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第二話

 アグリィという少女にとって、地獄とはこの世界のことだった。


 お前のような役立たずは地獄に落ちるのだと言われた。

 この世に生まれた人間は死んだ後に神様に裁かれるのだそうだ。そこで生きているうちに行った善行と罪をはかりにかけて、善行が重ければ天国に、罪が重ければ地獄に落ちるのだ。だからお前のように何の役にも立てないやつは地獄に落ちるしかないのだと、名前も知らないアグリィの主人は言った。

 確かにその通りだと、顔を殴られながらアグリィは思った。アグリィの非力な腕は他の使用人のように重いものを運べなかった。庭師のように庭を綺麗にできない。料理が作れるわけでもない。役に立つことができない。善行が積めないのだから、あとは罪が溜まっていくだけだ。確かに天国には行きようがなかった。


 いや、と腹を蹴られ、地面に倒れ込みながらアグリィは思った。きっと今いるこの世界が地獄なのだ。アグリィは地獄がどんな場所なのか知らなかった。生まれてこの方、そんなことを教えてくれた人がいなかった。主人の口調からきっと苦しい場所なのだろうことが分かるだけだ。

 ならばここがきっと地獄なのだ。体を丸めて頭を守るアグリィを取り囲む使用人と、その向こうで嘲りの表情を浮かべている主人を見て思う。自分が役立たずだから、神様はアグリィが死ぬのを待たずに地獄に落としてしまったのだ。


 アグリィは奴隷の子供として生まれた。親、というものの顔は知らない。それがどんなものかアグリィは知らなかったが、いつもアグリィを殴る使用人がとっくの昔に死んだのだと言っていた。

 アグリィは大きな屋敷で暮らしていた。もちろんアグリィの屋敷ではない。彼女の主人が住む屋敷だ。アグリィは大きな屋敷の隅っこの、暗くてじめじめした粗末な小屋で、他の奴隷達と一緒に暮らしていた。


 アグリィは屋敷で嫌われ者だった。彼女は知らないことだったが、使用人達の不満の吐け口として扱われていたのだった。使用人達は到底アグリィにできない仕事を言い渡し、出来なければ役立たずと殴り、出来れば生意気だと蹴った。


 料理人達はアグリィにまともな食事を与えなかった。他の奴隷達の食事も粗末なものだったが、アグリィの分はしばしば腐った匂いのするものが出された。食べれば腹を下す。アグリィは体が強くない自分ではそれは致命的だと理解していた。腐臭のする食事は食べられる部分を必死で探し、残りは空腹を抱えながら捨てた。

 一度あまりの空腹に我慢が出来ず、厨房に忍び込んだことがあった。温かい食事でなくてもいい。美味しくなくてもいい。ただ一度でいいからお腹いっぱいご飯を食べたかった。


 使用人の食べる分の残りだろう。堅い黒パンと冷め切ったスープを見つけて食べた。生きてきた中で一番美味しくて、知らないうちに涙がこぼれた。

 その後、厨房を掃除しにきた料理人に見つかって熱湯をかけられた。咄嗟に逃げたが額にかかってしまい、それからずっと火傷跡が残っている。


 同じ奴隷達もアグリィを助けてはくれなかった。自分のことで必死で、アグリィを気にかけられなかったのもある。けれどアグリィはある日、他の奴隷が失敗をアグリィのせいだと言っているのを聞いた。

 仕事を失敗すると罰が与えられる。食事抜きか鞭打ちかはその日の奴隷頭の気分によるが、その奴隷はどちらも嫌だった。だからアグリィに押し付けたのだ。


 そんなアグリィを、主人はいつも蔑んだ目で見ていた。けれどその目にはどこか畏れが混ざっていた。主人はアグリィの美しい瞳を畏れていた。美しい宝石の瞳を持つものは魔法使いの素質があるという伝承を信じていた。

 アグリィの主人は迷信深い男だった。だからこそ虐げる対象としてアグリィを選んだのだ。

 アグリィという名前も主人が呼び始めたものだった。その名前で呼びかける時は、何故か皆蔑むような表情を浮かべていた。




 ある日、馬の飼い葉を運んでいたアグリィは慌ただしく連れて行かれた。首根っこを掴まれたので息が詰まって咳き込んでいると、荷物と一緒に荷車に乗せられた。何が何だか分からないアグリィを放って剣や盾を持った男たちと主人が馬車を走らせていった。

 がたがたと揺れる荷車に気持ち悪くなりながら数日走っただろうか。漏れ聞こえる話を聞くと、どこかの遺跡に向かうらしい。なぜ自分が連れて行かれるのか分からなかったけれど、質問はしなかった。質問に返ってくるのは拳か平手だとアグリィは良く知っていた。

 遺跡から手に入れた宝は山分けだと騒いでいる主人達を横目に、与えられた干し肉を齧った。保存用の食べ物だったが、普段よりまともな物を食べられたのでアグリィは喜んでいた。


 そうして遺跡に入って現れた化け物に追いかけられて、逃げるために囮にされて、アグリィは初めて自分がこのために連れて来られたのだと理解した。空を飛ぶ黒い影に周りを囲まれて、体の底から凍える寒さに震えながら、アグリィはこれで自分は死ぬのだと悟った。

 人は死ねば神様に裁かれるのだという。善行が重ければ天国へ、罪が重ければ地獄へ。それならばすでに地獄にいた自分はどこへ行くのだろう。


 神様に会ったら聞いてみたかった。もう私は十分は苦しみましたか。役立たずだったことは許されましたか。

 次に生まれた時は、私を必要としてくれる人に会えますか。




「……さて、こんな昼間から悪霊に襲われるなんて災難だったな。大丈夫か?」


 寒さが不思議と遠ざかり、暖かさと共にかけられた声に何とか顔を上げて、アグリィは思った。

 神様って、おじさんの姿をしているんだな、と。

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