3話 宿へ
教えてもらった"海蛇の岩穴"という宿に着いた時には、すっかり日が傾いていた。
表通りから少し外れた、寂しげな通りに面した少々陰気な宿屋であった。
ドアを開くと、内側につけられたたくさんの鐘が、チャリチャリと喧しい音を立てて来店を知らせる。
ワックスが塗られた黒ずんだ木製の床、丈夫そうな丸テーブルが間隔を開けて三つ置かれている。
奥の部屋から現れた強面の年嵩の女性が、こちらに声をかけてきた。
「お客さんかね? 泊まるのかい?」
「はい。部屋は空いてますか?」
「ひぇっ、ひぇっ、ここは年中ガラ空きさね。で、お前さん、いくら出すよ?」
奇妙な笑い方をする人だ。
上へ下へと忙しなく動く目は、おそらく自分を値踏みしてるのだろう。
「これでどうでしょう?」
予め用意しておいた銀貨を一枚、手のひらに乗せてみせる。
フン、と鼻をならした店主はそれを奪いとってしまった。
「いつまでいるつもりかい?」
「トルキアに渡りたいので、その船が見つかり次第ですね」
「十日後だね、商船があるからそれに乗りな。あと四枚でそれまで泊めてやるが、どうするね?」
正直いって高いが、どうもここは訳あり者を承知で引き受ける宿屋なのだろう。
相場が高いのもそういうものか。
船舶については自分でも調べときたいが、宿なしは勘弁だ。この都市の治安は、よく知っている。
渋々と硬化を差し出すと、素早い動きでそれはかっさらわれていった。
「メルだ。案内するから、ついてきな」
三つある小部屋のうち二つは埋まっていた。閑古鳥といったが、一定の需要はやはりあるらしい。
簡素なベット、少々の足の踏み場、それだけで部屋の説明は終わる。
ただドアは分厚く、窓はない。閂代わりの木の厚板も丈夫そうで、安全性は確かに高そうである。
ただ、荷物を置いて出かけるのはやはり不安だ。財布などの貴重品以外を置き、空腹を訴える腹を黙らせるために、夜の街へとこぎだした。
海上交易によって栄えるこの都市の夜、宿場町は久しぶりの陸に散財を決めこんだ海の男たちで大いに賑わう。
彼らは、酒と女を求めて夜の街を徘徊し、博打の勝ち負けに必要以上の大声をあげるのだ。
その気持ちは分からないでもない。海というあまりに巨大な自然の中で、人間が作り出した貨幣など無意味どころか邪魔であろう。
彼らはまるで傭兵のようだと思った。
海という戦場で戦い、得た報酬で享楽を買う、刹那的なその生き様。
時々、社会のしがらみをなに食わぬ顔で無視している彼らが、羨ましく思えた。
しかし今の自分は、それよりも自由な生き方をしているのだが。
「トルキアだぁ? なんでぇあんた、なんだってそんな場所いきてぇのよ!?」
赤ら顔の大男は、何が面白いのかガハハと笑った。
彼らの会話の輪に参加するのは、非常に簡単であった。
ひどく酔っぱらっているようで、ちょっとのことで大笑いし、ひとつ尋ねればその数倍の返事が大音量で返ってくる。
「ちょっとした物見遊山でしてね。あそこのお酒は、たいそう美味しいそうですし」
「ちげえねぇ! このマズい酒ときたらよ!」
そう言いながらも、男はグビグビとエールをあおる。自分はそこまで飲んでないのに、周りの気にあてられてやけに気分が高揚する。
いらないことまで、喋ってしまいそうだ。
「物見遊山? あそこは雲行きが怪しいそうだぜ。やめとけやめとけ」
「雲行きが?」
「さあな、詳しいことは知らねぇよ。ただ、そういう噂だぜ」
所詮は噂、されど噂、戦争の兆候でもあるのだろうか。
火のないところに煙は立たぬし、何かしらのいざこざがあるのかもしれない。
「怪しいといやぁ、おもしれぇ話がある」
そう言って割りこんできたのは、海の男たちとは違う、ひょろりとした老人だった。
おそらく、ここに暮らす市井の人であろう。
「この近くにだな、教会のな、孤児院があんのよ。要は、親のいねぇガキを引き取って育てよう、ってぇなんとも殊勝な場所だぜ」
その切り口上に、思わずはっと老人を見る。
興味を持ったと思ったのか、老人は自慢気に鼻をならすと得意になって語りだした。
「前任者が死んでな、新しい院長がそこに就いたんだってよ。これがまた、豚のようにデブで醜い野郎なんだがよ、それからというもの、黒い噂が絶えねぇもんでな」
その孤児院は、なんという名前か!
思わず問いつめそうな衝動を、ぐっとこらえて老人の話を待つ。
余計な勘ぐりをされるのは、できれば御免被りたかった。
「ガキどもを働かせて、見目いい女子を集めては娼婦まがいのことをさせてるらしいぜ。しかもそいつ、奴隷商人とも繋がりがあってな。きっと集めたガキを、ちょっとずつ捌いて金にしてんだろうよ」
ハッと、話を聞くために集まっていた海の男たちはつまらなさそうに笑った。
「ジイさんよぉ、そりゃ確かにその話が真実なら、そいつはとんでもねぇクソ野郎だ。でもなぁ、クソ野郎の話なんざ、オレたちゃ五万と聞いてきたぜ。それぐらいじゃ、酒のつまみにもなりゃしねぇな。どうせなら、オレの息子もそこでお世話になりてぇぜ!」
どっと、下卑た笑いがまきおこる。
悪評や醜聞、それらは人々にとって酒のつまみていどに噂する気軽な娯楽である。
ただし自分に関係がなければ、という注釈付きではあるが。
「べぇけやろぉ。そんなツマラねぇ話だったら、怪しいなんざ言わねぇよ」
ニヤリ、と、老人はそれこそ怪しく口をつりあげた。
「食うんだとよ、子供を。丸ごと、な」
老人の熱をこめたその言葉に、再び興味を惹かれた男たちが寄ってくる。
「どういうことだ? でけぇ蛇じゃあるめぇし、人間のできることじゃねぇだろ」
「知らねぇよ。ただ、孤児院に入った数と出ていく数がうまくつりあわねぇのは確かだぜ。噂じゃあ、奴隷商でさえ気味悪がってあんまし関わらねぇそうだ」
自分がここにやってきたのは、ここが旅の始発点にふさわしいと思ったからだ。
「ちなみに、その孤児院はどこにあるのですか?」
なにげない様子で尋ねると、老人は少し迷うそぶりを見せて、すぐに答えた。
「あ? 港からすぐ近くの、住宅街裏にあるやつだな」
因縁めいた、逃れ難いものを感じる。
なにも、関わる必要はないはずだ。
だが逃げるように旅立った自分に、逃げ続けてきた過去との清算をつけねば、これ以上は赦しはしないと。
そう、背を向けた神が言っている気がした。