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妹の提案

 初冬の冷え込む空気の中、ユウキは来る日も来る日も、駅前で『顔上げ』と『散歩』を続けた。


 また、その合間に深呼吸して気持ちを落ち着けた。


 それによって放射されているのかもしれぬ平和な雰囲気に惹かれてか、たまに迷い人が近づいてくる。ユウキは彼らを親切に案内するワークを続けた。


 そんなある日の夜……ユウキは実家の食卓に紙の地図を広げ、駅前の地理を学んでいた。


 またいつ何時、誰に道案内を頼まれるかわからない。


 今日は三組の老若男女に道を聞かれた。スマホを見ればだいたいのロケーションに案内できるが、やはり基本的な土地勘は前もって学んでおいた方がいい。


「なるほど……ここがここに繋がっているのか……」


 より効率の良い親切のため、ふんふんと鼻歌を歌いながら地図に赤鉛筆でメモを書き入れ記憶を強化していく。 


 と、そのときだった。


 いきなり食卓にどしんと音を立てて数冊の本が置かれた。


 顔を上げると妹が腰に手を当てて目の前に突っ立っている。


「な、なんだよ」


「ユウキ……ユウキは何をしに駅前に通っているんだ?」


「な、ナンパだ」


「だったらそんな地図なんて見る代わりに、この本を読むといいぞ」


「なんだこれは……」


 ユウキは妹が持ってきた本を一冊、指でつまんだ。


『女心を操る7+1の闇テクニック ~悪用厳禁~』


 黒字に赤でそんなどぎついタイトルが書かれている。


 何だか汚らわしいものを感じる。


 あまり触りたくない。だが妹は言った。


「私がユウキのために買い集めてきたんだ。ユウキのナンパがもっと先に進んでから渡そうかと思っていたけど……今すぐ読んだ方がいいと思うぞ」


「なんでだ」


「まず言っておきたいこととして……私はドロドロした人の心の闇が好きなんだ。だからこういう汚れた欲望をテーマとした本は私の好みなんだぞ。ユウキのナンパを応援するのも、私は闇が好きだからなんだぞ」


「そ、そうだったのか」


「うん。ナンパなんて汚らわしい闇の活動にコミットするなんて、さすが私のお兄ちゃんだなと、誇らしく思っていたんだ」


「…………」


「なのにいつまでもユウキはナンパを始めようとしない。それどころか『やっぱり親切は気持ちいいなあ』なんて小学生みたいなことをうそぶく始末。そんなことじゃいつまでもナンパなんてできやしないぞ!」


 妹は本の上にパンと手を置いた。ユウキは目を逸らして呟いた。


「オレなりに……ステップを踏んで前に進んでるつもりなんだ。人に親切にするという活動の果てに、きっとオレだけのナンパが待っているはずなんだ……」


 妹はやれやれと首を振った。


「まったく。しっかりして欲しい! この世は意思の弱いものが強いものに操られるコントロールゲームのフィールドなんだぞ! ユウキみたいな純真無垢な気持ちの男、いつ悪い奴に付け込まれるんじゃないかって、私は不安でならないぞ! 学校で授業を受けてる間も心配なんだぞ!」


「まあ……確かに駅前にはいろんな奴がいる。アンケートを装って不動産の営業を仕掛けてくる奴。夢を叶える方法を教えると言って宗教に引き込もうとして来る奴。ラーメンの美味しい店を探していると言いつつ実はマルチレベルマーケティングの勧誘な奴。だがオレだって三十五のいい大人だ。そんなくだらないものに引っかかるような馬鹿じゃない」


「で、でも、道案内だなんて素朴な親切のやりとりをいくら続けたって、ナンパは永久に成功しないぞ!」


「つまり……もっと自分の欲望を出せ、と?」


「うん。綺麗事だけじゃ世の中やっていけない。私はそう思うぞ」


「確かに……それもそうかもしれない。でもちょっと問題があってな」


「問題? 話してみるといいぞ」


 興味を惹かれたのか妹は赤い瞳でユウキを覗き込んできた。


 話しにくいことではあったが、なぜかユウキはつい悩みを打ち明けてしまった。


「実は……なんでかわからないが、最近オレ……少しでも興奮すると具合が悪くなるんだ。呼吸が乱れて心拍数が跳ね上がり、目の前が真っ暗になって倒れそうになる」


「ははは。そんな嘘くさい言い訳は妹の私にしなくてもいいんだぞ」


「嘘じゃない、本当なんだ。命の危険を感じるレベルだ。……今日も駅前で魅力的な女性を見かけたが、瞬間、オレは具合が悪くなって死にそうになった」


「ははは。ユウキはまったく大袈裟だな。だがそうまで言い張るなら、ちょっとテストしてみよう。まず今から数分、『妹』というフィルターをユウキの認知機能から外してみるぞ。そうすればユウキの眼前にいるのは魅力的な女性だ」


 妹は再度、ユウキを赤い瞳で覗き込んできた。瞬間、何故か妹がよそよそしい他人に感じられはじめた。


「そしてこの状態で……ユウキの膝に座ってみるぞ」


 エリスは食卓を回り込んで近づいてきたかと思うと、椅子に座るユウキにまたがって腰を下ろした。


「なっ、なにを……!」


「ちょっとした実験だぞ。ユウキの肉体が他者への興奮によって本当に具合が悪くなるかどうか、確かめるんだ」


 エリスにまたがられたユウキは咄嗟に深呼吸を発動したが、急激に高まっていく心拍数を抑えることはできなかった。


「ははは。私が相手でも少しは性的に興奮するんじゃないか? 私も最近は私なりに魅力を高めようと努力しているからな」


 ユウキは弱々しい口調で懇願することしかできない。


「たのむ……早くどいてくれ」


「もし性的に興奮しても恥ずかしがらなくてもいいんだぞ。それは動物しての自然な機能であって、そんなことで生命活動に支障をきたす訳などあるわけがないから……ん、ユウキ、どうした? 顔が真っ青だぞ……おい、ユウキ!」


 妹に肩を揺さぶられながらユウキは気を失った。


 *


 結局ユウキは駅前で人に親切にするというワークを続けざるを得なかった。


 少しでも性的な興奮を感じると、昨夜妹の前で実演してしまったがごとくに、急に肉体の調子が悪くなり死にそうになるのである。


 そんな状態でできることと言えば、できるだけ清らかな気持ちをキープして他者に親切にすることぐらいだった。

 

 そんなわけでユウキの親切力は日増しに進化していった。


 親切を発動する機会の発生確率までもが少しずつ上昇しつつあるよう感じられた。


 駅前で人に道を聞かれることに加え、ユウキの目の前で通行人が物を落とす頻度が増えていった。


 スマホ、ハンカチ、ワイヤレスイヤホン等のアイテムを、学生が、会社員が、子連れの母が、次々と落としていく。そのたびにユウキはさっと無心で落とし物を拾って渡した。


「あ、ありがとうございます!」


「いえいえ。別にいいんですよ」


 そんなやりとりを繰り返すごとに、やはり胸のあたりに何か暖かいものが込み上げてきた。


 ちょっとした無心の親切によって生じるその暖かいものを昼の間に集めること、それが今の自分にできる最大限の仕事である。


 そしてその仕事を続けている限りは、夜に見る悪夢はこれ以上悪化しない。


 なんとなくそう感じられた。


 だが恐るべきことに、街の空気に慣れていくごとに、街の中で性的な興奮を覚える頻度もまた上昇しつつあった。


「……なんだあいつ。なんつーエロい格好をしてるんだ」


 もう冬だというのなんだか性的な格好をしている人が増えている気がする。この国の道徳はどうなってしまったんだ……。


 いや……これは『清らかな気持ち』をことさらに維持しようとするオレの不自然な努力の反動に過ぎないのか?


『性的なものを忌避し抑圧する聖職者ほど、世界の何もかもがエロく見えて最終的には頭がおかしくなる』なんて話はよく聞く。


 そのような人間心理によってオレは今、この駅前の何もかもエッチに見えているのではないか?


 目の前を通り過ぎる学生が、会社員が、子連れの母が、その他あらゆる女性が何もかも皆エッチに見え、心拍数が急激に上昇していくのが感じられる。このままでは具合が悪くなって家に逃げ帰ることになってしまう。


「くっ……」


 ユウキはなんとか駅前広場のベンチで深呼吸を発動し、清らかな心と無心なる親切心を再セッティングしようと試みた。


 だがユウキの性的興奮はついに深呼吸によっても抑えることができぬレベルに達し、それとともにApple Watchに表示された心拍数のグラフは右肩上がりで上昇し、やがて呼吸は完全に乱れ、とうとうユウキの肉体の神経活動は何もかもめちゃくちゃになった。


 ユウキは激痛を発する胸を押さえながら逃げるように帰宅した。


 *


「はあ……」


 夜、ユウキはリビングで頭を抱えてため息をついた。


 このままでは駅前での活動を続けていくことができない。


 だがそうなると、夜に見る悪夢の内容は近いうちに取り返しのつかないレベルに悪化し、あの世界に生きる者たちは全滅するに違いない。


 しょせん夢の中のことなどオレにはあずかり知らぬこと。別にそんなものに責任感を覚える必要はない。


 そんな理性的な判断も頭に浮かんだが、どうしてもそう簡単に割り切れぬものを感じる。


 なんとなく、あの夢の世界に頻出するボロボロの塔が崩壊すると同時に、オレの肉体もまたこのはかない生命活動を終えるのではないか……そんな予感がある。


「ど、どうすればいいんだ……」ユウキは冷や汗をかきながら実家のダイニングテーブルでプレッシャーに押しつぶされそうになっていた。


 と、そのとき妹が部活から帰ってきた。手にスーパーの買い物袋をぶら下げている。


「ユウキ、遅くなってすまない。すぐにご飯を用意するぞ」


「すまん……食欲が……」


「ははは。どうせ何か悩みがあるんだろう。私に打ち明けてみるといいぞ」


 そう言われても、『世界の何もかもがエッチに見えて困る』……そんな悩みを妹に打ち明けるわけにはいかない。


 ユウキはとっさに心の壁を張った。


 だが学校の制服の上にエプロンをかけた妹は、その赤い瞳でユウキを覗き込むと静かに言った。


「さあ……話すんだ。私に……悩みを……」


「な、なあ。前から気になってたが、それ、催眠術か何かのつもりか?」


「気づかれてしまったか。実は私は人を操る力に長けているんだ。この前、ユウキに貸した本にも書いてあっただろう。人の心は意外に簡単に闇の力で操作できるものなんだぞ」


「……やばいな」


 もう高校生だというのにどこまでも中二くさい妹の言動を、兄としては心配せざるを得なかった。


 そんな調子で学校の友達付き合いとか、ちゃんとやれてるのか……。


 だが……自分ひとりの知恵では悩みを解決できないこともまた確かであった。


 ユウキは一つ深呼吸をすると覚悟を決め、口を開いた。


「実は……」


「ふんふん」


 妹はエプロンで水に濡れた手を拭うと、興味深そうに近寄ってきた。


「俺……興奮すると具合が悪くなるんだ」


「それはもう知ってるぞ。この前、私の目の前で気を失ったからな」


「ああ。だからできるだけ興奮しないように努めているんだが……最近、街を歩く人を見てドキドキすることが多くなってきた……皆が魅力的に見えてしかたない……そのせいで具合が悪くなって、街にいられなくなってきたんだ。だけどどうしてもオレ、街に行かなきゃいけないんだ!」


 つい悩みの全てを打ち明けてしまった。


 ユウキは静まり返ったリビングで、つい妹にすべてを吐露してしまったことを悔いた。


 きっと妹は兄に呆れているに違いない。


「…………」


 だが……妹はダイニングテーブルをコツコツと指で叩き始めたかと思うと、椅子をもう一脚引き出してユウキに向き合い腰を下ろした。


「なるほど……ユウキの悩み、だいたい理解したぞ。その悩みに対して、私から提案できる解決策は二つあるぞ」


「ほ、本当か! ていうか、オレの悩み、真面目に聞いて解決策を考えてくれてたのか!」


「当たり前だぞ。これからもなんでも悩みは私に話すといい。私は人の心の闇から生じる悩みが大好物なのだからな」


「…………」


 妹はどこまでも中二くさい設定を崩さず、やはり兄としては学校での友達付き合いがちゃんとできているのか気になってしまう。


 同級生に避けられたりしてないだろうか……。


 だが妹はユウキの心配に構わず『解決策』を提示してきた。


「まず一つ目の解決策は、ユウキの体の不調を治すことだぞ。性的な興奮を感じるたびに不具合が生じるのでは、このさき何かと生きていくのに大変だと思うぞ。しっかりと自分の体の不具合に向き合って治した方がいい」


「ああ、なるほど。それはそうだな」


「だがおそらく私の見立てでは、ユウキの体の不調はかなり根深いところに原因がある。だから一朝一夕では治らないんじゃないかと思うぞ」


「そ、それじゃあダメだ! オレは毎日、駅前に行ってナンパ活動を続けなきゃいけないんだ! でなければ『魂力』が……」


 ユウキは自分の口をついて出た謎の単語に一瞬戸惑いを覚えたが、すぐに妹の次なるセリフに気を引かれた。


「なるほど。一日たりとも駅前に行くのを休むことはできないというわけか……そうなると、二つ目の解決策で対処するしかないぞ」


「ぜひその解決策をオレに教えてくれ!」


「これなら今夜から始められるぞ。うまくいけば、明日からまた駅前でナンパ活動することも可能だと思う。だけど……」


 妹はふいにうつむいた。


 その頬がなんとなく紅潮しているように見える。


 だがそれに気を使う余裕はユウキにはなかった。


 ユウキは妹の肩に手を置いて『第二の解決策』とやらを教えてくれるよう懇願した。


 妹はうつむいていた顔を上げてユウキを見つめた。


「うん。わかった」


 そしてユウキの手からすり抜けると台所に立った。


「……まずはご飯を食べたほうがいいぞ。結構体力を使うことだと思うから」


「…………」


 そして食後に妹はエプロンを解くと言った。

 

「さあ始めるぞ。第二の解決策、それはエッチなものへの耐性をつけることだぞ。私の体を使って、耐性を得るんだ」

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