6話 悪魔
サリアは息を切れぎれにしながらも逃げに逃げ、宿場町にまで来てやっと足を止めた。
ただならぬ形相で走るシスターとそれに引かれる男を見て、いったい何事かとそこらの人々は遠まきにこちらを見ていた。
気息庵々といった様子で座りこむサリアに肩を貸し、あまり人目のない酒場へと入る。
酒場の主人は二日酔いだと勘違いしたのか、わざわざ水を持ってきてくれた。
「大丈夫ですか、姉さん?」
「バカ! 言ったでしょう!? アイツは、バケモノだって! いつから、そんな、喧嘩っ早く、なったのよ!」
切れぎれの息つぎの隙間から、引きだすようにサリアが叫ぶ。
彼女の顔が真っ赤なのは、走って血がまわっただけでなく、本気の怒りがあったようだ。
サリアは机にもたれこんで、しまいには堪えるように泣きだしてしまった。
息つぎと嗚咽が混じり合って、大変なことになってしまっている。
「姉さん、落ち着いて」
「なんで、あんたは! おち、ついてんのよ!」
ギャースカとサリアが吠える。
これでは、酔っ払いと間違えられても仕方がない。
妙な勘違いを起こしたのか、酒場の主人はニヤニヤと笑いながら奥に引っ込んでいった。
「前に、みたのよ! 子どもを奪われて、発狂した親が、アイツを、ズタズタに刺すのを! それで、嗤ってたんだから、アイツは! あんなの、人間じゃないわ!」
いまいち要領を得ないが、あのゴルトフとかいう男が本物のバケモノなのだということは伝わった。
たいそう疲れてしまったのか、サリアは机に倒れてフーフーと荒い息をはく。
「いったん休みましょう。いずれにせよ、彼を放置することは私が許しません」
「だめよ。……帰らなきゃ。子供たちが、待ってるもの。わたしが、側にいてあげなきゃ」
捻りだすようにそう呟いて、サリアは立ちあがった。足元がおぼつかないようで、フラフラとしていて危なっかしい。
「少しぐらい、休んだっていいはずです」
そっと体を支えてやり、サリアの額に指を当て法術を使う。
うっとりとまどろむと、サリアはすぐに寝息をたてて全体重を放棄した。
「おっと。すみません、ご主人。空いてる部屋があるようなら、貸してもらえませんか? お金は私が負担します」
「へへっ、金は要らねぇから、二階で寝かしてやんな」
「はぁ……」
どうも思いこみの激しい人だ。
抱き上げたサリアは、まるで子供のように軽かった。
とても大人の女性の体重とは思えない。
それほどまでに、追いつめられていたのだろう。
何年も、何年も、自分が知らぬうちに。
自分がもう少し過去と向き合うことから逃げなければ、もっと早くに、彼女を助けられたのかもしれない。
そう思うと、自分の愚かしさに心が苦しくなる。
だが、もしを想像するほどくだらないことはないことも、充分わかっている。
すべて最善の選択を選ぶことなど、不可能なことだ。
神でさえ過ちを犯すのだから。
だからせめて後悔のないよう、全力で生きてゆくと、決めたのだ。
「……姉さん」
神父になって、感情を隠す術を覚えた。
同時に自分の感情は希薄になってしまったのかもしれない、そう常々思ってきた。
だが今一度、胸の奥でどす黒く渦まく、抑えようのない激情が沸々と煮えたぎっている。
懐かしく優しい、あの少年の日の思い出を、土足で踏み荒らされたことへの怒り。
そしてなにより、あれほどまでに眩しかったサリアを、暗雲で包みその下劣な手で穢したことへの怒り。
「今度は、私が悪夢から姉さんを引きあげますよ」
彼女と、私のために。
お前には死んでもらうぞ、ガルトフ。
夜の帳が下りると現と夢界の境目が薄くなるという。
悪魔も天使も神秘の衣に身を隠し、闇夜に潜んで人々をうかがう。
歪んだ笑いのような朔月が、ひっそりとたたずむ孤児院を不気味に照らしていた。
まるでここだけ異界に切り取られてしまったような、禍々しさに満たされている。
かつての自分の師は、殺すためにではなく救うために武を修めよ、と口を酸っぱくしておられた。
だから我々は武器を持たぬのだ、とも。
しかしこうもおっしゃった。
力は他者を恐れさせ、服従させ、そして殺すためにあるとも。
その本質ばかりは、どれほど崇高な理念があろうとも変わりはない。
中庭では、待ちわびたとばかりにゴルトフが立っていた。
粘っこい視線が絡みつくようにこちらを捉えると、そのたるんだ口元が喜悦に歪む。
「こんばんは、名もなき旅人よ。このような夜更けに訪問されるとは、何かお困りですかな?」
「はい、ちょうど忘れ物を思いだしましてね。拾いにきました」
「ほほぅ?」
おおげさに驚いてみせたガルトフが、小馬鹿にしたように辺りを見回した。
「ここにですか? 何を忘れたかお聞きしても?」
薄ら笑いを浮かべるガルトフを、こちらも不遜に見つめた。
「穢れ腐った魂を、一つ」
発した言葉に、ガルトフはこのうえなく嬉しそうに嗤って応えた。
開かれた眼は、捕食者の眼。
それは人が人に向けるはずのものではない。
「ぐっぐっ、ずいぶんと強気で、傲慢なお方だ。死神の使者にでもなったつもりかね?」
「自覚があるなら、とっとと消えてはどうか?」
ガバッと音がしそうな勢いで、ガルトフが口を開いた。
顔が割れるようにして耳まで裂けた口の中には、不釣合いな鋭い牙が、まるで生きもののようにうごめいている。
「貴様! その強気、嫌いではない! だが、私に向けるのは愚か以外のものではない! そのような丸腰できたことを、後悔させてやろう」
――殺気
半転させた身体の真横を、何かが凄まじい速度で通り抜けた。
血のように赤く、伸びているそれは––
「舌か!?」
「これを避けるとは、ほざいただけはあるというものか」
余裕の表情のガルトフはその場から動くこともなく舌を鞭のようにしならせる。
とっさに跳ねた身体の下を、やはり凄まじい速度で抜けてゆく。
地を打ちつけた舌は地面を深くえぐっていた。
まともに当たればただではすむまい。
「舌が先走るとは、人の味が恋しいか?」
「その余裕、いつまでもつか見せてみろ!」
ガルトフの舌は、まるで風に吹かれる紙くずのように、複雑奇怪な踊りをみせる。
直進的な速攻の突き、背後や上方などの死角を狙った強靭な鞭のような殴打。
その勢いが衰えることはなく、このまま避けに徹するのは無為な行為に思えた。
大振りに振りぬかれた舌を避けると同時に、法術を瞬時に練りあげ、両腕と両脚を中心にその力を流す。
紡ぐは、もっとも使い慣れた法術のひとつ、身体活法である硬化の法式。
片脚を下げ腰を据え、向かいくる鋼の舌を両の腕で垂直に受け止める。
――ドンッッ!!
全身にかかる重たい衝撃。
耐えかねた地面が大きくずれる。
だが、腕の骨は傷ついた様子もなく健在だ。
混乱をきたしたガルトフの動きが止まった隙をつき、受けとめた舌を鷲掴みにし、猛然と引きだす。
「神を信じぬ貴様がなぜッ––!?」
前方へとバランスを崩したガルトフへ向け一気に駆け抜け、勢いのままに打ち込んだ拳がその顔面の鼻っ柱を捉えた。
鈍器で殴ったような重い音が響き、ガルトフが鼻血を撒きながら後ろに倒れる。
倒れた人間は弱い。
それが、あの巨体を持つガルトフならなおさらのこと。
股間を上から踏み潰すと、狂ったような悲鳴があがる。
完全に制圧したと、その油断が仇となった。
「ッふざけるなァッ!!」
「っ!?」
ひとつ、大事なことを忘れていた。
今相手にしているガルトフという男は、もはや人間ではないのだ。
腹を裂き服を裂いて現れた大きな口。
そこから伸びる触手のような三本の舌が、あっといまに自分の体に巻きついていた。
「貴様、ただで死ねると思うなよ! 生きたまま足から喰ろうてやる!」
ギリギリと体が締めつけられる。
戦闘時は冷静であれ。
痛みに叫ぶ体をおいて、自分の心を俯瞰的にみやり打開策を探す。
鬼気迫る怒りを露わに、ガルトフが立ち上がった。その眼球に潜む嗜虐的な光が、彼の油断を示している。
必要なのはイメージとそれをえがく集中力。
普段よりいくらか苦戦しつつも、紡ぎあげたのはこの世の摂理から外れるものを消し去る浄化の力。
両手に宿った白銀の輝きで、巻きつく舌を握り崩す。
「がぁぁ!?」
浄化の力が良く効いたのか、巻きついていた舌は無茶苦茶に狂って自分を投げ飛ばした。
なんとか体制を立て直した時には、ガルトフはひぃひぃと喚きながらこちらを見ていた。
その目の中に、初めて恐怖の色が灯る。
人外の力を得て、己の存在の上に傲慢にふんぞり返っていた男が、死の可能性に怯えている。
「終いにします」
浄化の力を両手に強くこめる。
白銀の輝きが、それに応えてつよさを増す。
「アァァ!!」
ガルトフがありったけの怒声をあげて四本もの舌を振り回した。
我を忘れた単調な攻撃を跳んで避け、地を打った二本に手刀を放つ。
強化された浄化の力を持つ手刀は、それだけで舌を焼き捨てた。
「――ッァア!!!??」
空気を震わすような絶叫がガルトフの腹から轟く。
あまりの轟音に耳がうたれ、頭が数巡、真っ白になる。
目がはっきりとする頃には、ガルトフが孤児院へと逃げこんでゆくのが見えた。
「くっ、まずいですね」
孤児院にはまだ子供たちがいるはずだ。
あの男なら、なんのためらいもなくそれらを人質に使うだろう。
すぐさまその後を追って孤児院に踏みこんだ。
その巨体からは想像もできぬ俊敏さで、ガルトフは狂ったように奥へと逃げてゆく。
どうやら、人質が目的ではないのか。
それでも、なにか嫌な予感がひしひしとみ身を焦がす。
ガルトフの私室と思われる部屋が乱暴に開けられ、その中心に座していた神像が倒された。
そこに現れた地下への入り口に、ガルトフは迷わず身を投じる。
私は追うようにして地下へと入った。
壁の燭台に灯された青い蝋燭に、その異様な光景がうつされていた。
血のような色で描かれた魔法陣と、それを飾り付けるように置かれた骸の数々。
壁のいたるところに、また肉をつけた小さな死体が打ちつけられ、ぶら下げられ、その凄惨な死に様を晒されている。
そのどれもが、まだ幼かったであろう小さな形をしていた。
鼻を潰すような恐ろしい腐臭がする。
そんな部屋の真ん中で、ガルトフは神に乞うようにして頭を地につけていた。
「もっと力を、力をくれ! あいつを喰らい殺せるほどの力をくれぇ!!」
ガルトフが叫ぶ。
その願いに応えるように、魔法陣の真ん中に置かれた髑髏がカタカタと動いた。
『もはや汝の肉体は限界に近い、それでもか?』
「構わん! なんでもいいから、早くしろ!」
『ならば、応えよう』
ガルトフの体が膨らんでゆく、より醜く、より悍ましく。
肉が裂け、耐えきれずにドロドロと溶ける。
「おぉぉおお!!??」
ガルトフの腹を真っ二つにして、あまりに大きすぎる口が限界を超えて開いてゆく。
まるで抑えていたものが消えたかのように、バツン! と音をたててその口は反対に閉じた。
「っ!?」
『自らに喰われたか、愚かな』
もはや彼の面影もない。
皮膚のない剥き出しの体にはこびる口、口、口。
「ギァァアァァ!!!!」
人間を辞めた本物のバケモノが、産声を上げた。