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第三話

 アグリィは鼻をくすぐる良い匂いで目を覚ました。ぽかぽかと温かい何かに包まれ、ぼんやりとしたまま周囲を見渡した。

 見覚えのない場所だった。木造りの部屋は物で溢れている。古びた本、天井から吊るされた植物、棚に並べられた大小様々な瓶。机の上には使い道のわからない道具が並んでいた。

 自分がいつも眠っている粗末な小屋ではない。アグリィは自分が柔らかなベッドに寝ていることに驚いた。とはいえ、他人が見れば淀んだ目がわずかに開かれた程度の反応だったが。

 しかし、常時反応が薄いアグリィであっても、自分の腹の上で火で形作られたトカゲが動いたことには驚きで体を引いてしまった。アグリィが急に動いたことでトカゲはころんと転がり、不満そうにぼうと火の息を吐き出した。


「目が覚めたかね」


 アグリィが初めて見る生き物に警戒していると、部屋のドアが開いた。入ってきたのは壮年の男、オースティンズだ。

 アグリィはオースティンズを頭から爪先まで見渡した。よく手入れされた髪は元々は栗色だったのだろうが、今は色が落ちて白くなりかけている。グレーの口髭は見苦しくないよう整えられ、体のサイズに合ったシャツはアグリィの主人が着ていたような綺麗なものだ。

 何より目を引いたのは彼の瞳だった。彼の青い瞳はまるで猫のように縦に瞳孔が広がり、きらりと光を反射していたのだ。その目を見て、アグリィは気を失う直前に彼を見たことを思い出した。

 オースティンズは手に持ったお盆を、物が満載されたテーブルに置いた。器用に水平を保ったままお盆を置くと、彼は指をすいと振った。するとドアがひとりでに閉まり、もう一度指を振ると今度は棚から瓶が一つ飛んできて彼の手に収まった。


「飲むと良い。悪霊ゴーストの冷気は人の体に毒だ。火蜥蜴サラマンダーの火で暖めたとはいえ、放っておけば体調を崩す」


 体も丈夫ではなさそうだし、とアグリィをチラリと見て続けた。しかしいくら待てども、そのアグリィからの反応がないことにオースティンズは首を傾げた。しばらく考えて、ああ、と頷いた。


「毒などではない。私は魔法使いだが、近隣の村では薬師の真似事もしている。これは霊からの悪い影響を取り除く水薬だ。心配はいらない」


 続けて差し出される瓶を反射的に受け取ったアグリィは、警戒をしていたわけではなかった。ただ単純に状況の理解が追いつかずに固まっていただけだ。魔法使い、水薬。耳から入った言葉が、意味を持たないままアグリィの頭の中をぐるぐる回っていた。

 とりあえず飲めと言われていることだけ理解したアグリィはガラスの瓶の中身を見た。色は濃い緑色で、とろりとしている。瓶の口から立ち上る匂いを確かめると腐った匂いなどはしない。中身が悪いものかどうかは分からない。けれど目の前の男性は自分がこの薬を飲むことを待っているようだった。


 与えられた仕事が出来なかった時よりも、命令をすぐに聞かなかった時の方が酷く殴られる。

 瓶の中身は怖かったが、殴られることも怖かった。アグリィは一息に瓶の中身を飲み込んだ。とろりとした液体は味を感じなかったが、飲み込むとお腹の底が暖かくなったような気がした。

 自分の体にそれ以外の変化がないことにほっとしたアグリィは、口を開こうとして躊躇った。質問がしたかったが、アグリィの周りにいた大人達に質問をすると殴られたからだ。結局アグリィは口をつぐんで俯いてしまった。


「何かね?」


 穏やかなその声が自分に向けられていると、最初アグリィは分からなかった。恐る恐る見上げた先では、猫のような瞳が優しくアグリィを見つめていた。


「聞きたいことがあるのではないかね? まずは君の疑問を解決するとしよう。遠慮無く聞いてくれて良い」

「あ……えと」


 アグリィは何度か唾を飲み込み、話す内容を頭の中で反芻した。彼女は人と話すことに慣れていなかった。


「あなたは……神さまですか?」

「……気を失う前にもそんなことを言っていたな。私は神などではない。どうしてそう思ったのかね?」

「死んだら、神さまに会うから。です」


 オースティンズが口元を歪めたのでアグリィは身構えたが、どうやら彼は怒ったのではなく笑ったのだと気がついた。口髭のせいで分かりづらかった。


「まず、私は神ではない。そして君も死んではいない。死んでいれば、腹が減ることもないだろう」


 そう言ってオースティンズは持ってきたお盆を差し出す。その上には湯気を立てるスープがあった。

 具はカブとキャベツ、豆が入っているが、アグリィの体調を考えてだろう、細かく刻まれている。見た目はスープとポリッジ(粥)の中間のようだった。

 アグリィのお腹が音を立てた。アグリィは思わず口の中に溜まった唾を飲み込んで、スープとオースティンズを交互に見やった。彼は黙って頷いた。食べて良い、というジェスチャーだった。


「でも、こんなに具が沢山で、暖かくて、いい、ですか?」


 それは自分が食べてもいいか、という問いかけだった。オースティンズはその質問を聞いて眉を寄せた。あきらかに栄養の足りていない少女の様子から予想はしていたが、どうやらこの少女の置かれていた状況はやはり良くないものだったらしい。特別贅沢ではない食事を前にして、本当に食べていいのか戸惑うくらいには。

 オースティンズは黙ってアグリィの手にスプーンを握らせた。手に触れた瞬間、アグリィの体が強張ったが、空腹には勝てなかったのかアグリィはゆっくりとスープを口に運んだ。

 スープは熱くて、アグリィは舌を火傷しそうになった。慌てて飲み込んだスープは野菜の滋味と不思議な風味が香ってとても美味しかった。一口食べると後は止まらなくなり、熱さも構わず二口目、三口目に口をつけた。野菜も柔らかく、飲み込むと体に力が入るのが分かった。


「滋養のあるハーブを何種類か入れてある。元気が出るだろう」

「んっ、んぐ……はふ、あふ……ん、っ、こほっ、こほっ」

「……ゆっくり食べなさい」


 むせたアグリィの口元を拭いてやりながら、オースティンズは言った。アグリィもこぼしたり吐き出しては勿体ないと、ゆっくりと噛み締めるように食べ始めた。




 やがてスープ皿の中身が綺麗に無くなると、アグリィはほうと満足げに息を吐いた。それを確認したオースティンズはゆっくりと話し始めた。


「美味しかったかね?」


 アグリィはその声にびくりと体を揺らし、それからおずおずと首を縦に振った。


「人心地着いたところで続きを……と言いたいところだが、私としたことが名乗るのを忘れていたな。私はオースティンズ・ケアリー。この森で、魔法使いを生業としている者だ」

「まほう、つかい……」

「そうだ。箒に乗って空を飛び、薬草を煎じて水薬を作り、精霊や悪魔の力を借りてちょっとした魔法を使ったりもする」

「悪いひと、ですか?」

「少なくとも私は良心を持った魔法使いのつもりだ。周辺の者達との関係は良好だし、必要充分以上の資源を森から採ることもない」

「……? りょう……、ひつ?」

「……すまない。難しい言い方だったな。つまり、近くの村の人達と仲良くしていて、森を荒らすこともしていないということだ」

「……」


 こくりと頷いたアグリィの目に理解の色を認めて、オースティンズは密かに感心した。発育の悪さから正確な年齢は計りかねるが、おそらく十は過ぎていないだろう。語彙は乏しいが、歳を考えると十分以上に理解が早い。利発な子だ。それだけに常に怯えた態度と、体に残る傷跡が気になった。


「私の自己紹介はそんなものだ。次は君のことを聞かせてもらって良いだろうか」

「わたしの、ですか……?」

「ああ。まず、君の名前を聞かせてほしい」

「なまえ……アグリィと、呼ばれています」


 名前を名乗るにしては妙な言い方。そしてその名前の意味にオースティンズは眉を寄せた。


「アグリィ(醜い)とは……」


 また随分な名前だ、と口には出さなかった。


「ではアグリィ、で良いかね? 君の話を聞かせてほしい。何故あんなところで悪霊に襲われていたのか」


 アグリィはぽつりぽつりと話し出した。拙い話し方だったが、オースティンズには大まかな事情が掴めた。森の奥には遺跡がある。いつの時代に作られたのか分からないが、現在は魔物達の巣になっている危険な場所だったはずだ。

 おそらく無遠慮に立ち入って住んでいた悪霊の気に触れたのだろう。それで追いかけられていたのだ。


「君と一緒にいた者達は振り返ることもせずに逃げてしまっていた。おそらく君のことは悪霊に殺されたと思っているだろう。知らせを送るかね? それなりに裕福そうだったから、調べればどこの者か分かるだろう」

「知らせ……?」

「君が無事であると伝えるのだ。手紙でも良いし、近くの村には行商人が来るから彼らに言伝を頼んでもいい。君が無事だと知れば迎えに来るかも知れない」


 オースティンズは自分で言いながら、その可能性は低いと思っていた。彼はアグリィの事情を知らないが、見て取れる様子から分かることもあった。それでも誰か、この少女のことを気にかけている者が、この少女を大切にしている者が、たった一人でもいるのではないかと思った。そう思いたかったのだ。

 その言葉を聞いて、ずっと怯えた態度だったアグリィが初めて笑った。へらりと口元を歪めた、下手くそな笑い方だった。


「そんなわけない。です」


 まるでおかしな冗談を聞いたような反応だった。きっとオースティンズも、明日は雨の代わりに金貨が降るから籠を持っていったほうが良いですよ! と言われればこんな顔をしただろう。


「ご主人様は、いつも言ってました。わたしは役立たずだから、いつ捨ててもいいんだって。醜いから、誰も好きにならないって。だから皆、わたしを殴るんだって。わたしも……そう思う。思います。だって、皆わたしを殴ります。助けてくれる人は、いない。です。誰も、いなかった」


 暗い瞳で少女は語った。嫌われているから殴られるのだと。好きなら助けてくれるはずだと。少女を助ける人は、誰もいなかった。


「つまりわたしは、世界で一番の嫌われ者ってこと。です」

 少女は当然のように呟いた。このゴミ捨てておきますね、という言葉と同じトーンだった。


 アグリィにとってそれは当然のことだった。悲しいことでも、苦しいことでもなく、毎日お日様が昇ることと同じく当たり前のことだった。

 だから迎えなんて来るはずない。そうアグリィは言った。それがオースティンズには辛かった。まだ小さな子供がそんなことを言っている事実が辛かった。


 だからオースティンズは話すことを決めた。部屋に入ってから、言い出すかどうか迷っていた提案だ。


「帰る場所がないのなら、ここで魔法使いにならないか?」


 突然の言葉に、アグリィは首を傾げたのだった。

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