまま啜った。たまにはこの苦さもいいものだ。まぁほんとのこといえば、いま甘いものなど飲めば、なんだろう、全部どうでもよくなってしまいそうで怖いというのもひとつとしてはあるんだけど。
「はーい」
と母さんが朝食を持ってきてくれた。なんだよ、自分で用意できるってのに。いやまぁしないんだけど。
基本朝食と夕食は母さんと食べている。父さんがいないせいか、もしくは俺がひとりっ子だからなのかは分からないが、母さんとは個人的には仲のいい親子だと思っている。でも、それにも限界はある。
俺は、異なる者なんだね。
たった一言だ。それでも、母さんの悲しむようなことは極力避けたい。もう十二分に悲しませて来たのだから。
飯を食い終え、食器をシンクに置いておく。無論、米が入っていた茶碗は水につけてだ。
もう一度湯を沸かし、インスタントコーヒー二杯目を煽ると、二階へ。着替えて鞄をもち、一階へ下りる。リビングにあるハンカチを取った。
「じゃあ、行ってくる」
「ん、いってらっしゃい!」
陽気で元気な母さんの言葉に背を押され、俺は玄関の戸を開けた。
「あ、道大雨だから傘忘れないでねー」
サラサラと俺の足元に弱い連打を仕掛ける雨が、俺に曇天を見上げさせた。
こんな時、あいつらみたいに兄弟でもいれば相談でもするのだろうか。
◆
時は進み放課後。今の気分は全くティータイムではないが、君を見てるといつもハートドキドキ(少しの恐れ)な状況ではある。
先日なんか怒られた感じになった北上とふたりぼっちなのだ。そう言えば、こんにちはひとりぼっちな感じの歌があったな......目の前見るしかないのかな。
ふとしてみれば、こうして北上が眼鏡を拭いているのを見るのは随分と、久しぶりな気がする。
「なぁ、北上」
「何?」
ピクリとも顔を動かさず、静かに答える。
「そんなに眼鏡ってしょっちゅう拭くものなのか?」
すると、ピタリとその手が止まった。
「私はこまめに拭くわね。少しでも視界が遮れるのがたまらないのよ」
「なるほどなぁ」
ガタガタと準備室の窓が揺れた。
そして一瞬のざわめきは過ぎ、静寂が部屋を包む。
ふと思った。
こいつは、知っている。
俺が何かを、知っている。
知っているから逃げたし、知っているからあのとき手を差し伸べたし、知っているから俺を『愚か者』だと言う。
ならば、疑問はひとつ消える。いや、2つは消えるんじゃないのか。
「北上」
「ん?」
「俺は、ほんとに化け物だったんだな」
北上の指が僅かに跳ねた。本を閉じ、そのレンズ越しに俺を見る。
「気が付いたのね。ならわかっているはずよ。あの日貴方が何をしたかも」
「あぁ、それも聞いた」
「誰に」
「ハヤタさん」
ごく一瞬見開かれた瞳をすぐさま俺から外した。
「そう。なんて勧誘されたの?」
「は?」
「だから、共存計画の勧誘でもされたんでしょう?」
「おい、なんでお前がそれを...」
北上はクイッと眼鏡を押し上げる。フレームがキラリと光った。
頬は薄く緩んでいて、なんというか、今までとは少し違う、優しくて俺を包むような、そんな笑み。
「貴方のことは、何だって知ってる。だって私は、貴方の罪のためにここにいるのだもの」
「北上...」
なんだかまた忘れていた気がする。北上は、あの事件の正体を知りたくないかと言った。それに加え、これはただの贖罪だとも言った。俺は何をしていたのだろう。俺は北上高乃から逃げていたのか。
俺は何と向き合っていたのだろう。こんなにも北上は俺や現実と向き合っているというのに。
胸が苦しい。鈍痛が駆け抜けそうで滞る。鼻も目も、脳内も何もかもすべてむず痒い。悲しいのではない、嬉しいのでない。
はっきり言える。
虚しくて申し訳ない。
心から人に謝りたいと思ったのは、初めてかもしれない。
「北上、俺...」
どうしたって俺はこんなに愚かなんだ。
外の赤と相まって、北上の笑みは妙な浮遊感を俺に与える。
なぁ、許してくれるって言うのか。
それでも、俺の犯した罪も、この現実も、何をすべきかも、覆ってはくれない。その笑みがはっきりと言っている。
俺が何をすべきか。
忘れていた。
俺は、償うべきなのだ。
間違えたことを償うべきなのだ。ならば俺は正しくあればいい。
この化け物を、正しく扱えばいい。
「この街を戻す。これは、間違ってるかな」
誰のためか。
「大丈夫よ。私はあなたの選択を間違いだとは言わないから」
勿論、俺の手を引いてくれた北上のために。
俺の死んだ魚の目に命を吹き込んでくれたあの手に、俺がここにいる意味を作ってくれたその口に、俺に償わせてくれるその瞳に。
その全ての貢献に、俺は応えなければならない。
悲しまない悲しい街を、俺は全て戻してやろうじゃないか。
俺はこれでいいんだよな、北上。
「気付かなければよかったのに...」
ドリンクを買おうと席をたった時聞こえた声。
ポツリと彼女がこぼしたものは、黒くなりうっすらと準備室に差す茜を闇へ引きずり込んでいく。
ガタリと窓が揺れた。
レンズが反射して見えない瞳の奥から、ストーブのぬるい空気が染みていく。
沸騰していた何かが、冷めていく。
◆
部室のドアを閉めてもなお、ひんやりした何かが俺に染み込んでくる。それから逃げるように、俺は駆け足で一階の自販機に向かった。
後ろでカサカサと何かの足音が聞こえる。振り返ると緑色の瞳をランランと輝かせるモガミがいた。
「なぁ、お前はなんで俺をつけるのさ」
カワウソからの返事はない。あるのは、ただ薄い闇に揺れる二つの緑の光だけだ。
異妖の力があるんなら、異妖との意思疎通ぐらいできたっていいじゃないか。なんでそんなに不安定なんだよ。
自販機の前まできたが、最近やけにここにきてる気がする。たしかに、逃げるにはぴったりだ。
いつもの一番下の赤のボタンの列にあるミルク入り微糖缶コーヒーに手を持っていく。
ボタンを押すと、乱雑に缶は放り投げられ、乱雑に俺に膝元に落ちる。
備え付けのベンチに腰を落とすと、自販機の前で茶髪の小柄な少年がお釣り取り出し口を探っていた。少年は小さく声を漏らすと、嬉しそうに俺に10円玉4つを手渡した。
「はい、お釣りです」
坂西はそう言って俺の横に座る。
「いつぶりかな」
「さぁ、でも三日前お宅にお邪魔させていただきました」
「ああそういえばそうか…って、いやほんと風呂場に突然現れるとかやめない?マジで怖いのあれ。なに、お前幽霊かなにかなわけ?」
「てへ」
「舌出したって可愛くないからな」
「ふふん、ツンツンデレですねぇ先輩は」
「え、何その巷のヤンキーのジャケットみたいなジャンル」
冗談めかして坂西を見ると、いつしか彼もまたこちらを見ていた。いつぞやに見た、真剣な眼差しで。
「先輩」
「ん?」
「何をするつもりですか?」
「なにって、え?」
危なかった。危うく口がツルッと言っちゃうところだったわ。ほんとこのタイミングでそういうこと言うのとかやめて欲しいよねー。そだねー。
北海道のちょっとした訛りに思いを馳せていると、坂西が深くため息をついた。
「先輩はまだ、僕が普通の人だって思ってるんですか?んなわけないじゃありませんか」
思ってねぇよ。わけわからんやつだなぁと思ってる。でも、少なくとも、普通じゃない人間だとも思っていない。こうして話しているのは事実だし、触れた時にはちゃんと温かい。長らく触れなかった、いや、触れてこなかったものに触れているような感覚になる。そんな不思議な温かみ、生きてるものでしか感じられないだろう。
だからこそ、今しか聞けないと思う。直感でそう感じた。今なら溜め込んだものを出せる。
「坂西、お前、モガミなんだろ?」
言うと坂西は、今度は頬を緩めて大きくため息をついた。まるで肺に溜めていたものを全て出し切ったかのようなため息をついた。
「ええ、僕はカワウソ型異妖として先輩をずっと見ていたんです。モガミの中身ですよ」
「......」
缶コーヒーが冷めていく。風に晒されているだけじゃない。なんだろう、俺の熱自体が、冷めていく気がする。
だがそこに恐怖や不安はなく、不思議なほど冷静に坂西の瞳を見ることができている。
そんな俺が、怖い。
するりと缶が手から滑り落ちた。
「お前は、異妖なのか?」
坂西が落ちた缶を拾う。
「そのとおり、僕は異妖です。あなたの決断を促し、願いを完成させる引き金です」
「......はぁ」
あまりに突飛でよくわからない言い回しに思わず首をかしげると、茶髪の少年は意地悪な笑みを浮かべた。
「あれ、あんまり反応がよくないですね。ソウジロウ君は相当驚いてたけどなぁ」
「ソウジロウ?」
「次郎の兄ですよ」
「はぁ。ん?兄?なんでお前が玉置さんの兄と仲いいわけ?」
「はぁ、それは教えてもらってないんですね...」
そう言って頭痛をこらえるようにこめかみを抑えた。
異妖でも頭痛は起きるのか。
「玉置ソウジロウは一人目なんです。で、貴方は二人目」
「二人目?」
「そ、二人目。とまぁこんなことはどうだっていいんです。もう一度聞きます。先輩は何をどうするつもりですか」
そのまま下を向いていればいいものを、わざわざ俺に目を合わせて話すから、余計に体が強ばって顎が動かない。喉の奥の何かは、そこで滞って流れ出てくれない。まだ、流れ出ちゃいけないってことなのだろう。
目を逸らした。ここから見えるは中庭。丸裸の木々が揺れて凍える中庭。
なりかけのユートピアを壊すのか、それともユートピアを作り出すための餌となるのか。
「俺は...」
わからない。
ポツリと吐き捨てかけた時、突如くるぶしを冷たい何かが掴んだ。そのまま俺の足を掴んで離さない。
見れば坂西が前に出した右手の拳を、まるでそこに棒があるかの如く空気を掴んでいた。
「こんなことしたくなかったんだけどなぁ......先輩、いいですか?僕はわかってるんですよ。ハヤタに勧誘されたんじゃないんですか?」
いつものうすら笑いはいつしか消えて、その表情は真剣そのもの。
「理由もなしにこの理想郷をいじっちゃいけませんよ。あなたはもう、この街の行方を勝手に決めることが出来るんです。あなたは異妖みたいなもんなんです。だから適当にやってもらっちゃ困るんです。被害者だってでるんだから」
「そ、そんなこと言われたってどうしようもないだろ!突然そんな大きな話の中心に置かれたってどうしようもないんだよ!」
フッと足の違和感が消えた。勢いをつけて立ち上がるが、それでも、足が震える。
坂西は弱く讃えていた微笑を揉み消し、鋭くこちらを睨んだ。
「まだそんなこと言ってるんですか」
「何が、悪いんだよ」
「何がって...そんなだから、君は間違えたんだ。君はただ軽蔑したいだけなんでしょ?自分は悲しむ人間で、あいつらは悲しまない。それで自分は特別だと思っている」
「ッ!…でも事実だろ?違うのかよ」
俺はなにを言ってるんだろう。こいつに言ったってどうしようもないのに。でも、なぜかこいつには言わなくちゃならないような気がする。その瞳が、俺の心臓に張り付いたものを言葉にしていく。
「そうですよ、あなたは特別です。だからですよ」
坂西はものを乞うような瞳で俺を見つめる。
「だから、わけわかんないことから逃げちゃ駄目なんです。わけわかんなくても、そこにあるものは見なきゃ終わりは始まらない」
わかっている。そんなことずっとわかっている。
世界を戻すと北上に言ったが、そこに俺はいない。
北上の一言で俺は萎えた。
そんな思考に陥る時点で、北上を理由にして逃げているだけなのは明白だ。
だからずっと、わかっている。
でも俺は…
スルリと体の何かが抜けた。胸の中の何かを殴られたような痛みが広がっていく。視界が下にそのまま落ちていき、膝に鈍痛が走ると共に止まった。
「なぁ、俺は選ばないとだめなのかな」
「えぇ」
「俺は...」
「まぁまぁ、そんなせかせかしなくたっていいんですよ」
「え?」
見上げれば、彼は微笑んでいた。いつものように、全てが軽やかだ。オレンジの陽に照らされたその茶髪と横顔が、余計にそれを強く感じさせる。言ってしまえば、どうにでもなりそうな、そんな軽さ。殴られたような痛みも何もかも、シンプルで軽いんだよと、そう言われている気がする。
「先輩がそれを決めた時は、僕はそれを全力でサポートします。引き金は、先輩が理由を見つけた時でいいですから」
「それで、いいのか」
「いいんです。僕はその為にここにいるんです」
言って坂西は俺に手を差し伸べた。見ると案外白いその肌に、すがりつくように手を伸ばす。
支えられるようにしてたつと、坂西がポツリと呟いた。
「だから、考えましょう。変革には、確たる願いが必要だ」
忙しくすぎる月の到来を叫びながら、夕日がせっせと山に逃げていく。
いいんだよな。
悩んだっていいんだよな。
「ああ。それと坂西」
「なんだい基木多くん」
大人びた口調。こいつがたまに醸し出す雰囲気だ。
「俺に、この化け物の使い方を教えてくれないか」
北上は俺と俺の正体と自らの贖罪でここにいる。坂西は俺に引き金を引かせるためにここにいる。仁戸ちゃんも本来は俺への復讐のためにここにいる。玉置さんも波野兄妹も、まして太田先生も。
全て、目的のためにここにいる。
なら俺も向き合おう。
「今すぐってわけにもいかないけど、近いうちに教えてあげるよ」
そう言って慣れてきた不気味で軽やかな笑みを浮かべた。
こんにちは、蛸中文理です。
読んでいただきありがとうございます!
次回更新は4月29日の予定です。
<次回予告>
「うん。むしろ、君は悩むべきだと思うな」
坂西との対話によって、自身のなすべきことの指標を見つけた基木多。しかしいまだその答えに対する疑問は拭えぬまま。確たる決意をできないでいた。
12月の部室に漂う暖房からの暖かくも渇いた空気は、はたして彼にとってどのような12月をもたらすのか。
激動が、始まる。
次回、師走編第1話『暖房』
それは、終焉の幕開け。




