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とある神父の一人旅  作者: 旅をしたい
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9話 越界

 


 船というものの存在はかねてより知っていた。

 水の上に、あのような大きなものが浮くことに驚きを覚えたものだ。


 船団の真似事をしていれば、あの果てのない苦行のような歩行もなく、野盗や狼に怯えることもなく眠れるのだから楽なものであると。

 乗船前はそう思っていたのだ。


 どうやら私は、海をなめていたらしい。


「うぅ……」


「にいちゃん、まだシケてもねェのに、そんなんで大丈夫かよ?」


 天気は快晴、憎たらしいほどの炎天下である。

 降りそそぐ日差しが肌を焦がし、吹かれた塩水が体力を奪う。

 目もヒリヒリするし、唇も痛い。

 こびりついた塩が気持ち悪い。

 食事も出航当初は良かったものの、次第に口に入れるのは塩漬けのものやビスケットといった保存食ばかりになってきた。


 そして極めつけは、この揺れである。

 地面の揺れに合わせて、まるで頭の中まで揺さぶられてる気分だ。

 出帆しゅっぽんしてしばらくは清々しく海原など眺めていたというのに。


「だい、じょう、ぶ……じゃないかも、しれません」


 ここの船長は気のいい人物であり、自分のあまりな醜態をみかねて、しばらく労働を取りやめにしてくれた。

 なのでここ最近はこのように甲板で潮風に吹かれながら、時おり魚の餌を海にまくのが日課となっている。

 この延々と続く地獄が早く終わるよう、神ではない何かに祈った。


「ったくよぅ、これでも嗅いでな、ドタマ突き抜けるぜ」


 渡された薬の蓋を開けたとたん、目まいがしそうな香りがした。

 頭の中を直接激流で清掃している気分だ。


「げほっ! ごぼっ! うぁ、これは!?」


「酔っ払ったときに使うのよ、最高にキクだろ?」


「あ、荒療治ですね」


 船酔いがおさまったような、むしろ余計に酷くなったような。

 なんだか耳の奥がガンガンする。


「し、ばらく、寝てます」


 意識を手放してしまえば、すこしは楽になるだろうか。




 目を開けば、黄昏色にそまる空が視界にとびこんできた。

 無限と広がる大海原が写し鏡のように凪いで、その幻想の狭間を漂う自分を照らしている。

 世界のすべてが生命力に満ちあふれ、大気までもが大いなる神秘をはらんで震えているかのようだ。

 うつろい、揺れる、鮮烈でいてどこか儚いこの幻想郷。

 自分があるべき世界から、まったくかけ離れた場所へきてしまったかのようだ。


 茜色に着飾った雲たちは、遥かなるまだ見ぬ世界へと風の向くままに旅をする。

 そんなわが子を見守るように、雲海の中をゆったりと流れる巨大な生き物がいた。

 煌々と海上を踊る光の精霊たち、空から降りそそぐ色彩豊かな星屑の流星が舞台を賑やかに彩っている。

 魚ともつかぬ奇妙な生きものたちが、水面下の深淵で生への執着もなく営みを続けていた。


 空間が裂けて、暴風がとどろく。

 かつて見たオパールを思わせるような七色の鱗それぞれに、千ともつかぬ夕陽がうつっている。

 自分よりも大きな、月長石の色をしている縦に裂けた瞳の奥に、ほろけた顔をした自分が写っていた。


「……ドラゴン


 船を覆うほどに大きな両翼。

 天をも穿つ長大なる双角、魔法銀ミスリルよりも硬く鋭い牙。


 それはお伽話の中で語られる、まさしく竜のような存在であった。

 ただ、すこし異なる点があるとすれば、それは英雄譚に謳われるような悪徳の面影すらなく、間違いなく英雄は竜を倒していないだろうということだ。


 人類とは存在を異にした、生命群の冠絶者。

 善悪の境界を越えた、神のごとき存在がそこにいた。

 偉大、雄大、人間がつくった言葉という範疇はんちゅうに収まらないことのもどかしさを、初めて実感している。


 帰れ、と、そんな思念が伝わってきた気がした。

 それを境に視界はぼやけ、もやの中へと輝きが消えてゆく。


 気づけばそこは、薄闇がせまる甲板の上であった。

 あの満ち溢れるような生命力はどこからも感じられず、精霊の踊らぬ穏やかな海面は黒々と恐ろしい怪物のようにゆれているだけである。


「にいちゃん!?  どこいってやがった!?」


 振りむけば、ギョッとした様子の船員が幽霊でもみるようにこちらを見ていた。

 まだ夢現つであったためか、言われたことの意味がまったく理解できない。

 ひとりの船員の叫びを聞いたのか、他の者たちもぞろぞろと集まってきて自分を見ては驚いたような顔をする。


「いったい、何事のなのですか?」


「ちょっと前から、あんたが見あたらなくてなくてな。客人を海に落としちまったか、っててんてこまいだったぜ。どこにいたんだあんた?」


「普通に、ここで寝ていたと思うのですが……」


 どうやら、行方不明の自分を探してくれていたらしい。

 なぜこうなったかは分からないが、申し訳ないことになっていたようだ。


「オレぁてっきり、法術できえちまったかと思ったぜ」


「そんな聖句はありませんよ」


 彼らには自分が、法術の使い手であることを教えている。

 四時間交代で昼夜を問わず仕事に駆り出される彼らのために、疲労回復を促す活法かっぽうを提供しているので、彼らもかなり自分を優遇してくれるのだ。

 本来はその予定はなかったのだが、船酔いが激しく労働を断念した代わりにと、法術のことを打ち明けたのである。


 それはそうと、自分が消えていたということに関しては正直まったくのお手上げなのだが、心当たりがないといえば嘘になる。


 ――あの夢だ。


 似ているようで大きく異なる、竜を見たあの世界。

 夢と言いきるには、あまりにその心奪われる光景を、青臭いまでの生命いのちの躍動を、全身が忘れがたい大切な思い出のようにそれらすべてを鮮明に覚えていた。

 そのことを踏まえれば、自分の中におよそ想像することすら馬鹿馬鹿しい仮説が成り立っている。


「きっと、海の魔物に心を魅せられたのでしょう。ご心配をおかけして申し訳ありません」


「気にすんな! とにかく、無事でよかったぜ! 今日は船内で寝れるよう、オレから雇い主に頼んどいてやらぁ」


「それはありがたい。まったく、あなた方には頭が下がります」


 いいってことよ、とその男は陽気に答えて引っこんでいった。

 すると波が引くようにして、労いの言葉を置いて他の者たちも去ってゆく。

 彼らは、あまり細かいことは気にしないたちであるようだ。


 それから、航海は自分の船酔いを除けば、何事もなく順調に進んだ。

 もう少しもすればトルキアが見えてくるだろうというころに、それは現れた。

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