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とある神父の一人旅  作者: 旅をしたい
10/13

10話 海の怪物

 


 男たちの汗と体臭に満たされた船室は、はっきり言って気持ちのよいものではない。

 数十分におよぶ格闘のすえにハンモックの上へとよじ登ったが、追いうちのようにその寝心地はよろしくなかった。


 微睡みと覚醒を行き来していた時、ピリリと張りつめたような空気を感じて目を開いた。


「魔物だァーー!!!」


 突如として静まりかえった船内にまで響き渡ったのは、怯えを多分に含んだ怒声であった。

 大慌てで総員が甲板に出ると、静かな海面にはさざなみとは異なる不規則な水音が鳴っていた。

 月明かりのみの闇に覆われた海面上を、時おり得体の知れぬ巨大な何かがうごめいているのが見える。


「クラーケンだッ!」


 船員の一人が悲鳴に近い声音でそう叫んだ。

 その恐怖は瞬く間に伝播でんぱんし、船乗りたちは各々が勝手な行動に走り、船上はたちまちのうちに右へ左への大混乱となった。


「馬鹿やろう! 騒ぐんじゃねぇ! おおゆみを用意しろ! すぐにだ!」


 船長の一喝がはいると、船員たちは慌てて弩の用意を始める。

 この船は貿易船だからか、必要以上の防衛手段は備わっていない。

 せいぜいが船の両端に固定された弩だが、それでも海賊船相手なら十分だろう。

 弓矢に油と火をつけて、マストに向けて撃ちこむのだ。

 逃げるだけなら、それでも対応できた。


「ちくしょう、ついてねぇ! なんだってこんなのに!」


 だが、海の魔物が相手ではあまりに分が悪いようだ。

 クラーケンは出会ったら不運だったという、天災のようなものであると聞いた。


 グラリ、と、船体が傾く。

 そのあまりに長く巨大な脚の一本が甲板へと伸びてきていた。

 ここまで巨大な生物は、あの幻想の竜をのぞけば、かつて見たことがない。

 それに伴う威圧感も、また格別なものであった。


「ひぃえぇぇ!!」


 餌を探してか、その巨大な脚が甲板を探るように動く。

 誰もがそこから慌てて離れ、もはや指揮もへったくれもない。


 頭の中に第二の己を作り上げ、俯瞰的に自分を操る。

 こうすると大抵の恐怖や痛みを無視することができる、ただ集中力も大きく削られるが。

 果たして相手が務まるか怪しいが、襲われたからには反撃するしかない。

 硬化の法術を紡ぎ、続けざまに身体強化の法術を施す。


「フッ!」


 全体重を押しこみ、体の捻りと踏みこみをいれた全力の突き。

 ドツッ、と潰れる音がして触手の表面が大きくへこんだ。

 しかし、クラーケンは嫌そうに触手を震わすだけでまったく効いてる気配もない。

 単純な物理攻撃は、おそらくほぼ意味がないと思わせるほどの大きさだ。


「これは厳しい! 結界を張ります! 持ちこたえてください!」


 この船を覆うような大きな結界など、自分に出せるはずはなかったのだが、どうも最近は活力の流れがいい。

 前まではコップですくい上げていた力を、今ではバケツでくみ上げるように引き出せるのだ。

 だから、もしかしたら船を覆うほどの結界を作れるかもしれない。


「まこと慈悲深き我らがあるじよ、その測り知れね奇跡をもって、我らを災厄から守りたまえ。〈結界〉」


 この船を丸々包みこむように、巨大な球形の障壁が現れる。

 まるで貴族の屋敷に飾られた、ガラスの中にある小さな模造船のようだ。

 バチバチッ、と異物と判断されたクラーケンの触手に鋭い反発が起きて、外へと追い出した。


「おぉ!」


「すげぇや!」


「俺たちには神様の加護があるようだぞ! てめぇら、ビビるんじゃねぇ!」


 おう、と落ち着きを取り戻した船員たちが応える。

 巨大なおおゆみに仕掛けられた特大の弓が、威勢の良い破裂音と共に弾け飛んだ。

 矢は暗闇の中へとまっしぐらに向かい、何かに深く刺さる鈍い音を立てた。


「ッッゴォォーー!!」

「効いてるぞ! ありったけブチ込んでやれ!」


 ぬぅ、と、海面に真っ黒の不気味な柱が立つ。

 それは天空にある月を隠してしまうほどに持ち上げられた、クラーケンの触手のひとつだった。


「……なんてぇデカさだ」


 唖然とした呟きの直後、凄まじい勢いで巨大な触手が結界に叩きつけられる。


「ぐぅ!?」


 あまりにも衝撃が重すぎる。

 今までにないほどの結界を展開してることもあり、維持を保つのが苦しい。

 みれば、結界に数百もの蜘蛛の巣状の亀裂がはいり、今にも砕けて飛び散ってしまいそうだ。

 その様をみて、船上からは再び悲鳴があがった。


おおゆみ用意、急げ急げ! どのみち船が沈んだら終わりだ!」


 声に急き立てられて弓弦ゆみづるがキュルキュルと巻かれていく。

 その間にも、触手は再び振り上げられ、勢いをつけて振り下ろされる。


「ッ!」


 亀裂が治りかけていた結界が再び大きくひび割れる。

 眼前に叩きつけられる大質量の荒れ狂うような光景は、気を狂わせるような恐怖を掻き立てる。


 懐から取り出したのは、あの酔いを覚ます気付きつけ薬だ。

 ビンのフタを開くと、頭の芯を貫くような爽やかでいて刺々しい香りが、船酔いに腑抜けた脳内を電撃のように駆け抜けた。


ぇ!!」


 バン、と炸裂音がして、弓矢がクラーケンを穿つ。

 けたたましい悲鳴があがり、それを野次する歓声があがる。

 だが、その応酬に結果として現れたのは、神殿を支えることができそうなほどに立ちあがった、何本もの黒い柱であった。


「マジかよ……」


 圧倒的な暴力が束となり、蹂躙じゅうりんの始まりを知らせるよう、その脅威がうち下ろされる。

 ガシャアアとガラス細工のように結界は砕け、脚の一本が弩を破壊して甲板へと沈みこませる。

 近くにいた船員たちは押し潰され、甲板に血肉をまき散らした。


 骨が潰れる音。

 月明かりに照らされた、どす黒い血の池。

 ほんの少し前まで人間であったものが、一瞬にしてただの散らされた肉塊へと変貌した。


 方々で悲鳴と怒声があがる。

 ただし、今度ばかりはそれを止める者は誰もいない。

 船上は既に絶望の空気に満たされ、誰もが諦観の姿勢をとっていた。


 冗談ではない!

 こんな場所でくたばることになれば、いったい何のために旅に出たというのか。

 それほどまでに自分は、何もできない無力な存在なのか。


 弾けとんだカンテラが、暗闇の中をを迷い子のように落ちていき、その巨大な本体を一瞬、露わにした。

 光を写す大人ほどの大きな眼球が、底冷えのするぎょろりとした眼でしかとこちらを見ている気がした。


「身体活性!」


 溜める、力を溜める。

 強引な活性化をされた脚が、火を流しこんだかのようにグツグツと震えている。


 ドンッ、と、甲板のへりを蹴りとばし、船の外へとその身を投げた。

 叫びだしたくなるような解放感を感じる。

 ごうごうと不気味な唸り声をあげる海原を駆け抜け、あまりにも巨大なクラーケンの本体へと一気に迫った。


 聖炎はあまり効果がないだろう。

 あれがその猛威を振るうのは、この世の理を外れたものたちが対象である。

 クラーケンは異常な大きさだが、摂理に反するものが持つ、あの薄ら寒い独特の気配はなかった。

 ならば、あの巨体にも効きそうな法術も大きく限られる。

 もはや手段を選ぶ余裕などはなかった。


「傲慢であることを知れ。欲望に溺れる者は自らが自らを滅ぼす末路にあると」


 早口に言葉を紡ぎ終わると同時に、クラーケンの体に激突する。

 その体表に指を食い込ませ、落とされないよう強引に張り付いた。


「禁忌解放〈過剰活性〉」


 ドッと凄まじい勢いで活力が抜けていく。

 だが、同時にクラーケンがその動きを止め、苦しそうにもがきだした。

 暴れだしたクラーケンに合わせて世界が大きく揺れる。

 上へ下へ、水の中に引き込まれてから、一気に海面上空へと、世界が目まぐるしく変化してゆく。

 だが、掴んだ手は離さない。

 それを肉体の一部にするつもりで、クラーケンの肉を両の五指で鷲掴みにし、歯でかぶりつく。


「ッッオオオゥ!!!」


 クラーケンの目には青い血の涙が溢れていた。

 ところどころの皮膚の表面にも、鬱血したようにまだらの血溜まりが現れる。

 それらは次第に濃くなると、表面を突き破ってドロドロとこぼれだした。


 だが、まだ離すわけにはいかない。

 これが死ぬまで、意識がある限りは、、


 自分の体力が既に限界であることは分かっていた。

 もはや船へともどるだけの力がないことも。

 死ぬことは恐ろしい、だが、無様な死体を晒すぐらなら、世界に一矢報いてやりたかった。


 クラーケンが沈む。

 それに引きこまれて、自分も海の中へと落ちた。

 何もかもが分からない世界で、もはや自分が生きているのかも曖昧になった。

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