B.カルテにまた視線を戻した
「もう!言ってるそばから仕事する。ちょっとぐらい休んだらいいじゃないですか!」
「ですが、まだ途中ですし・・・」
「ほら、コーヒーでも飲んで、一息つく」
「はあ。まあ、そこまで言われるんでしたら、小休止としましょうか?コーヒーも冷めちゃいますし」
コーヒーを勧められた熊谷はカップを取る。
そして、口元に近づけたところでその動きが止まる。
「あの、神村先生・・・」
「はい。何でしょう?」
「そんなに見つめられると飲みにくいのですが」
「どうぞ、お構いなく。さあ、ずずいとお飲みください」
熊谷はカップの中の茶色い液体を見る。
色も香りもコーヒーそのものである。
だが、不審な神村の態度に熊谷は疑わずにはいられないのである。
「神村先生、コーヒーに何か入れました?」
「いえ。全く。何も。全然。これっぽちも」
即答であった。
やはり怪しい。
「じゃあ、神村先生一口飲んでくださいよ」
「いえ、それでは意味がありませんので」
「意味がない?・・・それどういう意味ですか?」
「しまった」
「やっぱり変な物入れてたんですね。神村先生」
隙を見せた神村に熊谷は間髪いれず突っ込む。
「へ、変なものなんて入れてませんって。信じてください、熊谷先生」
「本当ですか?」
「本当ですって。じゃあ、そんなに疑うんなら、証明してみせます。けど、私が一口飲んだら熊谷先生も飲んでくれますよね?」
「ええ。それでしたら・・・」
熊谷からカップを受け取る神村。
そして、一口。
すると、神村はいきなり仰向けに倒れたのだった。
「ちょっ?!神村先生!神村先生!大丈夫ですか?」
突然のことに熊谷は神村を抱き起こし、揺する。
神村のうめきが聞こえ、熊谷は安堵した。
ゆっくりと神村の瞳が開いていく。
「あは♪熊ちゃんだ~」
目を覚ますと同時に熊谷に抱きついてくる神村。
思わず神村の肩を持って引っ剥がし、地面にたたきつける熊谷であった。
「ぐへっ・・・負けない。律子、負けないもん」
「もしかして神村先生酔っぱらってるんですか?」
神村は両手をグーに握り、胸の前で構え、頭をふった。
「ううん。りったん、酔っぱらってないよ。だって、コーヒーに入れたのはぁ、惚れ薬だもん」
「は?惚れ薬?」
「うん。熊ちゃんはナルシストの語源って知ってる?この間、りったん、ギリシャに旅行に行ったの。そこでぇ、妖精さんと仲良くなっちゃってぇ、惚れ薬もらっちゃった。テヘッ」
もう何から突っ込んでいいか分からない熊谷は、頭痛と吐き気とめまいを催していた。
きっと風邪だろう。
「もしかして、熊ちゃん心配してる?大丈夫だよ。もらった惚れ薬の効果は一日だけだから」
「一日だけ」
「だ、か、ら、今日一日りったんのこと、好きにしていいんだよ」
「・・・そうですか・・・では、そこの椅子に座ってください」
うきうきと椅子に座る神村。
だが、神村の望む展開は訪れはしなかった。
「いい機会です。この際神村先生には言っておかないといけない事があります。そもそも神村先生は思いつきで行動し過ぎる。この間だって・・・」
そうしてコンコンと熊谷は神村に説教をし始めるのだが、神村の顔はにやけたまま、怪しい笑い声を洩らしていた。
「にへへへ、熊ちゃん、だいしゅき」
「神村先生!人の話は真面目に聞いてください!」
「はーーーい」
その後も神村は堪える様子も無く、不毛な説教は続くのだった。