7話 神の遺産
悪魔。
理りの外にある、恐ろしきモノ。
彼らが与える誘惑を、ほとんどの人は抗うことができずにそれを求める。
それが、破滅に繋がるであろうことを知りながら。
『汝、力が欲しいか?』
髑髏を依り代に、悪魔が囁く。
『其れは既に人ならぬ欲望の権化、魂がある限り、とまらず喰らい続けよう』
ガルトフの成れの果ては、全身にある幾百の口からチロチロとこちらに舌を伸ばしていた。
『力を求めよ。さすれば此奴も滅っせよう』
悪魔の言葉には、それが全くの真実であると思えるような強い響きがあった。
確かに、猛り狂うガルトフの成れの果てを滅すのは、容易なことではないだろう。
だが、そのていどの誘惑に耐えられぬほど自分はまだ堕ちてはいない。
「去りなさい、悪魔よ。お前が契るべき相手は、もうここにはおりません」
髑髏が大きく嘲笑すると、化け物になったガルトフまでもがビクリと震える。
地下室にこだまする血を凍らせるような嗤い声に、心臓がバクバクと警鐘をならした。
『ならば示してみせよ、汝の力を。それとも、逃げるか?』
「ご冗談を」
その言葉を皮切りにして、戦いは始まった。
力に喰われたガルトフには、もはや理性も残っていないのか、その化け物は衝動のままに暴力をふるう。
「――ッオオオ!!!」
腹から伸びた丸太のように巨大な舌が、石造りの天井と床をまとめて粉砕した。砕かれた石礫が、投石されたかのような勢いで体をうつ。
圧倒的な質量と、それに伴う破壊力。
守りを固めても、まともに受ければ死は避けられない。
『『『『キィィィーー!!』』』』
全身にはびこる無数の口々が一斉に奇声を発し、それぞれの舌がまるで生き物かのように襲いかかってくる。
「〈結界〉」
こうなっては出し惜しみしていては殺される。
祈りの型を組み、法術の力を引き出した。
自身の周りを覆うようにして、半円型の無色の障壁が顕現する。
無数の舌がその壁に阻まれ、グネグネと恨みがまし気にうごめいた。
「本気でいきます」
着ているローブを脱ぎ捨て、片手に掲げる。
「罪深き者共よ、直ちに畏れをなせ。深奥に積まれし業を顧みよ。神の怒りをもって、その贖罪をせん。〈聖炎〉」
ゴゥ、と静かな怒りが吹き抜け、白金の炎がローブに灯る。
本当は神を乞うようなこの文言が嫌だったのだが、そのような意地を張って死ぬの御免被る。
地下室を一瞬にして明るくした聖なる炎に、口ばかりの怪物が大きくたじろいだ。
「この炎は、理を異にするモノを滅ぼす、摂理の代弁者。あなたは、よく燃えますよ」
バッ、とローブを振るえば、白金の火炎は火の粉を散らして分散する。
パッと、舌先に燃え移った炎は、たちまちのうちに伝播していき、その巨大を炙りはじめた。
「ーーーーーーッッッ!!!!」
世界を震わすようなおぞましい断末魔。
鼓膜が弾け、耳から血がこぼれてゆく。
それでも、聖なる火を燃やし続けるため、痛みと決意を綱にして意識を留めおく。
「燃え上がれ! 己が報いるべき、すべての怒りをもって!」
肉を焦がし、骨を溶かし、灰のひとつも赦すことなく、聖なる獄炎が猛りをみせる。
その無慈悲な処刑が終わった時、ガルトフは完全にこの世界から消え失せた。
『世界の理を手繰る者か。相当、我らの近くに踏み込んだようだな』
しかし、聖炎に巻きこまれた髑髏は、変わらぬ様子でそこに残っていた。
その頭に無理やり流しこむような言葉は、鼓膜の有無に関わらず耳朶をうつ。
「悪魔よ。いつまで、人の世に居座るつもりであられる?」
『なに、我が喰らうべき魂が燃やされてしまってな。代わりとなるものが欲しいのだよ』
カッ、と髑髏の眼窩に紅い光が宿り、宙に漂ういくつもの魂を睥睨した。
現と夢界の境界が、揺れている。
「それは囚われていた子供たちの魂。無辜なる者を喰らう気ですか?」
髑髏はさも面白げにカタカタとその歯を打ち鳴らした。
『我は別に、汝の魂でも構わぬぞ?』
それはまったくもって、悪魔らしい提案であった。
悪魔に喰われた魂は、永遠の地獄を彷徨う定めであるといわれる。
見て見ぬ振りは容易い。
しかし、自分はその業を一生背負うことになるのは間違いない。
だからといって、自分を差し出すほど己はできた人間じゃない。
『迷わなくてもよい。答えは、既に決まっているのだろう? 汝のそれは、人間としてごく自然ものだ。恥とすることはない』
確かに、名も知らぬ者のために命を張る必要はない、心の中にはそんな思いがある。
ただ、自分はそんな自己犠牲的な殊勝な心がけで悩んでいるのではない。
こいつの言いなりに終わるのが、あまりにも腹立たしいという、くだらない意地があった。
逃げに逃げ、また逃げだすことへの、ためらいがあった。
彼女にもう一度出会ったときにどのような顔をするのかという、意味のない思考がかすめた。
そもそもの元凶はすべてこの悪魔であり、自分の思い出を踏み荒らした原因もこれにあるのだ。
いくらガルトフに狂人の気があったとしても、人としてあそこまで狂うことはできなかっただろう。
ただ、悪魔と人間では、あまりにも格が違う。
自分がとれほど抵抗しようと、例えここに私が千人いようと、悪魔の決定を覆すことはできないだろう。
『心は決めたか? さあ、どうする? 大人しく見ているか、自身を差し出すか、選ぶかよい!』
どうしようもなく不毛な我儘が、心の中でせめぎ合う。
なぜこうも腹立たしいのか!?
なぜ自分にこれを退ける力はないのか!?
なぜ私はためらっているのか!?
なぜ……私たちに、救いはないのだ。
――フワリ、と、陽光によく干された薬草の匂いがした。
快晴の青空に太陽が浮かぶお昼時、ゆるやかな風が吹くと、その香りが運ばれてくる。
私が顔をしかめる度に、彼女は朗らかに笑っていた。
数瞬、駆け抜けたかつての記憶。
とうとう自分の鼻がおかしくなったのかと思った直後、蒼穹の閃光がほとばしる。
『ぬぅ、それは!』
まるで生きているかのように、首から提げていたその宝石はシャツの中から浮き出てきた。
「アリシア? 君なのか?」
星屑の詰まったような神秘の宝石は、静謐な光を湛えたまま、言葉を返すことはない。
ただ代わりに、あまりに暖かな記憶が脳裏へと流れてきた。
『おばあちゃんにね、わる〜い悪魔が出てきた時に使う、呪文を教えてもらったのよ。えーと、たしかね――』
聞いているだけで気持ちの良い、春風のような優しい声。
掘っ立て小屋のような小さな家に。
吊るされた薬草や干された虫、カンテラの中には仄かな灯りを発する雷光虫。
彼女の情熱を映した燃えるような赤い髪と、ルビーすらも褪せるような真紅の瞳。
決して整った顔ではなかったけれど、自分は彼女が誰よりも美しく思えた。
その人は、前のこの不思議な石の持ち主であり、自分にとってとても大切な人で。
そして、守ることができなかった人。
かつての彼女が何気なく残した、忘れていたはずの言葉を紡ぎだす。
「『仲間はずれなイタズラ小僧、お腹を空かせた寂しがり屋、お前のお家はここではないよ。ゲーヘ・ムアヘーター!』」
蒼炎の軌跡が集束し、地下室の壁に異界へと続く扉を描く。
開くはずのない扉は開かれ、原始世界がその隙間からこちらに顔を覗かせる。
あまりに圧倒的な生命と活力が、激流のように流れてくるのが分かった。
これが、お伽話のものたちが住まう、始原なる世界。
それは夢界とも呼ばれるし、天国とも地獄とも称される、大いなるものたちが暮らす場所だ。
『まさか、神の遺産を持つとはな!』
扉が髑髏の悪魔を吸いこむ。
正直、まったく訳が分からないが、彼女から唯一受け継いだこの宝石が、なにがしかを起こしたことだけは分かった。
『ひとつ、忠告してやろう! それは我らより遙かに偉大なるものが創りし奇跡の産物! その力が顕となれば、魑魅魍魎がたかりつく!』
髑髏の双眸がすさまじい眼光で胸上で輝く宝石をとらえていた。
悪魔すらも逆らえぬ絶対の力が、この小さな宝石にあるというのか。
『それは汝を主人と定めた。輪廻すら超絶して、それは汝の物となる! いくら逃げたくとも、捨てることでは逃れ得ぬ』
その悪魔の言葉には、愉悦が含まれていた。
まるで憐れな小虫がカゴから出ようと必死になるのを嘲笑うような、仄暗い感情。
『次にそれが汝から離れるのは、まさしく汝が死した時のみ!』
悪魔が消えていく。
帰るべき世界へと、帰るのだろう。
残響のように頭に響く悪魔の言葉が、こだますように取り残された。
『また会おう、合間見えるまでに、その命があらば』
壁に描かれた扉は消え、宝石が発していた不思議な輝きも静まった。
残されたのは、まるで何事もなかったような薄暗い寂寥とした地下室だけ。
「あぁ、耳が痛いです。色々と」
どうやら自分の旅立ちは、前途多難である。