第一話
「つまりわたしは、世界で一番の嫌われ者ってこと。です」
少女は当然のように呟いた。このゴミ捨てておきますね、という言葉と同じトーンだった。
良い天気の朝だった。遮る雲もないから暖かい日差しがそのまま届く。夜の間に降った露が光を反射して宝石みたいだった。ふと、オースティンズは故郷の言い伝えを思い出した。
よく晴れた日には貴重な落し物を拾うという。雲ひとつない空だから、神様が落とした物がどこにも引っかからずに落ちてくるのだそうだ。彼は目を細めて空を見た。青々とした空は、確かに幸運が降ってきそうな晴れやかさだった。
オースティンズは短く整えたばかりのグレーの口髭を撫でつけた。今日は頼まれていた薬の材料を採りにいかなければならない。その途中で拾い物があるならば儲け物だ。
ちなみにオースティンズが今いる地方では、よく晴れた日には呪われた品を拾うという伝承がある。日の光を嫌った悪魔が、慌てて逃げ出すときに落し物をするのだそうだ。
伝承なんて半分はいい加減なものだ。でも出来れば良いものを拾いたい。そんなことを考えながら、彼はフードを目深に被って自宅のドアを開けたのだった。
彼が拾い物を前に、「これはどちらの落し物なのだろうな」とため息を吐くのは目当の薬草を採取した帰り道だった。
オースティンズの住む家のほど近くに川がある。その川を上流に向かって四半刻(30分)ほど歩くと彼の目的地である滝にたどり着いた。
水しぶきを跳ね飛ばしている滝の裏にはちょっとした洞窟があり、そこに彼のお目あての薬草があるのだ。
常に流れ落ちる滝に遮られた洞窟は薄暗い。彼は滑って転んでしまわないように慎重に歩きながら、石で出来たシャベルを取り出した。手のひらに納まる小さなそれで、洞窟の壁や床に生えている苔を採取していく。
青みがかった苔は、濃い水の魔力を蓄えた優秀な魔法薬の材料だ。直接太陽の光に当たらず育ったものでなければ、こうも見事な青色にはならない。天然の水のカーテンがあるこの洞窟でなければ見つけるのは難しいだろう。
採取した苔は黒く色を塗ったガラス瓶の中に詰めていく。瓶いっぱいまで詰めたらしっかりとコルクで蓋をして、鞄の一番奥に仕舞い込む。日の光に当てないためだ。
(さて、取り敢えず足らない材料はこれだけだが)
折角家から出たのだから他の用事も済ませておきたい。滝からもう少し上流に行けば野苺の群生地がある。街道の方に歩けば、傷薬に使えるヨモギが手に入る。
(街道の方に行こうか)
森深くは危険な野獣や魔物が出てくる。オースティンズとてそこらの魔物であれば追い払えるが、用心に越したことはない。最近は森の浅い場所でも魔物を見かけたと村の人間から話を聞いていた。
「そろそろ魔除けも新しくしてやらんといかんな」
誰も聞いていないのに独り言がこぼれてしまって、オースティンズは足を止めた。森の中で一人で暮らしているせいか、独り言は彼の癖のようなものだった。
オースティンズは100年を超える年月を生きてきた魔法使いだ。個人主義な魔法使い達の例に漏れず、人生の大半を一人で過ごしてきたオースティンズにとって、孤独は長年付き合った隣人のようなものだ。普段はそこに居るとも居ないとも意識せずに済んでいるのに、ふとした瞬間にひやりと冷たい感触で触れてくる。
例えば雪深い冬の夜や、村に薬を渡した帰り道や、意識せずに漏れた独り言に返事がなかった時。
そんな時、足を止めてはいけないことを彼はよく知っていた。一度立ちすくんでしまうともう歩き出せなくなる。自分の心に目を向けてしまうと、逃げようのない寂しさに気がついてしまう。
「魔除けとなると、必要になるのは黒水晶か天眼石、それにセージ……ホワイトセージは倉庫にあったか」
何かを誤魔化すように独り言を呟き、彼は考えを纏めながら森を進んでいった。獣道だが、オースティンズにとっては何度も通った道だ。さほど苦労せず、すいすいと木々の間を進んでいく。
魔除けのお守りを作るための材料について集中していたためか、彼は異変に気付くのに随分遅れてしまった。
「ん……?」
木々の向こうから何やら騒がしい音が聞こえてくる。普段の森で聞こえる音ではない。何かが争う音、そして叫び声だ。
(誰かが獣に襲われているのか? 近づくのは危険だが……)
もし近隣の村の人間が襲われているのならば助けないわけにはいかない。オースティンズにとって彼らは貴重なご近所さんなのだった。
森をかき分け、音の方向へ向かう。近くにつれてはっきり聞こえてくるのは複数の男たちの怒声、馬のいななき、そして暗い唸り声だ。
「ええい! なんとかしろお前たち! 何のための護衛だ?!」
「勘弁して下せえ! あいつら剣が、剣がすり抜けてっ」
「逃げろっ。触れたら魂を吸われちまうぞ!」
「囮を使え! こんな時のための奴隷だろう!」
ついに彼らの姿が見える距離まで来たオースティンズが見たのは、宙を舞う黒い悪霊の影、顔を真っ青にして逃げ出す武装した男たち、他の人間を突き飛ばしながら走る身なりのいい男、そして突き飛ばされて地面に転がる小柄な人影だった。
何事だ、とオースティンズは呟いた。まだ日の高いうちから悪霊が出るなんて。肉の体を持たない魂だけの存在である悪霊は、日の光に当たれば消えてしまうか弱い存在だ。鬱蒼とした木々によって薄暗くても、この場にいるだけで彼らは体を焼かれてしまう。それを気にも留めず男たちを襲っているのは異常だった。
(いいや)
悪霊たちが襲っているのは男たちではない。背を向けて逃げる男たちには見向きもせず、地面にうずくまる人影の周りに集まってくる。悪霊たちが集まったせいで、背筋が凍るような寒さが辺りに広まった。周囲の植物にぱきり、ぱきりと霜が降りてくる。
離れているオースティンズにとっても寒さを感じるのだから、その中心にいる人影はその比ではない。悪霊たちは肉の体を持った生き物を殺せば、自分がその体に入れると思い込んでいる。放っておけば人影は遠からず死ぬだろう。
オースティンズは鞄の中から小瓶を取り出した。中に詰まっている黒い粉は石炭を擦り潰したものだ。それ自体はどこにでもある普通のものだが、オースティンズのような魔法使いにかかれば使い勝手の良い触媒になる。
蓋を開けて、悪霊たちに向けて小瓶ごと放り投げる。そうして魔力の篭った言葉を一言二言呟けば、小瓶から炎が吹き出した。
現れた炎は周囲に燃え広がることはせず、ひと所に集まってトカゲを形作った。炎の揺らめきに合わせてゆらゆらと輪郭が揺れる。真っ赤なルビーの瞳をした火蜥蜴だ。
火蜥蜴は熱い息を吐きながらぐるりと周囲を見渡した。ざわりと悪霊たちが身を震わせたのが分かった。彼らは熱が苦手だ。標的の周りの温度を奪って凍えさせるのは、そうしないと体を乗っとれないからだった。
「うせろ、悪霊ども」
オースティンズは悪霊たちの中心に向かって歩を進めた。近づけば、小柄な人影はボロ布を纏った少女であると分かる。意識が混濁しているのか、体を震わせながらぼんやりとオースティンズを見ていた。
「この子供はお前たちの体になりはしない。今すぐに森の暗闇に帰らなければ燃やし尽くしてやるぞ」
少女を背にかばい、オースティンズはきっぱりと言った。悪霊たちと対峙するときは胸を張って、弱気な姿を見せてはいけない。仕事柄、霊の類と良く会う魔法使いたちは対処法をよく知っていた。
火蜥蜴も脅すように口から炎の息を吐き出した。周囲の霜が溶け、悪霊たちが嫌がるように距離を取る。しばらく睨み合うと、恨めしそうな声を上げて悪霊たちは一際暗い木の影に吸い込まれるように消えていった。
「……さて、こんな昼間から悪霊に襲われるなんてとんだ災難だ。大丈夫か?」
周囲を警戒しながらオースティンズが振り返る。先ほどの喧騒がどこかに行ってしまったように静かだった。男たちの姿は見えず、残っているのはぶるぶると震える少女だけだ。
火蜥蜴が少女のそばに寄り添う。精霊の火の熱で冷え切っていた体の強張りが溶けたのか、少女はほっと息を吐いた。オースティンズは、おや、と眉を上げた。
火の精霊である火蜥蜴は本来気性が荒く、人に懐くことは極めて稀だ。不用意に尻尾を触った子供に火を吹きかけることはあれど、自分から寄り添いに行くことなど滅多にない。
さてどうしたことか、というオースティンズの考えは、自分を見上げた少女と目があったことで吹き飛んだ。
汚らしい子供だった。ボロ布のような薄汚れた衣服。灰を被ったような髪は元の色が何色か分からないくらいにくすんでいて、丈の短い衣服から覗く腕は骨と皮だけのように細い。右の額から眉までは火傷の跡が這っており、その下には淀んだ瞳があった。
見た目はひどく汚かった。おそらくまともな環境にいなかったのだろう。けれどオースティンズが驚いたのはそこではない。その少女の目だった。
その子は汚らしい身なりにそぐわない、美しい宝石のような青紫の瞳をしていた。
「あなたが……神さま、ですか?」
「は?」
それだけ言うと、少女は気を失ってしまった。悪霊に襲われ体力の限界が来たのだろう。火蜥蜴がどうするのかと言いたげにオースティンズを見上げてくる。彼は深いため息を吐いた。
「これはどちらの落し物なのだろうな」
彼の独り言に返事はなく、静まりかえった森の中に消えていった。