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第8章

「カンパーイ! ……って、ナオ、あんた相変わらず水かよ! ちょっとは場の空気読みなさいよね、この朴念仁!」

 

 リュカが、エールらしき琥珀色の液体がなみなみと注がれた、年季の入った汚い木製ジョッキを、やけに高々と掲げて意気揚々と叫んだ。

 ここは王都の下町の一角にある、どこにでもありそうな、ごく普通のしがない酒場だ。

 

 昼間のあの熱狂的な、そしてどこまでも胡散臭い歓迎は一体どこへやら、今は薄暗く煤けたランプの頼りない照明の下、むさ苦しい格好をした男たちが、テーブルを叩きながら騒がしく酒を酌み交わしている。

 活気があると言えば聞こえはいいが、はっきり言って治安はあまり良くなさそうだ。


「……俺は未成年だ。というか、君もそうだろうが。法律は守るべきだ」

 

 俺は、出された生ぬるくて埃っぽい味のする水を一口飲みながら、周囲の喧騒とそこにいる人間たちの様子を、冷静に、そして細心の注意を払って観察していた。

 といっても、この世界の法律で俺が未成年扱いなのかどうかは知らないし、そもそも俺に戸籍年齢なんていう便利なものが存在するのかどうかすら、今のところは不明だが。

 少なくとも、見た目は十代後半の若造のはずだ。

 

「細かいことは気にしないの! 郷に入っては郷に従えって、昔の偉い人も言ってたじゃない!」


 リュカは、俺の至極まっとうなツッコミなど、春のそよ風のようにどこ吹く風と受け流し、ジョッキの半分を一気呵成に飲み干して「ぷっはーっ! んー、やっぱ労働の後の一杯は格別ね!」と、まるで何十年も働き続けてきたベテランの親父みたいな豪快な息を吐いた。

 こいつ、本当に勇者のパートナーなのか?

 どう見ても、そのへんの酒場の常連客、それも一番タチの悪いタイプの酔っ払いにしか見えないぞ。


「おい、聞いたか? また新しい勇者様御一行が、今日この街に到着したらしいじゃねえか!」

「おお、そいつは本当か! こりゃあまた、しばらくは景気が良くなるってもんよ!」


 酒場のあちこちから、そんな期待と不安がごちゃ混ぜになった、酔っ払いたちの騒がしい会話が、嫌でも俺の耳に直接飛び込んでくる。

 どうやら、このカル=レア王国とかいう国では、「勇者の来訪」というのは、一種の季節の風物詩か、あるいは定期的に開催されるお祭りか何か、そんな感じの扱いらしい。

 まったく、ふざけた話だ。


「ねえ、そこの無愛想なおじさん」


 リュカが、カウンターの隅っこで一人静かに、何か得体の知れない色の液体をちびちびと舐めるように飲んでいた、ひどく年老いた男に、いつもの調子で馴れ馴れしく話しかけた。

 その老人は、顔中おびただしい数の深い皺が刻み込まれ、その濁った両の目には何の光も宿っておらず、ただ虚ろに虚空を見つめている。

 その姿は、この世の全ての絶望と辛酸を舐め尽くしてきたかのような、物悲しくも不気味な雰囲気を全身から漂わせていた。

 

「ちょっと聞きたいんだけど、この国に来た前の勇者って、結局どうなったわけ? やっぱり、魔王に挑んで返り討ちにあって、あっけなく死んじゃったとか、そんな感じ?」


 老人は、まるで錆びついたブリキ人形みたいに、ぎこちなくゆっくりとリュカの方に顔を向けた。

 その虚ろだったはずの目には、一瞬だけだが、剃刀のように鋭く、そしてどこか全てを見透かすような光が宿ったように見えた。

 

「……帰ったよ」

「帰った? どこへ? 天国とか、そういうスピリチュアルな話?」

「どこって、そりゃあ、自分の故郷だろうさ。あいつの『任期』が、めでたく終わったからな」

「任期だと!?」


 思わず、俺は飲んでいた埃っぽい水を、思い切り噴き出しそうになった。

 

「勇者に、『任期』があるというのか? それは一体どういう……」

「当たり前だろうが、若いの」

 

 老人は、まるで乾いた枯れ木が擦れ合うような、カサカサとした笑い声を喉の奥で漏らした。

 

「この国にやってくる『勇者様』の契約期間はな、だいたい3ヶ月ってとこさ。その間に、魔王軍の適当な強さの幹部と、何度か派手な立ち回りを見せて民衆を喜ばせ、最後は仰々しく魔王との一騎打ちに挑んで、これまた適当なところで見事に負けて、すごすごと自分の国へ帰っていく。それが、このカル=レア王国じゃ、ここ数十年ずっと繰り返されてる、お決まりのパターンよ」

「負ける……それが最初から決まっているというのか!?」

「そりゃそうさ。もし万が一、勇者が本気を出して魔王なんぞを倒しちまったら、一番困るのは、何を隠そうこの国自身だからな」

「一体、どういう意味だ……?」

 

 俺もリュカも、あまりにも突拍子のない話に言葉を失って、ただ呆然と老人を見つめることしかできなかった。

 老人は、ニヤリと口の端をいやらしく歪めて、声を一段と潜めた。

 

「魔王がいなくなっちまったら、当然、勇者も必要なくなる。そうだろう? そうなったら、この国に次から次へと勇者を派遣してもらう意味も、理由もなくなるわけだ。単純な話よ」

「……」

「この国の経済はな、ここ何十年もの間、『勇者様特需』で、どうにかこうにか回ってんだよ。武器屋も防具屋も、宿屋も酒場も、みーんな、勇者様御一行が景気よく金を落としてくれるから、なんとか潰れずにやっていけてる。つまりは、魔王様様、勇者様様ってこったな。皮肉な話だがよ」

 

 リュカの整った顔が、みるみるうちに怒りと嫌悪で険しく歪んでいくのが、隣にいてもはっきりと分かった。

 彼女のトレードマークである赤い髪が、まるで彼女の激しい怒りに呼応するかのように、ピリピリと不穏な静電気を帯びて逆立っているように見える。

 

「……そういうこと、だったのね。最低じゃないの、それ」

「ん? 何か知ってるのか、嬢ちゃん」

「ううん……別に、何も知らないわよ。ただ、なんだか、どこかで誰かから、同じような胸糞悪い話を聞いたことがあるような気がするだけ」


 リュカは、細い指で自分のこめかみを押さえて、苦しそうに美しい顔を歪めた。

 

「誰かが……昔、すごく昔に、同じようなことを、あたしに教えてくれたような……誰だったかしら……どうしても、思い出せない……」


 まただ。彼女の大きな赤い瞳の奥で、あの得体の知れない赤い警告灯のような光が、まるで壊れたネオンサインみたいに激しく点滅している。

 彼女の脳内で、重要な記憶データにアクセスしようとして、深刻なシステムエラーでも起こしているかのようだ。

 

「兄ちゃん……?」


 ポツリと、リュカの桜色の唇から、まるで夢現にか呟くように、その言葉が漏れた。

 

「兄? 嬢ちゃん、あんた、兄貴がいるのかい?」


 老人が、怪訝そうな、それでいてどこか興味深そうな顔でリュカを見つめる。

 

「違う! いないわよ、そんなの! 絶対に!」


 リュカは、まるで何かに酷く怯える子供のように、慌てて老人の言葉を金切り声に近い甲高い声で強く否定した。

 

「あたしに兄なんていない! いるはずないじゃない……絶対に、絶対にそんなはずないんだから……!」


 だが、彼女のその必死な言葉とは裏腹に、彼女の心の奥底で、何かとても大切で、そして悲しいものが、今にも張り裂けんばかりに必死に叫んでいるのが、俺には痛いほどはっきりと伝わってきた。

 

「大丈夫か、リュカ? 少し休んだ方が……」


 俺が心配して声をかけると、リュカはハッと我に返ったかのように、無理やり作ったようなぎこちない笑顔を俺に向けた。

 

「う、うん……大丈夫、大丈夫よ、ナオ。ちょっと頭痛がしただけだから……全然、気にしないで頂戴」


 老人は、俺とリュカのそんな不可解なやり取りを、しばらくの間、何か言いたげな、それでいて何かを深く悟ったような複雑な目で見比べていたが、結局は何も言わずに、ただ黙って手酌で手元の得体の知れない酒を呷った。


「……時々、いるんだよ」


 不意に、老人が誰に言うともなく、ポツリと独り言のように呟いた。

 

「何が、ですか……?」

「本気で、魔王を倒そうなんて考える、世間知らずで、おめでたい頭をした馬鹿な勇者がな」


 その老人の言葉を聞いた瞬間、リュカの華奢な手が、テーブルの下で微かに、しかしはっきりと震えたのを、俺は見逃さなかった。

 

「そういう、この国の暗黙のルールってもんを理解できねえ、空気を読めねえ馬鹿な奴は……決まって、いつの間にかどこかで静かぁに行方不明になるのさ。お前さんたちも、この国で長生きしたけりゃあ、せいぜいその辺は上手く立ち回ることだな。忠告だ、ありがたく受け取っときな」

 

 老人のその言葉は、俺たちの心の上にのしかかってきた。

 俺は、気づけばリュカの冷たく震える手を、そっと、しかし力強く握りしめていた。


 これが、誰かを守りたいという感情なのか。

 俺のプログラムにはどこにも存在しないはずの、この温かくて、そして同時に少しだけ切なくて苦しい、この初めて感じる感情は、一体何なんだ。



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