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とある神父の一人旅  作者: 旅をしたい
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1話 旅立ち

 


 新たな一日の始まりを告げようと、東の空の果てが淡い桃色と水色に揺れていた。

 移りゆく自然の奇跡は、神の秩序の賜物か、精霊たちが描く神秘か、いずれにせよ、それを前にすると自分が小さく思えてならない。


 確かなのは、この夜明け前の変わりゆく大空のキャンバスを眺めることが、自分はたまらなく好きだということだろうか。


 遥かなる境界の山脈から、太陽がその光を一筋、伸ばした。

 あっという間に、世界は鮮烈な彩りと弾けるような躍動に満たされる。

 それはまるで、新たな一日の来訪を祝福しているかのように思えた。


 命の光に触発されて、眠りの世界から目覚める人々の漠然とした営みを感じる。

 今では見慣れた、少し汚れた川の穏やかな姿も、整然と作られた街並みも、今日で見納めと思うと不思議な感傷があった。


 自分の服装は、動きを阻害しないほどの皮鎧に、厚手のマントをつけた、いかにも旅人然とした風貌である。

 事実、自分はこれから旅人になるのであり、背中に背負うリュックには旅に必要な道具が所狭しと押しつめられていた。


「本当に……行ってしまわれるのですね」


 後ろから、心配や懸念を多分に含ませたような寂しげな声がした。

 修道服に身を包んだ灰色の瞳の初老の女性が、目を伏せてそこに立っていた。


「シスターグレイ。……このような勝手な結果になってしまい、申し訳なく思っています。若輩者である私を支えてくださった貴女あなたには、深く感謝しています」


 グレイは顔をあげ、何度か迷うそぶりをみせながらも、躊躇いがいに口を開いた。


「エリック神父がいなくなれば、きっと街の皆さんは困ってしまうわ。彼らが傷ついたとき、誰が癒しを施すというの?」


 街の人々。

 その言葉を聞いて、胸の奥の沸々と煮えたぎる溶けた鉄のような激情が、一瞬、体を駆け巡った。

 自分の名を親うように呼び、密かに盃を交わし、自らの手で癒した者たちの笑顔。


 闇夜の中で、猛る炎に照らされた、その狂気に彩れた醜い顔。


「ごめんなさい。貴方が、心を痛めているのは分かってます。でも、貴方を一人にするのは、心配で……!」


 言葉がすぎたと思ったのか、グレイは口をつぐむ。彼女の訴えかけるような瞳からは、心から自分の身を案じていることが伺えた。

 優しく、慈悲深い人だ。

 グレイは世話焼きで、一世代以上も歳が若いであろう自分に、親身になってあれこれ世話を焼いてくれた。

 朝は自分を起こしに、昼は仕事を手伝い、夕餉ゆうげを毎日のように作りに現れ。

 そんな彼女に、自分は頭が上がらない。


「大丈夫です。私がいなくなれば、きっとすぐに、新しい者が寄こされます。それまで貴方に重荷を背負わせてしまうのは心苦しいが、貴方だから、私も安心して旅立てるのですよ」


 できるだけ、優しく微笑んだ。

 グレイが悲しむ顔は見たくなかったが、この地を去るという決意だけは、覆しようがなかった。

 自分の身をおもんぱかる彼女の願いには、残念ながら応えることができない。


「……そう、ですか。……貴方は嫌だと思うでしょうが、どうか、私に無事を祈らせてもらえませんか?」


 グレイは叱られた後の子どものように、チラリとうつむかせた顔をのぞかせている。

 その物言いに、思わず苦笑がこぼれた。

 確かに既に信仰を捨てた私が、背を向けた神へと旅の無事を願ってもらうなどとんとおかしな話だ。

 だが、グレイの申し出に、自分は小さく頷いた。

 それが彼女の、純粋な願いであると分かっていたから。

 その表し方がなんであろうと、構わなかった。


 グレイはすっと息を整え、顔を引き締めてこちらを見つめる。

 私の顔を両の手に収めると、そっと唇を動かした。


「主よ、願わくば、そのかいなに抱きし溢れん幸を、旅立つ彼の子に零したまえ。数多の厄災よりその身を守りたまえ、その者歩む道に光よあれ」


 トンっと、グレイの指が額を押した。

 彼女の優しい祈りが、流れこんできたような気がした。


「帰る場所があることを、覚えていてください」


 グレイの思いやりに、自分は頭を下げて感謝した。

 十年以上暮らしたこの地にいつかまた帰ってこれたら、そうしよう。

 心の傷が癒えた、その時に。


「大変お世話になりました。私が帰ってきたその日は、先ずは貴女の笑顔が見たいでしょうね」


「お任せください。それまで、元気にやってますよ」


 グレイは無理やり微笑んでそう言った。

 もう一度深く頭を下げて、長くを暮らした教会を後にした。


 丘の上に立つ教会を振り返れば、まだこちらを見送っているグレイの姿が見えた。

 大きな青空の下で、一人ポツンとたたずむその姿はどこかもの悲しく、引き返してやはりこの地に残ると伝えてやりたくなる。


 後ろ髪を断ち、進む先を見つめる。

 胸から取り出したのは、首に引っかけた紐の先にある、不思議な宝石。

 薄暗い闇の中に、満天の星空をこれでもかと詰め込んだような、引きこまれるような美しさ。


『わたし、世界を旅してみたいわ! 色んな場所を見て、色んなもの食べて、世界の神秘を一人占めよ! でもあなたと一緒なら、もっと楽しい旅になりそうね』


 耳朶じだに染みこんだ、弾むような楽しげな声が自分を急かす。


「一緒に行こうか、きっと楽しい旅になるさ」


 空は快晴。

 気分は曇りのち晴れた夜。

 彼女と共にゆっくりと行こう。

 目指すは、東の果てにあるという、死者の楽園。

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