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猫人間をなだめる

 奥が見通せない長い廊下の真ん中に猫人間は棒立ちになり、全身を総毛立てている。


 彼女は目を見開き涙を滲ませている。


 ホラー映画の被害者のごとき形相だ。


 それを見ているとオレの『恐慌」も悪化していく。


 状態異常『恐慌』はハウリングのように近くにいる者同士で伝染する性質を持っているようだ。


 まずこの『恐慌』の伝染を断ち切るため、完全に目を閉じる。


 『半眼』を使わず、自分ひとりだけの世界に意識を完全に『集中』させる。


 それによって外から伝わってくる『恐慌』のエネルギーが低減される。


「…………」


 この状態で『深呼吸』だ。


「すーっ、はー」


「度重なるスキルの使用により『深呼吸』の熟練度がアップしました。肉体への統御力が向上します」


 肉体への統御力……だと?


「今まで知覚できずコントロールできなかった、微細な筋肉の強ばりや神経系の緊張を、呼吸によってくつろげることができます」


 よくわからないが試してみよう。


 なんとなく、空気が腹の下の方にまで流れ込んでいくイメージを持つといい気がした。


 そのつもりで息を吸ってみる。


「すーっ」


 そして吐く。


「はー」


 息を吸うごとに下腹が膨らみ、息を吐くごとにへこむ。


 その呼吸の感覚に意識を『集中』させる。


 恐怖の感情に飲まれそうになったり、不穏なイメージが脳裏をよぎるたびに、スキル『集中』を再発動して、ひたすら呼吸を続ける。


 猫人間がしきりに作業着の裾を引っ張るが無視だ、無視。


「すーっ、はー」


「なにしてるだ? 早く逃げるべっ」


「すーっ。今忙しいんだ。ちょっと静かにしてろよ。はー」


「オラもうこんなの嫌だあ! ユウキさんの頭がおかしくなってしまったべ!」


「すーっ。失礼なこというなよ。『恐慌』を解除しようとしてるんだ! はー」


 なんどか深呼吸を繰り返していると、わずかにみぞおちのあたりがリラックスしたのを感じた。


 横隔膜がより大きく伸縮し、息をさらに深く吸い込めるようになった気がする。


 恐怖でおかしくなっていた自律神経の乱れも整ってきたように感じられる。


(これでオレはもう大丈夫か……あとはこの猫人間をなんとかしないとな)


 そうだ。


 前に進むには仲間を励まさなければならない。


 ……仲間?


 いつの間に?


 勝手に仲間認定していいのだろうか?


 わからない。


 だが同じ方向に向かって歩こうとしている人は皆、仲間のはずだ。


 ユウキはスキルを使った。仲間を励ますために。


 *


「お前、いつまでビビってんだよ。いい加減にしろよ。置いてくぞ」


 とりあえず『暴言』を発する。


「嫌だべ。置いてかないでけろ」


 猫人間はホラー映画でモンスターに虐殺される直前の被害者めいた表情を見せた。


『暴言』によって意識をこちらに引きつけることができた。


 だが、これからどうすればいいのか?


「深呼吸……できるか?」


 そう聞いてみたものの、できないことは明白だった。


 ラチネッタは滂沱の涙を流しながら、過呼吸になりそうな浅い呼吸を繰り返している。


(こんな状態では『暴言』以外の会話系コミュニケーションスキルは通じそうにないないな。となると……)


 ユウキは数少ない物理コミュニケーションスキルである『スキンシップ』を発動した。


 廊下の真ん中で立ちすくんで全身の毛を逆立てている猫人間の背を、かなり強めに叩いてみる。


 どっ。


 廊下に鈍い音が響く。


「うっ、痛いべ。なにするだ!」


「早く正気に戻れ」


「仲間が攻撃してきたべ。もう終わりだべ!」


 猫人間は不合理なことをわめくと顔を覆って床にしゃがみ込んだ。


「叩くのは逆効果だったか……だったらこれでどうだ」


 顔を覆い肩を震わせて泣く猫人間の丸まった背筋を、ユウキは人差し指で上から下へと撫でた。


「ひゃっ! なにするべ」


 さらにもう一度、指ですすすすっと背筋を撫でてみた。


「やめてけろ、くすぐったいべ!」


 いまだに泣き声だが、その声からはわずかに恐怖が薄れているのを感じた。


 なるほど。


 こういう方向性か。


 ユウキはさらにスキル『スキンシップ』を重ねて発動した。


 今度は手のひらを使って彼女の背を撫でる。


 さすさすさす。


 さすさすさす。


「これはいいな。撫でてるとオレも落ち着いてくる」


「やめてけろ。オラの発情期はまだまだ先だべ!」


「ただのスキンシップだろ。自意識過剰なんじゃないのか」


 適宜、スキル『討論』を使って彼女の意識を日常的な方向に誘導しながら『スキンシップ』を続ける。


 すると……だんだん猫人間の恐怖に強張った背筋が、通常時のしなやかさを取り戻しはじめた。


 その調子でラチネッタを撫でつづける。


 さすさすさす。


 さすさすさす。


 さすさすさすさす……。


 するとラチネッタは床にしゃがんだまま、くるりと振り返るとユウキに手を伸ばしてきた。


「な、なんだ?」


「お、おらも撫でてあげるべ」


 ラチネッタの手が、ユウキの肩や二の腕をごそごそと撫でる。

 

 ごそごそ。


 ごそごそ。


 ユウキも撫で返した。


 さすさす。


 さすさす。


 二人は迷宮の長い廊下の真ん中で床にしゃがみ、互いの肩や二の腕や脇腹を撫であった。


「ひゃっ。くすぐったいべ」


「おい、そんなところ触るなよ」


 さまざまな部位を撫であっているうちに、互いへの文句が漏れ始めた。


 やがてそれは笑い声に変わり、くつろぎが二人の間でハウリングを始めた。


 それは迷宮の闇の魔法が生み出す恐怖に打ち勝った。


 あるとき二人は手を止めて顔を見合わせた。


「もう……行けるか?」


 ラチネッタの涙は乾いていた。


「おら、もう平気だべ。ユウキさんはどんな塩梅だべか?」


「まあ、なんとかな……それじゃあ行ってみるか」


 ユウキと猫人間は立ち上がると廊下を前へと歩き出した。


 *


 長い廊下はやがて複雑に分岐し、ユウキは方向感覚を見失った。


 しかしラチネッタは体内に正確なセンサーでも持ち合わせているように、目的地へとユウキを導いた。


 ときおり不定形のドロドロしたモンスターが小部屋から溢れ出てきたが、二人は『大盗賊ミカリオンの指輪』によって不可視化されているため安全にスルーできた。


 しばらくしてラチネッタは髭をひくひくさせたかと思うと、唐突に足を止めた。


「ここだべ」


「え、何が?」


「第二フロアへと続く隠し扉だべ」


 ラチネッタが指した廊下の壁は、他と同様つるつるで何もないように見える。


 だがラチネッタはひくひくと髭を動かしながら、壁にそっと触れて顔を近づけた。


「ここから微かに冷たい隙間風が吹いてるべ。しかもこの壁にわずかな段差があるべ。ここには間違いなく隠し扉があるべ」


「ただの立て付けミスじゃないのか。仮に百歩譲ってここに隠し扉があるとして、それが第二フロアにつながってるという保証はあるのか?」


 急にユウキは不安になってきた。


 ラチネッタを頼りにここまで進んできたが、もし彼女が間違っていたら計画は何もかも挫折し、塔は崩壊しシオンは死に、この世界は破滅する。


「見てけろ。これが保証だべ」


 ラチネッタはポケットから古びた手帳を取り出した。


「『第二フロアに繋がる隠し扉をおらが仕事の合間に見つけた』というのは、実は嘘だべ」


「嘘?」


「んだ。第二フロアへの隠し扉の場所は、指輪と共におらの家に代々伝わる、この『ミカリオンの手帳』に書いてあったんだべ」


「ということはつまり……ラチネッタはそのミカリオンの子孫ってことか?」


「そうなるべ……おらが悪名高い大盗賊の子孫だと知られたくなくて、嘘をついていたべ。んだども、どうか怖がらないでほしいべ……」


 ラチネッタは顔を伏せてそう言った。


 常識知らずな人間だと思われたくなかったので、ユウキはほどほどに怖がった。


「マジであのミカリオンの子孫なのかよ……やばすぎだろ」


「んだどもおらは……! かたぎになるって決めてるべ! 村を出てから一度も盗みの仕事をしてないべ」


「昔はしてたってことか。思ったよりやばいな……」


 ユウキは一歩、ラチネッタから遠ざかった。


「そ、それが家業だべ……しかたがないべ……! おらの血統には倫理観なんてものは流れてないんだべ! んだどもおらは今、自分で自分を躾けてるところだべ! もうすぐ真人間になるところだべ!」


「なれるのか? 猫人間は猫人間なんじゃないのか? ミカリオンの子孫はミカリオンの子孫なんじゃないのか?」


「深層フロアにある『種族変化の秘薬』さえ飲めば、おら、真人間になれるべ!」


 本当だろうか。薬を飲んだところで、生まれ持った性質はそうそう簡単に変わらないと思うのだが。


 ユウキは敬愛するもあーず氏の著書『君は今のままでいいと思うよ』の一節を思い出した。


『今の自分を否定するより、今の自分のありのままを認めて伸ばす方がいい』


 だがこんな正論をラチネッタに投げかけたところで猫の耳に自己啓発といったところだろう。


 オレ自身にしたところで、長年、自分を否定してばかりだった。


 ホームページのPVを思うように伸ばせない自分。


 外で働く気になれない自分。


 何もかも嫌だった。


 この自分を好きになれる日は来るのだろうか?


 いつか凄まじいPVを稼いでホームページを起動に乗せてまっとうな大人としての収入を得ることができたなら……きっとそのときこそ、オレは自分を認められる。


 そして自分に自信が持てるようになる。


 そして堂々と顔を上げて生きていけるようになる。


 ずっとそう思っていた。


 でも……本当は違うんだ。


 何もなくても、今、この自分を認めるべきなんだ。


 この今のただの自分を、そのまままっすぐに。


 無理に高めもせず、無理に卑下することもなく、ただ今のこのままを認めるべきなんだ。


「…………」


 しかしそんなことをどれだけ猫人間の猫耳に吹き込んだところで猫に小判であろうし、オレ自身、実のところ、ぜんぜん自分を認められていない。


 ふと思い立ったユウキはナビ音声に聞いてみた。


(オレは自分をどの程度、認めることができてる? オレの自己受容率はどのぐらいだ?)


「かなり低いです」


(どうすれば高められるんだ?)


「『よくやってる』と、声をかけることです」


(なるほど。さっそくやってみるか……よくやってるぞ、オレ)


 ユウキは自分自身にねぎらいの声をかけた。


 ポータルを見つけるというこのミッションが成功するかどうかはわからない。


 今、目の前にあるらしい、第二フロアに続く隠し扉なるものが、本物かどうかも怪しい。


 しかし、なんにせよ、オレはよくやっている。


 呼吸して生きてる時点でよくやっている。


 偉いよオレ……。


「なんだべユウキさん。急に草食動物みたいな優しい顔をして」


「ふっ。ラチネッタもよくやってるぞ」


 そのときナビ音声が脳裏に響いた。


「スキル『ねぎらい』を獲得しました」


(よし……どんどん使っていこう)


 ユウキはスキル『スキンシップ』を発動して軽く猫人間の背を叩くと、再度『ねぎらい』を彼女に向けて発動した。


「偉いぞ、ラチネッタ」


 ラチネッタは最初、ぽかーんという顔をしていたが、やがて破顔した。


「変な人だべ。おかしいべ」


 そう言いつつも楽しそうに笑っている。


「それじゃあ……開けてくれるか? この隠し扉」


「おうだべ! んだども……本当に行くんだべが?」


 ラチネッタは隠し扉に伸ばしかけた手を止めてユウキを見た。


「この第一フロアにあったのは主に精神的な危機だったべ。んだどもこの下の第二フロアになってくると、本気で命が危険にさらされるべ。それでも本当に行くんだべが?」


 ユウキはうなずいた。


「わかったべ」


 猫人間は片手に持った『ミカリオンの手帳』を確認しながら、廊下の壁を叩いたり押したりした。


 ふいに大きな音がして壁の仕掛けが作動し、隠し扉が二人の目の前にぽっかりと口を開けた。


 二人は顔を見合わせてうなずきあうと、隠し扉の奥に続く底の見えない下り階段に身を進めた。

いつもお読みいただきます。

このあとも引き続きお楽しみください。


またぜひブックマーク、評価など応援よろしくお願いいたします。

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