体育マットの上で
エリスが通う高校の部室棟……その四号室の奥に敷かれた体育マットの上で、ユウキは驚きのあまり硬直していた。
今は深夜であり、部室には明かりひとつ灯っておらず、厚手のカーテンによって窓も隠されている。
それゆえに今、室内は完全なる暗黒であるはずなのに、なぜだか光が見えるのだ。
暖かみのあるその光は、なぜだか自分の胸の内側を光源としているよう感じられる。
「おい、なんだか光ってるぞ。俺の胸の……」
「ハートだぞ。光ってるのは」
「何だその、ハートってのは? 心臓のことか?」
「位置としてはちょうど心臓に重なって存在しているけど、心臓とは違うものだぞ」
「何なんだそれは?」
「ハートだぞ。見てみればわかるぞ」
「…………」
ユウキはスキル『集中』と『半眼』を発動し、外界への注意をわずかに残しつつ、意識の大半を己の胸の中で輝いている光に向けた。
最初、それはただ四方に放射される光に見えていたが、やがてその光の中に有機的な構造を認識できるようになった。
「何だこれは……花? 光そのものによって作られた花びらを持つ……蓮の花か?」
「うん。それがハートだぞ。蓮の花のような形状は実体ではないけれど、この世の人間の超感覚的知覚にはそう認識されがちなんだ」
「その光の蓮の花がオレの胸の中でゆっくりと開いているようなんだが……なんでこんなものが見えるんだ?」
「まずひとつ目の要因はそれだぞ」
エリスはユウキが手に持ったマグカップを指差した。
「このお茶がどうかしたのか? 家にあるハーブティに似てるが、ずっと濃厚だな」
「このハーブは私が裏山の畑で育てた、とても特殊なハーブなんだ。元の濃度で飲めばそれだけで色々な効果が生じてくるから、家で飲むときは薄めてるんだ」
「色々な効果というと……」
「何の意味もなく楽しくなってくる。しかも強烈に……というのが第一の効果だぞ」
「おいおい、それはヤバいハーブなんじゃないのか」
「安心してほしい。ごく普通のハーブに私が魔術的な儀式を施して、そのような効果を付与しただけだぞ」
「なるほど……それにしても、そんなに『楽しさ』は湧いてこないようだが……」
「うん。このハーブはある程度、私の意図によって効果を後付けできるんだ。今回はユウキのハートの光が強まるように設定してみたぞ」
「…………」
「効いてよかった。内なるハートの光さえ認識できれば、イニシエーションは九割方、成功したも同然だからな」
エリスはそういうものの、ユウキ的には、ただなんとなくぼんやりと胸の中が輝いて見えるだけで、それに何かしらの前向きな意義を感じることはできなかった。
一方エリスは過去を懐かしむが如き声で呟いた。
「私も大穴でエグゼドスに調伏された後、あいつが持っていたアーティファクト……『慈愛のクリスタル』の力によって、同様のイニシエーションを授かったんだぞ」
エグゼドスのクリスタル。
懐かしいワードを聞いたユウキも懐かしい気分と共にあの異世界のことを思い出した。
クリスタルというと、闇の塔に七つあるクリスタルチェンバーに安置されているものだろう。
第二クリスタルチェンバーにある『生命のクリスタル』は、各種のエネルギーを変換したり貯蔵したりする能力を持つ。
塔最上階、第七クリスタルチェンバーにある『次元のクリスタル』は、次元の扉、ポータルを開く能力を持つ。
だが『慈愛のクリスタル』などという名のものは聞いたことがない。
もしかしたらそのクリスタルこそが、猫人間ラチネッタの先祖によってエグゼドスから盗まれ、現在は猫人郷に御神体として安置されているものではないか?
などなど、ポータルが近いためか、普段は全く心に上ることのない異世界の具体的な物事が想起される。
(ラチネッタか……ふふ、懐かしいな……)
ぴょこぴょことよく耳と尻尾を動かして軽作業に勤しむ、あの働き者の猫人間のことを思い出し、ユウキは微笑ましい気持ちになった。胸の中の光がよりポッと明るく脈打つ。
(だが……よくよく考えてみれば……オレはあいつととんでもない約束していたはずだ。『猫人間の村祭り、その成年の儀にゲストとして出席する』と)
瞬間、胸の中の光よりも強くユウキの体内を駆け巡るものがあった。
それは劣情だった。
胸よりもむしろ下腹部にエネルギーが集まる。
そんなユウキに気づかず、エリスは遠い目をして呟いた。
「闇……それは肉体と物質を表していて、光……それは精神と存在を表しているんだぞ。昔、闇しか知らなかった私はエグゼドスのあのクリスタルで、愛を知り光を知ったんだ……」
エリスの昔話に注意を向けて劣情を振り解こうとする。
愛、そして光……。
そういう清らかな単語に意識を集中して、なんとかこの灼熱のマグマの如き劣情から解放されたい。
だが異世界で自分を待っている性的体験、その無限の可能性がユウキの脳裏に次々と鮮やかなヴィジョンとしてはためいた。
「ど、どうしたんだユウキ……光と闇のバランスがすごい勢いで崩れていってるぞ」
「す、すまん」
「早く光の方面に意識を向けてほしいぞ」
ユウキはスキル『集中』を発動して意識を胸の中の暖かな光に向けようとした。
だがその努力全ては、よくよく考えてみればそもそも『異世界でナンパする』という何をどう言い繕っても劣情100パーセントな行為を目的としたものであった。
それゆえに、光に意識を向けようとするほど、ユウキの意識はむしろ闇へと……劣情へと導かれていった。
「ど、どんどんオレの胸の中の光が見えなくなっていくぞ」
「もっとお茶を飲むんだ。このままではイニシエーションは失敗するぞ!」
エリスはあたふたと例の怪しいハーブティーをもう一杯淹れた。
熱々のマグカップを受け取ったユウキは、ふうふうと冷ますのもほどほどに再度、ハーブティーを急ピッチで飲み干した。
ハーブティーの何らかの怪しい成分がまた効いたのか、ユウキの胸の中の光は輝きを増やした。
だが『茶を飲む』という行為により、ユウキはラゾナとの性魔術の訓練を思い出した。
どこぞの蛮族が結婚初夜に飲むという『和合茶』を傾けながら、ラグジュアリーなソファの上で豊満な肉体を持つ女魔術師と見つめ合い、少しずつ心と体を触れ合わせていく。それが性魔術の訓練だ。
いざ異世界に戻れば訓練の続きが始まる。どこから続きが始まるかというと、もはや準備的な段階ではなく、かなり本格的な性行為に近い場所から性魔術の修行は再スタートを切りそうである。
その具体的な内容に思いを馳せてしまい、光から劣情へと、ぐぐぐっとユウキのエネルギーバランスは崩れた。
「お、おい。もう光が見えなくなってきたぞ」
「仕方ないな。こうなったら闇に意識が向いている状態で、少しでも光をチャージするしかない」
「どうすればいいんだ?」
「まず基本的に闇の属性である私の、肉体という闇の属性を帯びがちな器官を、ユウキの肉体にくっつけるぞ」
エリスは体育マットに座るユウキの隣に腰を下ろすと、ぎゅっと身を寄せてきた。
「この状態でさらに催眠をかけるぞ。ユウキのためになる催眠だから受け入れてほしい」
エリスはユウキを近距離から直視してきた。若干の疑いを覚えつつも、ユウキはその赤い虹彩を直視し、彼女の催眠を受け入れた。
「ユウキ……私はユウキの妹だぞ」
「お、おう」
「妹だけぞお兄ちゃんのことが好きで仕方がないんだ」
「ああ、オレもエリスのことは大好きだ」
「そういうことじゃない。触ってほしいんだ。私の体を」
妹は上着のボタンを外して胸元を開けた。これまで感じないようにしてきた妹への欲望に突き動かされ、ユウキはエリスの体におずおずと指を這わせた。
やがてエリスから吐息に混ざって小さな声が上がり始めた。その声を聴くごとにユウキのエネルギーバランスは光から闇へとより強く崩れていった。
そしてユウキはエリスを体育マットに押し倒した。そのときには胸の中の光は完全に見えなくなっており、そのために部室は元通り完全な暗闇となっていた。
暗闇の中で揉み合っていると、エリスは一瞬、ユウキに口づけし、耳元に囁いてきた。
「見てほしいぞ。私の体」
ユウキはエリスにのしかかりながらその体に目を向けた。しかしここは暗闇の中であり、どうしてもエリスの体を見ることはできなかった。
ユウキは半裸となったエリスの肌を見ることに集中した。
肌に直に触れながらその輪郭を見ようと努めた。
やがて自らの手のひらの下で脈打つ皮膚を心の目によって感じ取り始めた
さらにそれを構成する細胞の一つ一つが小さな光を発しているよう感じられ始めた。
細胞と遺伝子と、それらを構成する微塵の粒子と、それらの間の虚無なる空間、その中に光が満ちているよう感じられた。
「……見えてるか? 私の体」
「ああ」
ユウキはうなずくと、ごくわずかに感じられる肉体の光をよりしっかり認識しようとしてエリスの肌に触れ続けた。
「それじゃあ……イニシエーションとは何かについて説明するぞ」
エリスはうっとりとした吐息の合間に呼吸を整えながら、今現在行われているイニシエーションの理論的な背景を語った。
イニシエーションの意義、その方法、効果について語った。その間もユウキはエリスに愛撫を続けており、ある一点においてユウキの劣情は限界を超えた。
限界を超えた劣情をそのままエリスにぶつけようとしたそのとき、ユウキの脳裏に過去の記憶が蘇った。
それは百人のオークに蹂躙されている己の姿であった。
オークが己の劣情を次々とユウキにぶつけていく。その記憶がもたらす苦痛にユウキは喘いだ。
エリスは下からユウキを抱き寄せると言った。
「今、光の力によって傷跡を癒すといいぞ」
「光の力……?」
「ユウキはもう使えるはずだぞ」
そんなわけがないと思いつつもユウキは己を癒そうと試みた。エリスとの性行為を続けるためにはまず何より己を癒さなければならない。
そこで深呼吸を皮切りに各種のスキルを組み合わせて、オークとの儀式によって負った心と体の傷を深いレベルで癒そうと試みた。
だがどうしてもそれは癒えない。
「光だ。ポイントは光だぞ」
しかし今またユウキは光を見失いつつあった。
見知らぬ夜の校舎の、己にとってすでに限りなく異世界に近い謎の部室の中で、エリスなる吸血鬼と揉み合いながら、またユウキは前後不覚となっていた。
深宇宙の無重力空間のごとき暗闇の中で、ユウキを乱暴にコントロールし、自らの欲望の吐口とする男たちの記憶に苛まされながら、だがユウキは男たちを責める気にもなれず、むしろ自分こそが加害者であると感じていた。
なぜならオレも男であり、あの男たちと同じ欲望をこの身の内に抱えているからである。
なぜならオレが心より熟達を望むナンパという行為は、そもそもどれだけ取り繕おうとも、他者をコントロールし己の欲望の吐口としようとする行為だからである。
つまりオレこそがオークであり、オークはオレだったのだ。だからこそオレを傷つけたのはオレであり、常にオレはオレによって傷つけられてきたのだ。
そのように思考が結線されたユウキは、自らが自らを傷つけるループの中に自らを閉じ込めながら、深宇宙の虚無を永遠に彷徨う運命にあるかと思われた。
その極度のコズミックホラーに顔を引き攣らせながらも、ユウキは『深呼吸』し、スキル『感謝』を発動した。エリスに、空奈に、オレを癒そうとしてくれた多くの人たちに感謝を捧げた。わずかに心の中に温かみを感じた。
だがまだ足りない。傷ついた心を癒すには温もりだけでは足りない。もっと強く心と体の奥へと浸透するエネルギーが必要に思われた。
ここでユウキは先ほどのエリスの言葉を思い出した。
『光だ。ポイントは光だぞ』
ユウキは再度、スキル『深呼吸』を発動した。だがここで吸い込むのは新鮮な空気のみではなかった。
暗闇の中にありながらユウキはスキル『想像』と『美』によって美しき光を想像した。
そしてスキル『集中』を使ってその光に意識を集中し、さらにスキル『イメージトレーニング』によって、光を呼吸と共に全身に吸い込むイメージを形成してそれを実行した。
しかし周囲を取り囲む物理的な闇はあまりに濃く、心の中に満ちる暗黒はユウキの意識を澱ませる。
刻一刻と明晰さは低下し、スキルの効果は薄れ、劣情のみがユウキを掻き立てる。
そんな中ユウキはスキル『粘り』を発動して、深呼吸と共に光を吸収することを何度も試み続けた。
やがて手のひらで触れ続けているエリスの体温に、また光が感じられ始めた。ユウキはエリスの光を感じ、それを温もりと共に受け取った。
それにより光のイメージはわずかに強化され、ユウキは自らがさらに大きな光を吸収できるようになったのを感じた。
だが依然として部室内は暗黒である。どこに光があるのだろうか?
ユウキは上下左右に光を探した。それは見つかった。
今、部室の上空で渦巻く乱雲……それを超えた高みで輝く冬の星座から数多の光がシャワーのように降り注いでいる。
目には見えないが、スキル『想像』によって心に捉えられているその光を、ユウキは呼吸と共に吸収した。
星々の光はユウキを淡く輝かせ、それは固く閉じつつあったユウキの胸の蓮華を綻ばせた。そして今、そのわずかに開いた花弁から一筋の光が溢れ出した。
自らの内から溢れ出すその光と自らの外から流れくる光が混じり合い、それはユウキの心の中に満ち始めた。
その光はオークによって犯されまくる過去の自分自身に流れ込み、彼女を癒していった。
そしてオークとしての自分自身の劣情の中に流れ込んでいき、彼の満たされることのない欠乏感を満たしていった。
脳内にナビ音声が響いた。
「スキル『癒し』を獲得しました」
今回もお読みいただきありがとうございます!
次回更新は二週間後、来年、一月一日の予定です。
今年も一年、本作にお付き合いいただきありがとうございました。来年もよろしくお願いいたします。
みなさん、良いお年をお過ごしください。
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小説と漫画、両方のメディアで広がる異世界ナンパの世界、ぜひ年末年始にお楽しみください。




