彗星が落ちた夜、運命は始まる
アスファルトの匂いが、夏の残滓を纏いながら久留米の夕暮れに溶けていく。一ノ瀬しずく、十七歳。ごくごく
普通の女子高生だ 。しかし、その「普通」という薄氷のような日常は、常にひび割れの予兆を孕んでいた 。放課後、西鉄久留米駅前の喧騒を背に、彼女の古いウォークマンからは、時代遅れのポップソングが耳元でささやき続ける 。制服のスカートが風に煽られ、ふわりと舞うたび、足元に広がる夕陽の残照が、今日という日の終わりを告げるように影を長く伸ばした 。
しずくの心には、常に微かな物足りなさが棲みついていた 。それは、まるで満たされない器の底に、静かに溜まる水のような、
静かなる渇望 。何か特別なことが起こればいいのに、と漠然と願う自分に、彼女は時折、小さな溜息をついた 。テスト、部活、友人との他愛ないおしゃべり 。全てが予定調和の中で過ぎていく日々 。しかし、その完璧な「普通」の風景は、まるで精巧に作られた模型のように、どこか現実離れして見えた 。彼女の
普通という世界は、常に砂上の楼閣のような危うさを秘めていたのだ 。
自宅は、西鉄大牟田線の線路沿いに立つ、年季の入った一軒家だ 。玄関を開けると、使い古された木の匂いと、微かに祖父の使っていた線香の香りが混じり合う 。リビングのテーブルには、母が用意してくれたらしい夕食が並んでいたが、しずくはまっすぐ祖父の書斎に向かった 。そこは、まるで時間が琥珀に封じ込められたような空間 。天井まで届く本棚には、古色蒼然とした書籍がぎっしりと並び、独特の紙とインクの匂いが漂う 。窓際には、使い込まれた天体望遠鏡が鎮座し、その隣には、祖父が読みかけだったのか、古びた一冊が静かに開かれていた 。
しずくは、その本に手を伸ばした 。表紙には、古めかしい文字で「星の鍵」「乙女」「五つの神」と記されている 。触れた瞬間に、ひやりとした冷たさが指先を伝った 。それは、ただの紙の感触ではない 。まるで、太古の叡智が、その一枚一枚の頁の中に、脈々と息づいているかのような、不思議な触覚 。頁を捲ると、彼女の知る文字とは異なる、筆記体の文字が目に飛び込んできた 。その一つ一つが、遠い過去からの囁きのように、彼女の意識の奥底に触れてくる 。
その時だった 。
窓の外が、一瞬にして、月明かりとは異なる
蒼白い光に染まった 。しずくは思わず顔を上げる 。久留米の空は、普段なら星ひとつ見えないはずなのに、今夜は違った 。東の空に、彗星が、まるで意志を持った巨人の眼差しのように、吸い込まれるように落ちていくのが見えた 。ゴウッ……という微かな空気の軋みが響いたかと思うと、
ザァァ……と、世界の音が吸い込まれるような感覚に襲われた 。街の喧騒が、遠くで聞こえていた車の走行音も、隣家のテレビの音も、全てが、一瞬にして
沈黙した 。
全身の毛穴が開き、皮膚の表面を電流が走るような感覚に襲われた 。まるで、世界が透明な膜で覆われ、その膜の内側に取り残されたかのような、異様な
静寂 。
ピタリと、時間は確実に止まっていた 。祖父の書斎に差し込む夕陽の光は、一瞬前と同じ角度で固まり、壁にかかった古時計の針も、微動だにしなかった 。しずくは自分の心臓の鼓動だけが、
トクン、トクンと異常なほど大きく響いているのを感じた 。
その、絶対的な静寂の中で、彼女は明確な
違和感を覚えた 。窓の外、彗星が落ちたはずの夜空に、黒い人影が、まるで空気の裂け目から現れたかのように浮かんでいる 。ゆっくりと、その影が書斎の窓に近づいてくる 。月明かりを背に、その姿が鮮明になった 。それは、漆黒の仮面をつけた少年だった 。仮面は彼の表情を完全に隠し、ただ
銀色の瞳だけが、暗闇の中で妖しく、そしてどこか悲しげに輝いていた 。
仮面の少年は、しずくにまっすぐ視線を向けた 。その視線は、鋭く、それでいて
遥か昔に何かを失ったような、深い諦めを含んだ響きを帯びている 。まるで、彼自身が、幾度となくこの光景を繰り返してきたかのような、
倦怠と、それでも抗えない運命への覚悟が滲んでいた 。彼の口元が、ゆっくりと動いた 。音はない 。しかし、しずくの脳裏に、直接言葉が響くような、
澄んだ声が響き渡る 。
「星の乙女、見つけた」
その声は、深遠な夜の闇そのものであり、同時に、遥か彼方の星々の囁きでもあった 。しずくは、息をすることすら忘れ、ただその場に立ち尽くしていた 。恐怖ではない 。むしろ、長らく心の奥底に沈んでいたパズルのピースが、カチリと音を立ててはまったかのような、
悟りにも似た感覚だった 。自分の
平凡な日常が、この瞬間に音を立てて崩れ去ったことを、彼女は直感的に理解したのだ 。これが、私が探し求めていた「何か」なの? ――そんな呆気ない自問が、胸の内で木霊する 。
仮面の少年は、それ以上何も言わず、音もなく夜空へと消えていった 。
ガタリッと、まるで壊れた機械が再起動したかのように、時間が動き出す 。遠くで車の走行音が再び聞こえ始め、隣家からテレビの音声が微かに漏れてくる 。スマホの画面が
ピコンと音を立てて着信を知らせ、時計の針がカチカチと時を刻み始める 。久留米の街は、何事もなかったかのように、日常の喧騒を取り戻していた 。しかし、先ほどまでの
静寂と、空に落ちた彗星、そして仮面の少年の姿は、しずくの脳裏に焼き付いて離れない 。
しずくの心は、もはや「
普通」ではなかった 。手に持った古文書が、まるで熱を帯びたかのように、微かに震えている 。
翌日から、しずくの周囲で、奇妙な出来事が頻発し始める 。朝、学校に向かう道のり 。いつもの交差点で信号待ちをしていると、横断歩道を渡る人々の姿が、一瞬にして
ボヤッと消え、再び現れる 。バス停に立つ人々は、まるで時間が飛んだかのように、ほんの数秒前とは違う姿勢になっている 。授業中、ノートに文字を書いていると、ペン先からインクが
ドロリと溢れ出し、文字が意味をなさぬ奇妙な記号へと変貌する 。
「え、なにこれ?!」
しずくは思わず自分のスマホを取り出した。画面はノイズが走り、交通機関の遅延情報が意味不明な文字列で表示されている。「まさか、これも彗星のせい? 機種変したばかりなのに!」不満と困惑がごちゃ混ぜになった声が、思わず漏れる。
周囲の様子もおかしい。隣でスマホを覗き込んでいた女子高生が、「あれ、さっき送ったLINE、消えてるんだけど?バグ?」と首を傾げている。駅前では、バスの運行状況を示す電光掲示板がチカチカと明滅し、時刻表が突然消えたり現れたりしている。
「おい、電車来ねぇじゃねぇか!どうなってんだ!」
サラリーマンの怒鳴り声が響き渡り、駅員が困惑した表情で対応に追われている。一方で、異変に全く気づかず、ただひたすらスマホを見つめてゲームに興じている者や、イヤホンで音楽を聴きながら自分の世界に浸っている者もいる。彼らにとっては、この奇妙な現象すら、日常のちょっとした不便に過ぎないようだった。しずくは、そんな人々の様子を眺めながら、自分だけが世界の亀裂を見ているかのような、奇妙な疎外感を覚えた。
そして夜。眠りにつくと、夢の中にあの仮面の少年が
繰り返し現れ、彼女の心をかき乱す 。
それは、紛れもなく、運命の始まりを告げる、静かなる予兆だった 。彼女の
日常は、すでに遠い記憶の残像 。
星の煌めきが、彼女の知るはずのない、広大で危険な、それでいて抗いがたいほど魅惑的な物語の序章を告げていた 。