第9章
「いよいよ決戦の日ね、ナオ! 腕が鳴るわ!」
リュカは、朝日を浴びてキラキラと輝く広大な草原の上で、やけに楽しそうに自分の拳と手のひらをパチンと小気味よく打ち鳴らした。
その整った顔には、これから始まるであろう戦いに対する緊張の色など微塵も浮かんでいない。
むしろ、心の底からワクワクしているようにすら見える。
こいつ、本当に肝が据わっているのか、それともただ単に何も考えていないだけなのか、俺にはもう判断がつかない。
「たとえ茶番だろうが何だろうが、やるからには正々堂々、本気でやってやんなきゃ!」
「……同感だ」
俺は、腰に無造作に差した、どこかの安物屋で投げ売りされていたらしい中古の長剣の柄を、ぐっと強く握りしめながら、隣で準備運動をしているリュカに改めて釘を刺した。
「魔王めー! 出てこい、この卑怯者の臆病者! お前なんぞ、このあたしの超強力な爆裂魔法一発で、宇宙の塵になるまで跡形もなく吹き飛ばしてやるわ! 覚悟しなさい!」
リュカが甲高い声で叫ぶと、前方に大きく口を開けた大地の裂け目から、まるで俺たちの登場を今か今かと待ち構えていたかのように、タイミングよく地響きと共に巨大な黒い影がゆっくりと、そしてもったいぶるように姿を現した。
その姿は、いかにも古の悪の帝王といった感じの、禍々しくも荘厳なオーラを全身から放っている。
「ふはははは! よくぞ来たな、愚かで無謀なる勇者どもよ! 我こそは、この世界に絶望と恐怖と混沌を振りまき、全ての生命を支配する、偉大なる魔王……えーと、たしか魔王ダークネス……なんとかであったはず! そうだ、それだ!」
魔王の声は、洞窟の奥底から直接響いてくるような、やけに不自然なエコーのかかった、そして聞いているこっちが恥ずかしくなるくらい死ぬほど芝居がかった、わざとらしいものだった。
「ちょっと、そこの魔王さんよ。あんた、今、自分の名前一瞬忘れてただろ? やる気あんのか、コラ」
リュカが、我慢しきれないといった様子で、魔王の締まらない登場シーンに的確すぎるツッコミを入れる。
「う、うるさい、そこの小娘! とにかく、貴様らのような、まだ乳の匂いも消えぬひよっこ勇者など、我が偉大なる暗黒魔力の前に、なすすべもなくひれ伏させてくれるわ!」
魔王が、その手に持った人間一人くらいなら、赤子の手をひねるよりも簡単に両断できそうなほど巨大で、そして禍々しい装飾が施された黒い剣を、唸りを上げて振り下ろしてきた。
ガキィン!
俺は、コンマ数秒のタイミングで腰の長剣を抜き放ち、魔王のその大振りな一撃を、正面から受け止めた。
剣戟の衝撃で腕が痺れ、全身の骨が軋むような感覚に襲われるが、耐えられないほどの重さではない。
魔王の剣は、その禍々しくも威圧的な見た目に反して、驚くほど軽かった。
明らかに手加減している。
というか、そもそも剣の扱い自体が、お世辞にも上手いとは言えない、素人同然の動きだ。
これなら、俺でも勝てるかもしれない。
「そこよ! もらったぁ! 超究極破壊殲滅魔法!」
俺が魔王の攻撃を受け止めて、わずかな隙を作り出している間に、リュカの詠唱がいつの間にか完了していたらしい。
彼女の小さな手のひらから放たれた、目も眩むような強烈な閃光を伴う巨大な魔力の塊が、まるで意志を持っているかのように、一直線に魔王へと向かっていく。
おい、リュカ、そのふざけた魔法名は一体何なんだ。
「ぐわーっ! ば、馬鹿な……この私が、こんな小娘の、ふざけた名前の魔法ごときにぃぃぃーっ!」
リュカの超強力な魔法が、寸分の狂いもなく魔王に直撃した。
魔王は、まるで古典的な漫画に出てくる三流の悪役みたいに、これまた大げさな悲鳴を上げて、後方へと派手に吹き飛んでいった。
そして、無様に地面に数回バウンドした後、ピクリとも動かなくなった。
「お、おのれ、勇者ども……よくもこの私を、ここまでコケにしてくれたな……!」
もうもうと立ち込める土煙の中から、魔王がよろよろと、しかしどこか不屈の闘志をみなぎらせて立ち上がってきた。
その姿は、ところどころ身にまとった装束が焼け焦げ、顔や手足は煤まみれになっている。
「だが、甘く見るなよ、小僧ども! 今のは、我が力のほんの小手調べ! いわば、我が偉大なる力の、ほんの第一形態を倒したに過ぎんのだ!」
「第一形態ですって!? ちょっと、聞いてないわよ、そんなの! まだ続きがあんの!?」
リュカが、心底うんざりしたような、そして若干引いているような声を上げる。
「当然だ! 次は、我が真の力、その恐るべき第二形態を、貴様らのその目にしかと焼き付けてやるがいい!」
魔王の体が、禍々しい紫色のオーラに包まれ、みるみるうちにその姿が変化し始めた。
筋肉が異常なまでに隆起し、背中からはまるで悪魔のような巨大なコウモリの翼が生え、頭には見るからに硬そうな山羊のそれによく似た、大きく捻じくれた角が二本出現する。
いかにも強そうで、そして悪趣味な見た目だ。
その時、俺は確かに気づいた。聞き逃さなかった。
魔王が、見るからに苦しそうな呻き声を上げながら、必死に第二形態へと変身している、そのまさに最中に、ほんの小さな、それこそ蚊の鳴くようなか細い声で、誰にも聞こえないように、しかし必死に何かを呟いているのを。
「……た、台本通りに……お願いだから……もう、やめてくれ……痛い……死んじゃう……」
俺の動きが、完全に、そして物理的にフリーズした。
「どうしたのよ、ナオ! あいつ、今まさに変身中よ! 全身隙だらけじゃない! 今が最大の、そしておそらくは最後のチャンスじゃないの!」
リュカが、俺の突然の異変に気づいて、いぶかしげに叫ぶ。
「……この魔王」
「だから、何だって言うのよ! さっさとあのふざけた第二形態ごと、木っ端微塵にぶっ飛ばしちゃいなさいよ!」
「待て、リュカ。少しだけ、いや、かなり様子がおかしい。何か裏がある」
俺は、今にも魔王にトドメを刺そうと飛びかかろうとするリュカの細い腕を、ほとんど反射的に掴んで、無理やりその場に制止させた。
「……話が、したい。君と」
俺は、ゆっくりと腰の長剣を鞘に納めながら、変身を終えてさらに禍々しさと威圧感を増した魔王に向かって、静かに、しかしはっきりとそう言った。
「は? ナオ、あんた、本気で何言ってんの? 話し合いなんて、できるわけ……」
魔王の動きが、ピタリと、まるで時間が止まったかのように固まった。
その悪魔じみた変貌を遂げたはずの顔は、驚愕と、そしてそれ以上に深い混乱の色に染まっている。
「な、何を馬鹿なことを言っているのだ、勇者! 我は、貴様らの不倶戴天の敵、偉大なる魔王ダークネスなんとかであるぞ! 話し合いなど、ちゃんちゃらおかしいわ!」
「その下手な演技はもういい。やめろ」
俺の静かな、しかし有無を言わせぬ強い口調に、魔王の巨大な体がビクリと大きく震えた。
「……な、何のことだか、さっぱり、これっぽっちも分からんのだが……?」
「君は、本当に魔王なのか? 俺の目には、どう見てもそうは見えないんだがな」
俺たちの周囲で見守っていた、いつの間にかどこからともなく集まってきた王国の兵士たちが、ざわざわと不穏な感じで騒めき始めるのが分かった。
「おい、勇者様は一体何を言っておられるんだ……? 理解が追いつかん……」
「台本には、こんな予想外の展開は、どこにも書かれていなかったはずだが……」
魔王は、その手に構えた巨大な黒剣をわなわなと震わせながら、必死に平静を装って虚勢を張っているようだった。
だが、その禍々しい仮面の下に隠された素顔は、きっと恐怖と絶望で無様に引きつっているに違いない。
「……いいから、戦え」
魔王が、まるで喉から血を絞り出すような、苦しげな声で言った。
「なぜだ? 戦う理由がないだろう」
「ごちゃごちゃ言わずに、いいから黙って戦えと言っているのが分からんのか!」
魔王が、半ばヤケクソになったように、雄叫びを上げながら俺に向かって猛然と突進してくる。
しかし、その動きは、先ほどよりもさらに精彩を欠き、素人目に見ても隙だらけだった。
もはや、近所の悪ガキが適当な棒切れを振り回しているのと、大して変わり映えしないレベルだ。
俺は、最小限の動きで、まるで子供の遊びにでも付き合ってやるかのように、魔王の振り下ろしてきた剣を軽く弾き飛ばした。
キン、と甲高い軽い金属音がして、魔王の愛剣らしき巨大な黒剣が、あっけなく宙を舞い、少し離れた地面に深々と突き刺さった。
「君は、戦士じゃない。戦いというものを、まったく知らない人間の動きだ」
「……」
「なぜ、君が魔王を演じている? 誰かに無理やりやらされているのか? それとも、何か弱みでも握られているのか?」
「やめろ! それ以上、何も言うな!」
魔王が、まるで小さな子供が癇癪を起したかのように、両手で自分の耳を塞ぐようにして甲高く叫んだ。
「これ以上は……俺は……俺はもう……!」
その時だった。魔王が激しく動揺し、我を忘れてしまったせいか、顔につけていた、見るからに悪趣味で禍々しい悪魔の仮面が、ポロリと力なく外れ落ちた。
その禍々しい仮面の下から現れたのは、まだどこか幼さの残る、俺たちとそう大きくは変わらないくらいの年頃の、見るからに気の弱そうで、そしてどこか影のある、一人の青年の顔だった。
そして、その青年は――泣いていた。
まるで決壊したダムのように、ボロボロと大粒の涙をその両目から止めどなく流しながら、ただ呆然と俺たちを見上げていた。
「頼む……お願いだから……俺と戦ってくれ……」
「なぜ、君がそんなに泣いているんだ? 理由を話してくれ」
「俺が……俺がちゃんと魔王をやらないと……みんなが……俺の大切な家族が……殺されちまうんだよぉ……!」
その衝撃的な言葉を聞いて、それまで黙って成り行きを見守っていたリュカが、ハッとしたように前に出た。
「ちょっと待ちなさいよ、あんた。一体どういうことなの、それ」
彼女は、警戒しながらも、しかしどこか同情するような目で、ゆっくりと泣きじゃくる青年に近づいていく。
「あんた、もしかして誰かに脅されて、無理やり魔王役なんていう馬鹿げた役をやらされてるの?」
青年は、何かを必死に言いかけて、そして――次の瞬間、まるで何かのスイッチがカチリと切り替わったかのように、再び先ほどまでの芝居がかった大げさな口調に戻って、高らかに叫んだ。
「くくく……ふはははは! 愚かなる勇者どもめ! よくぞ我が真の姿、この恐るべき最終形態を見破ったり!」
おいおい、こいつ、さっきまでの涙はどこへ行ったんだ。
「だが、これで全てが終わりと思うなよ! 我は必ずや、より強大な力を得て復活し、貴様らの前に再び絶望の淵となって立ちはだかってみせるわ! さらばだ、勇者ども! また会う日まで、首を洗って待っているがいい!」
青年は、そう一方的に言い残すと、どこからともなく取り出した煙幕弾を足元に勢いよく叩きつけて周囲の視界を遮り、その混乱に乗じてどこかへと逃げ出してしまった。
後に残された俺とリュカは、しばらくの間、何が何だかよく分からないといった表情で、呆然と顔を見合わせていた。
「……追うぞ、リュカ。あいつを捕まえて、全ての真相を聞き出す」
「もちろんよ!」
俺たちは、あの泣き虫の偽魔王の青年が逃げていった方向へと、全速力で駆け出した。
この奇妙で胡散臭い「魔王」の本当の正体と、そしてこの世界のどこまでも歪みきった忌まわしい真実を、この俺自身の力で、何としてでも暴き出してみせるために。