旅立ちの涙
吹雪の続く夜の内、明星が輝きを増すのと同刻、屋敷中の期待を一身に背負った女の子が誕生した。
先程の吹雪はどういう訳か消え去り、この時期特有の永遠とも思える曇天も最初から存在していなかったかの様に晴れる。
眩く流れる星と共に、アリエルは涙を零す。
彼女の一生が、希望で満ちたもので在ります様に。
白い屋敷は、降りしきる雪の中でも薄れない存在感を放っている。
空には隙間なく雲が敷き詰められ、風は穏やかであるが、今日の気温は真冬の中でも特に冷えている。
雪が大好きな大型犬でさえ、室内で暖まることを選ぶに違いない。
敷地内は一面雪の絨毯が敷かれ、玄関を飲み込まんとしているが、豆に雪かきがなされているお陰で、玄関と雪の境界がはっきりしているのは幸いだ。
広い玄関から屋敷のドアを開けると、リビングダイニングが一望できる。
木材とレンガの暖色で統一された空間の中で一番最初に目につくのは、二口開いた大きなレンガ製暖炉に、隣の勝手口だろう。
傍の壁には所狭しとキッチン用品が掛けられていて、出番を今か今かと待っている。
暖炉の温もりを適度に感じられる場所には、使い込まれた革製のソファーが鎮座し、その様子を身近に感じられる距離に、ファミリータイプのテーブルが食事の時間を待ち侘びている。
色どりを加える壁掛けラックには、使い古された剣や杖が掛けられており、そのうちの一番高くに掛けられている鞘付きの剣は妙に真新しかった。
二階から降りてきたこの屋敷唯一のメイド、エリンは、この広い空間に一つしかない、テーブルの上に置いてあるランタンの明かりを灯した。
暗がりからソファーでうたた寝している老人を見つけたエリンは思わず悲鳴を上げる。
「きゃあ!もう!アスタ先生!またソファーで寝てたでしょう?風邪引いたら大変なんだから!後心臓に悪い!」
まだぼけているのか、アスタは欠伸をしながら背伸びをしている。
「...すまんなぁ。うっかりしていた。はて?ロニスはどこかな?」
エリンが辺りを見渡すと、勝手口のドアが少し開いているのが見えた。
またか、と思いつつ、この屋敷の一人娘の様子を見に行くことにした。
勝手口から外へ出ると、少しばかりの庭が併設されており、小さな屋根付きの東屋がある。
そこには園芸用の緑色をした冷たい鉄製のテーブルとイスがあるだけだが、少女には十分過ぎる設備である。
エリンが少し遠くからロニスに声をかけると、可愛らしい笑顔でこちらに気が付いた後、もう少しと言わんばかりに手で合図を送る。
「ロニー!そろそろ中に戻ったら?」
その少女は、遠目からでも分かる、綺麗に編み込まれたフィッシュボーンのブロンド髪をしている。
青いブランケットに包まりながらスケッチブックとペンを構え、整った儚い顔立ちは、青い瞳と共に雪の結晶を追いかけている。
ロニスにとって雪の結晶を観察することは、暖炉で燃えている牧木を観察する事と大差ない。
結晶の形がこんなにも多様で奥深いものであると感じ始めてからは、更に多くの時間が解けていった。
「あ!やっぱり違う!」
そう呟きながら、ロニスは形を書き記し、一言コメントを添える。
才能に溢れ、天真爛漫、誠実で真直ぐな所が、親譲りだと評判で、本人も誇りに思っている様だ。
エリンはロニスのその様な一面が垣間見える度に、亡くなった彼女の両親の事を思い出し、胸が締め付けられる。
ロニスが今日も3種類ほど書き込んだところで、エリンの言うことを聞き入れる事にした。
鼻先を赤くして無邪気に微笑むロニスに、エリンは優しく笑いかけている。
「エリン!見て!今日は3種類よ!」
「ロニーは本当に目が良いわよね!私には結晶の違い何てさっぱり分からないわ!」
「そんなことないわ!エリンも集中すれば、きっと見えてくる筈よ!」
ロニスから見れば、エリンはお姉さんの様な存在であった。
彼女はメイドらしい黒色のスカートを履くことを好まず、いつでも手頃なシャツにジーンズ、エプロンを縛ると、そのスタイルの良さがはっきりと伺える。
白いタオルで黒髪を縛り、何でもテキパキとこなす姿は、ロニスの憧れである。
自身では、私は捨て子だったから、と言っているが、幼い頃から一緒にいたロニスが、そんな事を気に止めていた時間は一秒たりとも無かった。
手を繋ぎながら歩く様子は、血の繋がりよりも強い何かを感じさせる。
屋敷に戻ったエリンは足早に夕食の支度を始める。
一日に使う食料は、勝手口の傍にまとめて一箱に収納されている。
箱の中身を使い終わったなら、雪に埋もれている箱をまた一つ引っ張り出してこればよい。
夕食に必要な分の調理道具を揃え、いざ野菜を手に掛けようという時、ソファーに座っているアスタと、テーブルにノートを広げているロニスが、その様子をじっと見ている事に気が付く。
これでは集中出来ないと溜め息を付きながら、二人に暇を潰してくるように命じる。
「アスタ先生!ロニーと外で稽古でもしてきて!こっちはまだ時間がかかりそうなの!」
名前を呼ばれた老人は、やっとソファーから動き出し、暖炉の傍に立てかけてある2本の木刀を取り、一本をロニスに投げる。
ロニスは日常の一部である様に、慣れた手つきで木刀の柄を掴む。
立ち上がった老人の恰好は、先日79歳の誕生日を迎えたとは思えない、身体の力強さを感じる。
革靴に灰色のスラックスを履き、ワイシャツを着ているが、腕を巻くっている事で、清潔さよりも溢れる生命力を周囲に放っている。
暖炉でじっと温まっていても、決して侮ってはいけないだろう。
「ロニー、私の健康の為だ、ちょいと外まで付いてきてくれ。」
そんなことを言いながら、口角は上がっているではないか。
ロニスは渋々付き合う事を決める。
「しょうがないなぁ~...ちょっとだけだよ。」
先程までは雪が降っていたフランだったが、30分前がどの様な天気だったにしても、アスタが稽古だと言って外に出れば、晴れ間が広がってしまう。
天はロニスが剣を振るっている姿が見たいに違いない。
眼下の雪に足を取られる事のないように、ロニスは魔法を使う。
魔法というものは、イメージが大事である。全てはイメージによって実現するのだ。
しかし、想像を遥かに超える怪物は、何時だって、現実の世界に存在している。
アスタは魔法を使うことは出来ないが、ロニスにとっては遥か高みにいる怪物そのものだった。
彼女が5歳の時から始まった剣術稽古の内、アスタに一撃を入れる事は未だ不可能と言っていい。
降り積もる雪の結晶を捉える事の出来る眼を持ってしても、アスタの太刀筋を追う事は至難の業だ。
夕日を背に、ロニスは上段に構える。
一面真っ白であった雪は、この瞬間に相応しい橙色が、煌々と、視界にしばらく消えぬ斑点を作る。
アスタは目を細め、夕日のせいで黒くシルエット状になったロニスの気迫に関心する。
大木が目の前にあったなら、勢いそのままに、真っ二つにしてしまいそうな、鬼気迫る迫力がある。
対してアスタは、構える事をせず、何の気なしに、右手に木刀を備えているだけである。
渾身の上段も、この老人の前では、虚勢を張っているに過ぎない事を、ロニスは重々承知の上だ。
踏み込んだロニスは5mの距離を一息にして詰め初撃を振るうが、アスタは左足を半歩引く程度で躱し、それを予期していた右下からの燕返しも容易く左に受け流す。
その刹那には、もうすでに首筋目掛けた水平切りがロニスを狙っていた。
間一髪、しゃがんで回避をするが、木刀であるにも関わらず、毛先が切れて雪に散らばる。
しゃがむと同時に、木刀を背中を通して持ち替え、逆手の水平切りでカウンターを狙うも、少しばかり後ろにステップを踏む事で、意図も容易く躱される。
それと同じタイミングで、ロニスは更に踏み込み、右手に木刀を持ち替える早業でアスタの動きを遂に捉えた。
足を地面に着ける寸前のアスタに、ロニスは、一撃入る!と確信した。
だが、その甲斐虚しく、胴を捉えた筈のロニスの木刀は、アスタの木刀によって防がれていた。
強烈な反作用が、まるで大岩を思わせる程で、ロニスは一瞬右手に意識を向け、アスタを視界から外してしまう。
その一瞬を見逃す筈もないアスタは、頭にコツンと木刀を置くのであった。
長い死闘の様に見えるかもしれないが、僅か2秒の出来事である。
ロニスは声にならない呻きを上げ、頭を擦っているが、アスタは適度な運動で血流が良くなったのか、愉快そうに笑っている。
「っっったぁ...」
「はは!よ~し!ロニー!その調子だ!随分動きが良くなったじゃないか!今日はもう辞めにして引き上げよう。また雪が降りそうだ。」
二人が空を見上げると、かすかに雲がかかり始めている。
短い時間の稽古であったが、ロニスは充実感に満たされていた。
使い終わった木刀に目を向けると、衝撃を受けた箇所が凹み、見た目が悪くなっている。
こうした時に、ロニスにはいつも決まってやることがある。
「また木刀が凹んじゃってる。直さなきゃ。」
ロニスはそっと木刀に手を翳す。
目を閉じ、木刀の過去を思い出すのだ。
それはまだ新品で、艶がある。切り出した白樫の匂いが手に纏わりついて、振る度に鼻孔を擽る。
木刀は赤く輝き出し、その身は時間を遡る。
この屋敷に届けられた頃と同じ風体になった時、光は沈み、ロニスは目を開ける。
なんて神秘的なのでしょう。
アスタはこれをもう何度も見ている光景であるにも関わらず、感嘆を禁じ得なかった。
「いつ見ても魔法は綺麗なもんだ、私もノエルに教えてもらおうか?」
「いつも同じ事言ってるよ...」
「...そうだったか?はは!年には勝てないな!」
アスタの木刀も一緒に片そうとするロニスは、未だ新品同然の姿を見て、剣術だけでは遠く及ばない事を再認識させられる。
屋敷に戻って、又してもソファーを陣取るアスタには、エリンはもうどうする事も出来ないが、まだ立って木刀を片しているロニスには、指図が出来そうである。
「ロニー!もうすぐ終わりそうだから、ノエル先生を呼んできてくれる?きっといつもの場所よ!」
「わかったわ!」
駆け足に成りそうな勢いで、二階にある蔵書室へと向かう。
ロニスは昔から、本を読むことが好きで、書かれている内容が例え大人向けだったとしても、意味も分からず口に出してしまう事がよくあった。
例えば、奥から12番目の棚にある「魔法カクテルとその効果」という本の32ページ6行目にある「ここでユニコーンの唾液を1mlと、ドラゴンの爪垢(スノードラゴンの物が好ましい)0.1mgを③に入れる。」をそのまま口に出して読んでしまったところ、訳も分からず、ノエルが趣味事で経営しているバーのカウンター席に、ちょこんと座っていたことがある。
ここの蔵書は、ほとんどがノエルの記憶とリンクしており、ある種の魔方陣として機能している。
その為、思い出のあるカクテルの作り方には、アスタを落とした甘酸っぱい記憶が込められているのだ。
慣れた手つきでバーまで辿り着くと、カウンターからノエルを探す。
「ノエル先生!もうすぐ夕食が出来るって!」
スタッフルームの暖簾から姿を現したノエルは、夜営業の準備をしていただろう。
銀色の長い髪をうまく後ろに纏め、Tシャツにスキニージーンズと、かなり若い恰好をしているが、上から羽織っているフレンチシックロングコートが、全てを上品に纏め上げている。
ロニスが明るい性格に育った一因は、この人にあるだろう。
「ロニーかい?おやおや、もうそんな時間なのね!私が支度を終えるまでちょっと掃き掃除を頼めるかい?終わったら、内緒で特性いちご水をあげるわ!」
「本当?分かったわ!すぐに終わらせちゃうんだから!」
バーの内装は落ち着いたダークブラウンの木目調で統一されており、イスは少しの背もたれがある足の長い物で、カウンターには何も物は置いておらず、代わりに低い天井近くの収納にワイングラスなどが敷き詰められている。
窓は無く、閉鎖的でありながら、洗練された雰囲気が漂う。
カウンターの他は、テーブル席が数席あるばかりの小さな店であるが、フラン屈指の名店だ。
ロニスが足でリズムをとりながら、クローゼットの様な掃除用具入れに左手を翳すと、箒が3本飛び出してきて、右手を翳すと玄関のドアがカランコロンと音を立てて開き、箒達はリズムに合わせてつむじ風を起こしながら、ロニスと共に舞い踊る。
その姿はまるで、舞踏会を舞い踊る事を夢見る、町で一番美しいと評判の家事手伝いをしている娘に相違ない。
普段は深夜しか営業していないバーから、その様な娘が顔を覗かせていれば、評判は立つもので、それ目当てに店に訪れる客が偶に現れるそうだ。
「ロニー、いちご水が用意出来たよ!掃除は終わったかい?」
「はーい!もうすぐ終わるわ!」
箒達を用具入れまで誘導した後、カウンターに置かれたいちご水に目を輝かせる。
氷を入れずとも凍り付きそうな温度をしているが、気温の高い室内には、これが一番ちょうどいい。
一仕事終えたロニスは、一気に喉奥に流し込むと、頭がキーンとして様で、しばらくカウンターに突っ伏す。
暫くその体制のままカウンターを眺めていると、奥に、見慣れない大鍋が火に掛けられているのが目に入る。
「その大鍋は何を煮ているの?もしかして、森喰い熊が出たのかしら?!」
嬉々として質問するロニスにとって、森喰い熊とは、美味しく調理する対象に過ぎないが、フラン周辺の森に生息する木を食性とする熊が、狂暴化した個体を指す。
普段は大人しい木喰い熊が、何故狂暴化するのかは解明されていないが、固く鋼の様な体毛、質の良い肉は、密猟者にとっては格好の獲物となっている。
戦闘能力はかなりの物で、果たして、多く狩られているのはどちらなのかと問われれば、それは密猟者なのである。
「これはね、ロニーの15歳の誕生日をお祝いするための仕込みさ。もうすぐだったろう?楽しみにしていておくれ!」
「そうだった!すっかり忘れていたわ!」
15歳と言えば、周囲の目も優しくなり、これまで過保護に接してきた親でも、子どもを解放しないと、周りから白い目で見られる年齢である。
ロニスはこの時をずっと待ち侘びていたのだ。
自分もかつて両親がそうであった様に、冒険者としての人生を歩んで行きたいと、本気で思っている。
彼女には早くに無くしてしまった両親の顔を思い出す事は出来ないが、周囲からの評判のお陰で、今でもその勇姿を身近に感じとる事が出来る。
冒険者を終えた両親がフランに帰郷してからというもの、代々地主として活躍してきた一族だった事もあり、持ち帰った知識や人脈を活用し、フランにこれまでにない繁栄をもたらした。
その夫婦への恩義や、忠誠心、ロニスへの期待、彼女の才能によって、屋敷はこれまで通りの様相を保つことが出来ている。
周辺に森喰い熊が出没した時でさえ、臆する事無く、町の住民達や先生方の力を合わせて討伐したものだ。
ノエルはロニスに、ここへ来た目的を忘れちゃいないかと問質す。
「もうすぐ夕食の時間なんだろう?慌てるのはその後でも遅くはないさ!」
「そうだね!帰ったら、招待状を作るの手伝ってくれる?」
「もちろんよ!」
孫程の年齢差があるが、それでも魔法をより美しく操るのはノエルだ。
年を取るにつれて想像力は衰えてしまうのに、この年になっても、魔法の研究を怠らず、まだ人類には不可能かと思われた転移魔法を、短距離ではあるが、実現させつつある。
蔵書室の一角で、老眼鏡を掛けながら資料を纏める姿は、いつまでもロニスの憧れだ。
三度屋敷に戻ったロニスは、空腹で今にも力が抜けそうだった。
エリンが用意した夕食のメニューは、いつ食べても固いパン、干し肉入りのシチュー、チーズと芋のガレットだ。
皆が手を付けようとする直前、一番食べたかったであろうロニスが、話を切り出す。
「ねぇみんな、食べる前に聞きたいことがあるの。」
好物を目の前に、何か聞きたいことがあるなんて、と少し面食らった様なエリンは思わず聞き返してしまう。
「どうしたの?改まっちゃって。」
「みんなは15歳になったら何かやりたいことはあった?」
いつかは聞かれるのではないかと思っていた質問に、大人達は笑顔を崩す事なく、卒なく答える。
エリンはまだ若く、鮮明に自分の事を思い出せる様だ。
「そうねえ...私は何もなかった。仕事を覚えることで 精一杯だったから...あ!でもアリエルさんから本を貰えた事は嬉しかった!それに、15歳になってから、任せて貰える仕事も増えたのよ!」
唐突に聞こえた、アリエル、という単語に、ロニスは少し誇らしげになる。
先生方からはどんな話が聞けるのかと、ロニスは視線を向ける。
アスタは仕方なしと先陣を切る事にした。
「私はノエルと旅に出始めたのが、ちょうどその頃だったかな?」
「あら、あなたにしては物覚えがいいじゃありませんか!思えば、ロントから随分遠くに腰を据えてしまったわね。」
「そうだな!ロニスが独り立ちしたら、一度ロントに戻ってみようか?」
「それもいいかもしれませんねぇ...」
「ロントはいい所だぞ、ロニー!魔法で溢れてるんだ!」
もう何度聞いたか分からない話に、少し退屈そうな顔をすると、エリンが賺さず話題を変えてくれる。
「皆はもうこの先やりたいことがあるのね...私はどうしようかな?屋敷には誰も居なくなっちゃうし、随分持て余しちゃうなぁ。」
エリンがほとんど空き巣の様になってしまう屋敷の事を心配していると、アスタが思い出したかの様に、一つの提案をする。
「そういえばなんだか、エリン、この屋敷でギルドを立ち上げてみる気はないか?」
突拍子も無い事を言い出たアスタに、エリンは困惑する。
第一、この屋敷を好き勝手に使っていい権利なんて、エリンは持ち合わせていない。
それに、自分がギルドを仕切るだなんて、夢にも思わなかった。
渋っているエリンに、ロニスは追い風を吹かせる。
「それ、いいね!きっとうまく行くよ!私、明日ギルドを手伝ってくれそうな子に声かけてくるわ!ルネと、モルダー、ミレーユ、ミッシェルあたりかな?」
ロニスの両親が他界した今では、屋敷の所有は、アスタ、ノエル、に委ねられているが、それもロニスが大人になるまでの話だ。
しかし、当の本人も良しと言い、先生達まで太鼓判を押し始めた事で、エリンは完全に逃げ道を閉ざされる。
「ちょ、ちょっと!待ってよ!私がどうしてそこまで推されてるのか、全然分からないんだけど?!」
己の器量をはっきりと理解していない様なエリンに、ノエルは一つ、問いを出す事にした。
「エリン、ここ数年、森の生態系が少し乱れ始めているのは知っているね?」
「もちろんです、魔物の数が増えて、町の人々も対処が遅れつつあるし...確かにギルドがあればその問題も解決できるだろうけど...」
「原因は何だと思う?」
エリンはその問いに関する知識を、これまで読み漁った幾つもの書物の中から探る。
周辺の森が荒れる原因は幾つかあるが、ここで出した結論は、最も合理的で、推理めいたものであった。
「多分、”ドラゴン喰い”じゃないかな?最近ではこの手のドラゴン種の出没が報告されていないし、森喰い熊もいつもより数が多い様に感じる。それに、今日はスノードラゴンの目撃情報があったし、恐らく繁殖期に入ったんじゃないかな?私の考えが正しければ、もう数日の内に、気になってドラゴン喰いの巣穴を見に行った町の人が報告に来たりしてね...」
そんな事を言った矢先、鍵を掛けない風習の屋敷の戸が勢いよく開け放たれ、冷たい風がわっと入ってくる。
全員がその方に目をやると、そこには息も絶え絶え走って来たであろう、町の狩人が血相を変えて飛び込んできたではないか。
「た、大変だ!最近魔物の様子がおかしいと思って森に入ったら...ドラゴン喰いがいねえ!どうなってんだ!エリン!これは大変だぞ!」
その頭の回転の速さに、ロニスは目を輝かせる。
情報の鮮度も然ることながら、推測の域を出ない思考を、この狩人の登場によって、この場の全員が認めざる負えない物に昇華させたのだ。
ここまでの事を一瞬のうちにやってのけたのに、私はギルドを運営出来る人材では無いなどと口に出来るのは、流石に謙虚さが過ぎるというものだ。
ノエルはそれを本人に伝えないでは居られなかった。
「見てごらんなさい!自分が、何をしでかしたのかを!もうそんな志の低い事を言っては要られませんよ!もちろん、私も手伝うから、やって御覧なさいな!」
珍しく興奮を隠せない様子のノエルを見て、ロニスも期待を寄せている。
ここまで言われて、ようやく重い腰を上げるエリンは、何か言う前に、まず狩人を宥め家に帰らせた。
戸を閉めたところで、やっと口を開く。
「...わかったわ。やってみる。でも、やるからには徹底的によ!アスタ先生、この屋敷、本当に好きにしていいのよね?」
アスタは待ってましたと言わんばかりに、財布をテーブルに叩きつける。
「あぁ、当たり前だ!必要な物があったら何でも揃えてやるぞ!」
その言葉を聞いたエリンは、これまでの不安そうな装いから一遍、何か悪だくみをする少年の様な表情へ変わって行った。
ロニスはとても心がときめいて、これから起こる予想も出来ない様な展開を想像しないなんて、ありえない事だった。
その思いが通じたのか、何と調子のいい事だろう、ノエルはその手の話題を切り出す絶好の機会を計っていた。
「盛り上がってる所悪いんだけどね、実は、この出来事にはもう一つ原因がある様なのよ...」
ノエルはどのタイミングで話そうか、頃合いを伺っていた話題を遂に出すことにした。
それは、ある種、ロニスの望んでいた、予想も出来ない様な展開であった。
エリンは自分の推理に何か不備があったのでは、と再び心配になって口を開く。
「もう一つ?全く分からないわ?それは何なの?」
「エリンが分からないのも無理はない。その原因というのはね、”魔王”の命が尽きた事にあるのよ。」
アスタは少々顔をしかめたが、若い二人にとっては聞いた事のない単語だ。
真っ先に質問したのはロニスだった。
「魔王?それは何なの?」
エリンも自分の知識範囲外の物に興味を示す。
「魔王?に関する文献なんて見たこともないわ。何かの王様?」
「魔王というのは、魔物を統べる者の事よ。文献が無いのは、それが記させている書物は、この世に一冊しかないから。」
話を聞いてもなお、魔王とは何なのか、さっぱり分からない。
ノエルは質問攻めにあう事を承知の上だ。
先に質問するのは、やはりロニスだ。
「何で本が一冊しかないの?」
「写本が出来ないくらい、厳重に守られているのよ。誰も何処にあるのか知らない。魔王に相応しい人物が現れた時、その本は現れるとされているわ。」
そこまで情報が出た時、エリンは少し踏み込んだ質問を投げかける。
「じゃあ、その魔王が居なくなったのと、生態系が崩れるのには、なんの関係があるの?」
「いい質問だね。それは、魔王が魔物を統べる者だからさ。魔王は魔物の生態エネルギーを全てコントロール出来るとされている。魔物の秩序が保たれているのはそのお陰だろうと考えられているのよ。」
何か質問したいが、あまりいい言葉が出てこず、ロニスはこれだけ聞く事にする。
「それじゃあ魔王はいい人?」
「どうだろうね。私は会った事は無いけどね、アスタはあるかい?」
「...私もないなぁ。そんな機会があるなら、是非一度、手合わせ願いたいものだ。」
誰も会ったことのない魔王という存在に、ロニスは旅の目的が一つ増えた気がした。
なら自分がその魔王とやらについて調べてみようではないか、と意気込みを伝える。
「じゃあ、私が会ってくるわ!魔王と友達になって見せる!」
その言葉に触発されたのか、エリンも意思を固める為に大きな声を出す。
「随分頼もしい返事ね!ロニーを見ていたら私も頑張れる気がして来たわ!ノエル先生!ギルドの書類、お願い出来るかしら?」
「その調子だよ、任せておきな!ギルドの名前は自分で考えておくんだよ!」
「名前か...ロニー、何がいいと思う?」
「私に聞くの?!こういうのはエリンの方が得意でしょ!?」
和やかな会話の中、新米冒険者とギルドマスターが同時に決意を固めた。
この屋敷では、そんな事は日常茶飯事なので、誰も気にする事はない。
食後のチョコケーキと紅茶の相性は抜群だった。
2月1日
2月初めにしては珍しく、雲一つない晴天で、朝でも日の温もりを感じる。
遠くを見渡しても、今日一日晴れるだろうというのが良く分かる。
この日の為に改装された屋敷は、これから長きに渡り多くの冒険者の支えとなるが、今はまだ、家族を一つに繋げる役目を全うしている。
皆は暖炉の傍に集まり、本日の主役に贈り物を渡そうとしていた。
エリンはこのギルドを取り仕切る上で、大切な物をロニスにプレゼントする様だ。
「ロニー!目隠しを外して!」
エリンが手に持っていたのは、薄い鉄で作られた、フランのギルドカードだった。
表面には「雪樹のエルフ」の文字と共に、ロニスの名前と、綺麗な雪の森中にエルフが佇む細かい彫装飾が施されている。
裏面には細かい文字が、右から左へびっしりと詰まっており、魔方陣の体をなしている。
ギルドカードに魔方陣を刻み込めるのは、資金が潤沢であるか、名高い魔法使いがいるかのどちらかだが、この屋敷はどちらの条件も満たしている。
「これはギルドカードよ!ロニーが何処に行ったとしても、このカードがきっと、あなたを導いてくれるわ。私はいつでもここで待ってるから!」
裏側の魔方陣には、魔力を込めると、その者が進むべき道を示してくれる。
心細くなった時でも、このギルドカードを見れば、エリンとの繋がりを感じる事が出来る。
「エリン...ありがとう。いつか必ず帰ってくるわ!約束する!」
「ふふ!絶対よ!」
エリンは少し涙ぐんでいたが、ロニスは何も言わなかった。
もうお姉さんになったのだ。
ロニスがギルドカードを照らしながら、美しさに見入っていると、小さな宝石が一つ埋め込まれているのに気が付いたが、アスタが背中にプレゼントを隠しながらにじり寄って来たので、そちらに注目する。
アスタはこの時の為に、かなり前から準備を進めてきた様で、その顔からは自信が垣間見える。
「ロニー!誕生日おめでとう。私からは、この剣だ。」
アスタが渡したそのロングソードは、鞘から抜くと、銀色ではなくやや黒ずんだ、煤を被った様な色をしている。
刀身は、どの様な材質を使っているのか、異様に重い。
しかし、その重さは装備者を振り回す様なものではなく、熟練者ならば十分に生かし切る事が可能な範囲である。
ロニスがそれを手に取ると、扱いやすさは木刀の比ではなかった。
「これ...凄いよ!とっても使いやすい!自分の身体の一部みたいよ!ありがとう!アスタ先生!」
その言葉を聞いたアスタは、得意げに説明を始める。
「この剣はな、昔から私が使っていた剣の鉄を混ぜて作って貰ったんだ。私は昔から魔法が使えないのでな。ここまで剣に生かされてきた。鍛冶屋に言わせると、これ程魔法に耐え抜いた鉄は珍しいそうだ。普通は直ぐにダメになるらしいんだが、このレベルの鉄を混ぜて打った剣は、魔法に強い耐性を付けると同時に、魔法を使いやすくなるらしいぞ!」
「長くてあんまり何言ってるか分からなかったけど、魔法が使いやすくなるんだね!」
「...本当によく似合っているよ、ロニス、エリックにも見せてやりたかったなぁ...」
「え?何か言った?」
「いいや、思う存分暴れてきてくれ!」
「うん!」
得意になって剣に魔法をかけるロニスに、大トリであるノエルがミトンをして、大鍋を運んでくる。
鍋の底は赤くなるまで熱せられ、中身は少し動いている様な挙動を見せる。
いったい何が入っているというのだろう。
ロニスは目が離せなかった。
「これは?」
「これが私からのプレゼントよ!さ!開けてみて!」
ミトンを手渡されたロニスは、恐る恐る蓋を取ると、そこには20cm程の白く輝く灼熱の卵があった。
これから魔法の手順でも説明するかの様に早口になって、ロニスに指示を出す。
「さあ!卵に手を翳して!包み込むように魔力を流すのよ!優しくね!」
時間が無いと急かす様な物言いに、ロニスは少し動揺しながらも、言われた通り手を翳す。
その途端、鍋全体を包み込む程の業火が辺りを照らし出す。
エリンは炎の先が微かに青白くなっているのを見たが、次の瞬間には卵の方に目を向けていた。
卵に亀裂が入り始めたのだ。
炎はゆっくり収束し、皆が生命の誕生を待ち侘びている。
殻に、一つ、又一つと亀裂が入る度、期待が高まる。
遂に、殻が二つに割れた時、中から姿を現したのは、赤い身体を持った小さなドラゴンであったが、数秒もしないうちに、全身を白い光沢が覆う。
ロニスはそのドラゴンを生物図鑑の中で見たことがあった。
「これってまさか...」
きっと喜んでくれるであろうと用意したプレゼントに、ノエルは口角を上げる。
「そう、スノードラゴンさ。」
その小さなドラゴンは、欠伸とド叔父に火の粉を吐いた。
「コフっ...」
ロニスをじっと見つめた後、すぐに丸くなって眠ってしまった。
殻はまだ鍋の中にあり、揺れ動く尻尾に合わせてカラカラと音を立てている。
「寝ちゃった...」
その様子を見ていたエリンはドラゴンの生態について、分からない事があるようだ。
「ドラゴンってあんまり見たことないんだけど、最初は皆こんな感じなの?」
「いいや、普通は抱き着いていたり、よく鳴き声を上げたりするんだけどねぇ...」
ロニスがドラゴンを撫でると、それはまだ触れる程の温度ではなく、少し困った顔になる。
「この子、マイペースなのね...」
中々扱いに苦戦していると、アスタは素手で何事もないかの様に撫でながら、ロニスに話を振る。
「まぁ、そんなドラゴンが居てもいいじゃないか!ロニー、この子と一緒に旅をするのか?」
ロニスは自分が親になる事に、一抹の不安を抱いていた。
ドラゴンという生き物は、いい親が居ないと厳しい世界の中を生き抜く事は出来ない。
その資格が自分にあるのか、まだ測りかねているのだ。
「...」
良い答えが見当たらないロニスに、偉大な魔女は勇気を与える事にする。
「悩んでいるのかい?大丈夫よ。きっとうまくやれるわ!それに、あなたは親になる必要なんてないの。対等なパートナーとして、共に成長して欲しいと私は思うわ。」
優しく手を取りながら、親身になって話をするノエルに、ロニスは心の内を曝け出すことにした。
「私ね、凄く嬉しいのよ。もうこれから、どうやって強くしようか考えが止まらくらい!でも、この子はどう思っているのかしら?私はよく思われてるのかな?」
いつも自分のやりたい方向に走る性格の子が、今日ばかりはこんな質問を投げかけてくる。
その瞬間に立ち会えた事に、どこか切なさを感じながら、ノエルはそれでも真摯に回答を続ける。
「...今年の7月頃に、私の友達のチャーリーが来たのを覚えているかい?ドラゴン研究家なんだがね。この子は、実はその時からロニーにプレゼントしようと計画していたんだ。この子の両親は病気で亡くなってしまってね、似た境遇だからって、その時卵を置いて行ったんだ。チャーリーが何故そうしたか分かるかい?」
「うんん...」
「それはね、非常に稀な例だけど、子どもたちだけで生き残った事例があるからなんだ。とても力強く成長してね、傷が絶えなかったみたいだけど、それでも狩りの腕は一流以上だった。私はね、真に必要なのは、互いに研鑽しあえる関係だと思っているよ。この子と共に生きてやってくれるかい?」
ロニスは真剣なノエルの言葉に武者震いが止まらなかった。
魔物と共に行動する人間は少ないながら、人々に認知される程には存在している。
だが、ドラゴンと共になんて、聞いたことが無い。
それも卵から育てるなんて!
なんて、なんて、素敵なプレゼントでしょう!
こんな奇跡の出会いがあるなんて!名前は何がいいかしら!
「もちろん、もちろんよ!私がこの子を、世界で一番強いドラゴンにして見せるわ!!」
真剣に答えた甲斐があったのかどうかは分からないが、それでも淑女の心の琴線に触れる事が出来たと思う事にする。
「はは!ロニーならそう言ってくれると思っていたよ!」
一通りの贈り物を渡し終わった後、エリンにはその感傷に浸っている余裕は無く、直ぐに次の準備に取り掛からねばならない事を思い出した。
「しまった!もうこんな時間!私、ちょっと準備してくるから!皆は外で楽しんできて!」
焦るエリンを一人にしてやるべく、アスタは皆を外に連れ出す。
「分かった。それじゃあ行こうか。」
新米ドラゴンテイナーは、すっかり冷めた大鍋を揺り籠の様に持って、外に繰り出すのだった。
玄関を開けると、屋敷の敷地内は、昨日とは全く異なる様相になっていた。
一面に積もっていた雪の絨毯は、いつの間にか取り払われ、ほとんど見る事のない石畳が顔を出している。
各所にパーティ―用の装飾が施され、至る所に置かれたテーブルには、何処からともなく料理が運ばれてくる。
立食形式の様で、その場に居合わせた者なら、誰でも好きに食べていいという事らしい。
何という太っ腹だ。
町民以外にも、何と言う物なのか、名前も分からない装備を付けた冒険者や、おこぼれを狙う猫までも、納屋を出て様子を伺っている。
ロニスは生まれて初めて見る人だかりに、臆するどころか、目を輝かせている。
今日の内に、一体何人の友達が出来るのだろうか。
「わぁ!すごい!人がいっぱいね!」
ノエルもこんな光景は久しぶりの様で、アスタとの会話も花が咲く。
「フランにこれほど人が集まるのは何年ぶりだろうねぇ。」
「そうだな、だが、これからはもっと賑わうかもしれないな!」
「ふふ!そうなると、ここを離れるのも名残惜しく感じるね。」
「心配いらないさ、エリンがいるんだ。いつでも帰って来れるよ。」
孫連れの老夫婦は、懐かしむ思いで、その光景を目に焼き付ける。
足の進みが遅い二人に、ロニスはしびれを切らして、ぐいぐいと手を引いた。
「ねえねえ!二人とも!あれなに?あのテントで物を並べてる人!」
好奇心旺盛なロニスが指差す方向には、簡易的なタープと建て、その下に小奇麗な柄の絨毯を敷いた男が物をたくさん並べて、やってきた人々と会話をしている。
ロニスはもちろん買い物をした事があるが、それは顔の知れた者しか居ない、フランの中での話だ。
彼女には男のしている商売が、何だか不思議なものに思えて仕方ない。
そんな箱入り娘に育ててしまった事に、少しの罪悪感を覚えつつ、アスタは一緒に何か買う事にした。
「あれは旅の商人だ。各地を旅しながら色んな物を売ってる。せっかくだ、何か買おうか。」
「いいの?やった!」
三人は露店を物色し始める。
この町に来て、この三人を知らない者は居ないだろうから、商人はどうしたって親切だ。
「これはお揃いで!何か見て行かれますか?」
防寒着を着こんだ髭面の商人は、丁寧に接客を始める。
ロニスが目の前に置いてある、髪留め用の青い紐に気をやっていると、すかさず話題を持ってくる。
「お嬢さん、その髪留めが気に入りましたか?これは東洋からの土産物でして、女性に大変人気が御座います。きっとその髪型にもよくお似合いでしょうな!」
口の達者な商人に、ロニスは笑顔になって、アスタの顔を見つめる。
これで簡単に財布を出すので、ノエルは少し溜め息をついたのだった。
「全く、アスタ、こんな事でいいのですか?」
「まぁまぁ、今日くらいはいいじゃないか!そうだ、ロニー、商人とは仲良くしておくんだぞ。
この世界で一番物を知っているのは彼らだ。荷車を使う者がほとんどだから、常に優秀な護衛を探している。
道中、腕の立つ冒険者を必要としている筈だから、フランから発つ時は一緒に乗せてもらうといい。」
ノエルの小言から逃れる様に言った助言だが、ロニスはその知恵が使える物だと気に入ったらしい。
「分かったわ!それに、髪留めありがとう!アスタ先生!」
アスタはこれまでの月歳、ロニスを守り抜いた事に強い誇りを感じていた。
ノエルもしんみりとして、何とか話題を変えようと、大鍋に目をやった。
「その子の名前は決まったのか?まだなら私が決めても...」
「ダメ!もう決めてあるんだから!」
いつの間にか、鍋の中にあった殻は無くなっている。
噂通り、スノードラゴンは生まれて直ぐに殻を食べる様だ。
その様子を見て、ノエルも少し気になり始めた様だ。
「どんな名前なんだい?」
「まだ教えない!この子が起きた時に、ちゃんと伝えてあげたいんだ!」
なんという純粋な事だろうか。
如何に世間知らずに成ろうとも、この天使を生み出したのなら、もう何も言われまい。
ほんわかした空気を残しつつ、他の屋台に寄ってみんなで串焼きを食べるという時間を過ごしているが、一方、ギルドの準備をしているエリンは、最後の調整に精を出していた。
改装されたギルドは、家庭的な側面を一新し、一階から二階を吹き抜けに、鉄製の重厚感あふれるシャンデリアをぶら下げる事によって、開放感が溢れ出す。
暖炉は更に設備が整えられ、それに沿うようにカウンターが並ぶ。
ソファーは撤去されてしまったが、その代わりに、レストランめいたテーブルとイスが、メニューを添えられ、冒険者の腹を満たす準備をしている。
壁に掛けられた物は、全て二階に設けられた武器屋道具屋に提供された。
寂しくなった壁は、一面コルクボードに埋め尽くされ、「掲示板」と書かれた紙が一枚張られるばかりである。
その他の空き部屋は、広いスペースになる様、壁が取り払われ、『依頼受付』『依頼紹介』といった冒険者が集まる広間や、蔵書に囲まれて作戦会議が捗りそうな空間、個室をそのままに宿屋として機能させる一角も存在する。
働く嬢達は、ロニスが声をかけた事も関係しているが、多くはエリンのカリスマに引かれた者で構成されている。
「きゃあ!」
このギルドで一番背の高い、赤毛のボブヘアがトレードマークな嬢が、盛大に尻餅を着いた。
どうやら、制服の長いスカートに足を引っかけ、盛大にこけたらしい。
少し涙目になっている所にエリンが様子を見に来た。
ドアの入口に体重を預けながら話しかける。
「ルネ...書類をぶちまけるのは何回目かしら?」
焦りながら書類をかき集める姿は、傍から見たらエリンが苛めている様に見えてしまうが、周りはもう見慣れた風な態度で各自の仕事に戻る。
「ご、ごめんなさい!このスカート長くて...」
「すぐ慣れるわ!頑張って!」
激励をさせたルネは、ギルドマスターの動きやすそうなジーンズを見て、納得が行かない様子だ。
「私もエリンさんみたいにズボンがいいんですけど...」
「それはダメよ!あなたはこのギルドで一番スカートが似合うんだから!
看板娘になって貰わないと困るわ!ほら!立って!」
エリンはすかさず、ルネに手を差し出す。
経験のないルネにとって、それはまさに、王子様の姿そのままだった。
「は、はい!(看板娘だなんて...♡)」
事が済むとさっさと他に行ってしまうプリンスを、ルネはずっと目で追っている。
遠巻きに見ていた3人組の嬢は、こそこそ話に花を咲かせる。
「エリンさん、ルネにも毎回あんな気遣いをするなんて凄いわ!」
「私、明日からお姉さまって呼ぶことにするわ...」
「え、なにそれ、ずるい...」
各所に指示を飛ばしながら、エリンがこちらに歩いてくる。
何か内緒話をしている嬢にエリンは進捗を訪ねる。
「モル、ミーユ、ミシェル!カウンターの掃除は終わったかしら?」
「「「はい!お姉さま!」」」
「...あ、っそう...」
エリンは静かにその場を後にした。
ロニスと先生達が楽しく町を散策している時、屋敷の方から一発の花火が上がった。
この合図は、エリンがギルドの準備が出来たら打ち上げると言っていた物で、新設セレモニーがもう間もなく始まると知らせる為の物だ。
やっと始まる冒険に、一同は気合が入る。
エリンはギルドの玄関前に特設の、と言っても簡素な木箱を積んだだけだが、台の上に乗り、大勢の視線が集中する中でも、毅然とした振る舞いで幕を上げる。
「皆さん!フラン特殊環境ギルド、雪樹のエルフへようこそ!
今日からフランの町が更なる発展を遂げられるよう、精進して参ります!みんな!よろしく!」
飛びぬけて明るい挨拶に、周りからは疎らに拍手が起こる。
そんな事は意に介さず、エリンは自分のペースで話を進める。
「私は雪樹のエルフのギルドマスター、エリンです!
自己紹介をしたいところだけど、ちょっと時間が無いから割愛させて!
それじゃあ本題!
この町、フランは雪が多くて特殊な環境だ。いわゆる豪雪地帯ってヤツだね。
特殊環境ギルドでは、普段の冒険者ランクは使えない。皆ランク3から!」
ここまでの説明は、此処にいる者なら誰もが知っている知識だ。
冒険者ランクとは、下から3、2、1と別れているが、特殊な環境になると、そのギルドでしか適応されないランクを使用する。
これは冒険者がその環境に上手く適応出来ているかを見極める物であり、犬死を避ける意味合いもある。
フランでは、ランクごとにギルドカードに埋め込まれている宝石の色で階級を判別する事が出来る。
よって、此処にいる冒険者は皆、最低のランク3からスタート、という事になるのだが、エリンは特殊環境ならではの、何ともスリリングな提案を持ちかける。
「今日は初日という事もあって、実力ある者はじゃんじゃんランクを上げて貰いたい!
その為に、特別緊急依頼を用意しました!
最近フラン周辺の森で、”森喰い熊”の被害が深刻になっているのは知っているかしら?
多様な魔物が生息する森でも、かなり狂暴な部類よ!
これを討伐した者には、なんと、ランク1のギルドカードをプレゼント!」
エリンの発表に周囲はざわつき始めた。
無理もない。
慣れない極寒の中、死人の出る危険さえある依頼に、おいそれと駆け出す何て事は、普通の冒険者なら絶対にしない。
環境への理解を深め、情報を集めつつ、簡単な依頼からこなしていくのが暗黙の了解だ。
一歩間違えれば、森から抜け出すことも危ぶまれる状況に、即座に判断を下せる者など存在しない。
だが、エリンはそれでも笑顔を絶やさない。
先程まで最前列にて、串焼きを頬張っていたロニスが、一直線に森へ駆けていく様子を見たからだ。
その他にも何組かが出発の準備をしているが、そのどれもが、正気を疑う様な目でロニスを見送った。
「この特別緊急依頼は10日後まで完了報告を受け付けてるからね!
もちろん、その他の依頼もあるから無茶な事はしないように!
ギルドの最初の仕事が死体の処理なんて勘弁なんだから!
しっかりと準備をしてから森の中に入ってね!
これでギルドからの挨拶は終わり!冬の篝火を絶やさぬように!以上!解散!
あ!ギルド入会の人は、ルネから書類を受け取ってね!ルネ、皆に配って!」
そう紹介された看板娘は、過緊張であった。
このあとの展開は、誰しも予想が付くだろう。
「は、はい!」
声を張って返事をしたところまでは良かったが、玄関の階段を、一歩目で盛大に踏み外し、又しても書類をぶちまけるのであった。
「きゃああああ!!!」
「はぁ......ルネ...」
初日の入会者は圧倒的に男が多かったそうだ。
森の風景にそぐわない、大きな鍋を持った新米冒険者は、雪の深い森の中を進んでいた。
木々がかなり近い間隔で乱立している森は、人間にとっては死角が多く、行動するにも少人数でなければ厳しいが、幼い頃から犬の様に活発だった者にとっては、障害物競走の様な愉快な代物だ。
普通に歩いていたら膝下まで埋まってしまいそうな、深い雪の中を行くには、様々な方法が考えられる。
その中でも一番に森を駆け抜けられる方法は、地面に足を着ける際に、点ではなく面で着く事だ。
そうすれば意外にも、雪に足を取られずに進むことが出来る。
ロニスは更に、魔法を駆使する事によって、地面を走る時と何ら変わらずに行動する事を可能にしている。
その魔法とは、目に見える全ての雪上を自分の足裏が着く着地点と捉えるイメージだ。
これは本当に、末恐ろしいまでの才能だ。
幾ら犬の様に駆けられるからといって、熟練の者でも豪雪の天災を前に、恐れを完全に消し去る事など出来はしない。
必ず何処かで、雪の真の恐怖を味わう事になる。
それはロニスも例外ではない。
にも関わらず、彼女の魔法は途切れる事を知らなかった。
既に2時間は走ったであろうか。
流石のロニスも、息が上がり身体から馬の様に蒸気を放っている。
あまりに寒い環境だとよくある事だ。
辺りを観察すると、爪の後がはっきりと刻まれている木や、大口で齧った様な痕、木片の散らばりが多く目につく。
更にしばらく進んだロニスは突然足を止め、木陰に身を隠す。
異様な気配を感じ、小さなドラゴンも鍋からひょこっと顔を覗かせる。
偶然一直線に視線が抜ける景色の約3kmの所に、怪しげな二人組が武器を持っているの姿が見えた。
「密猟者だ。」
完全に気配を消したロニスを、密猟者達が感知する事は到底ないが、密猟者達を感知する何かは、段々と近づいている。
「おい、止まれ。これを見ろ。」
男が発見したものは、森の中に突如開けた空間だった。
木は根こそぎ引き抜かれており、雪は固く踏みしめられている。
共食いをしたのであろう、本来は肉食ではない性質が影響しているのか、残骸が辺りに散らばって周囲を真っ赤に染め上げる。
勇逸幸いな事は、寒すぎて虫が湧かない事ぐらいなものであろう。
密猟者の女はやっとの思いで雪の中を歩いてきた様で、少しばかり達成感があるらしい。
「酷い有様ね。でも、やっとお目当ての場所に着いたみたい。後は獲物を待つだけよ。」
女は荷物から、怪しげな薬の瓶を取り出す。
男は持っている弓矢を準備し、その薬を矢の先端に塗り込んだ。
二人は木の上まで登り、近づきつつある気配の方角に目を凝らす。
一歩踏みだす毎に伝わる振動が、二人を本能的に遠ざけようとするが、密猟者は震える足でなお弓を構え始める。
遂に視界に捉えた森喰い熊は、とんでもない程の大きさだった。
”でかい”という言葉がそれを表すにはあまりに貧弱な気さえ湧いてくる。
ロニスもあまりの体長に思わず口を押えずにはいられなかった。
直感的に、ああ、あの二人は死ぬ、と悟る。
「ね、ねぇ...森喰い熊ってこんな大きさだっけ...精々4mくらいじゃないの?」
「じゃあコイツは飛んだ大物だな!見てろよ...この薬があればあんな奴でも卒倒さ。」
逃げた方がいいんじゃないか、と女が提案しようとしていたその時、男は迷いなく矢を放つ。
その矢は完全に熊の意識外、まず防ぎようがない一撃だ。
まもなく矢が肉を貫く音が聞こえてくるだろう、と確信した男が耳にしたのは、キンッという甲高い音と共に矢が折れる様だった。
女はこんな男に着いてきてしまった事を後悔し始めた。
ちょっと顔がいいからって、ちょっと夜の扱いが上手いからって、面白そうな儲け話何かに耳を貸すべきではなかったのだ。
男が茫然と、今の状況を理解出来ないでいると、いつの間にか、熊は二人が昇っている木の真下まで到達している。
女は即座に飛び降りたが、男は判断が鈍り、木にしがみついてしまう。
飛び降り様に男の、置いて行かないでくれ、という情けない顔が見えた時にはもう遅かった。
熊は木に張り手を飛ばすと、衝撃を受けた箇所は、跡形も無く弾け飛んだ。
おおよそ木から出たとは思えぬ爆裂音と共に、男はそのまま木に潰されて絶命した。
男の血が女の方にまで流れてきて、もう足は立たず、完全に錯乱している。
ロニスからは木が邪魔して見えなくなってしまったが、何か叫んでいる事だけは分かる。
「いや...た、助けて...なによ...来ないで!クソ!嫌だ!ああ!」
その後聞こえてきたのは、無残にも肉塊が弾け飛ぶ音だった。
倒した木を貪り喰って満足したのか、熊は雄たけびを上げる。
ロニスはじっと見つめているドラゴンを、優しく撫でながら、何処か小悪魔のような笑顔で、独り言のように話し始める。
「凄いでしょ。これが森喰い熊よ。大丈夫、私は必ずやり遂げるわ。だから約束して欲しいの。上手く行ったら私に、あなたの名前を付けさせて」
笑顔でウィンクをしたかと思うと、彼の縄張りまで一気に駆け出した。
熊はもちろんそれを見逃す筈は無く、ロニスが向かってくる方角の木を破裂させ、視野を無視やり確保する。
鍋を少し安定した場所に置くと、ロニスはようやく熊と対峙する。
体長は、密猟者の目算通り10mはありそうだ。
全身は鋼の様な質感の体毛に覆われ、どす黒く日光を反射している。
矢を弾いた事はまぐれではなさそうだ。
爪は30cm程だが、掌の筋肉量が尋常ではない。
いよいよ始まるかという時、熊が大きな咆哮を上げる。
ロニスはそれに怯むことなく、一息にして距離を縮め、腹から剣を突き刺した。
それは弓矢より早く正確な一撃だったが、その程度では熊は止まらない。
絶対的な暴力が、勇敢な冒険者を打ち砕こうとする一瞬の間に、閃光が辺りを包み、轟音が鳴り響いた。
それは木の爆裂音より更に、数段大きく、空間を振るわす程のものだ。
閃光が止み、やっと辺りが鮮明に見えてくる時、この者と切磋琢磨していこうと言うドラゴンは、そう判断するに余りある光景を目の当たりにする。
森喰い熊の巨体は、頭部と手足の爪数本のみ。
地面を覆いつくしていた雪は疎か、その下の地面まで焼け焦げている。
周囲に散らばった木片は、熊が破裂させた物ではないという証拠に、全てが炭化して焦げ臭い匂いが十万している。
これは一体、何が起こったというのか。
一瞬にして熊を消し去ったのだ。
それ程までに強力な魔法を使用した当の本人は、ギルドに提出する両耳がまだちゃんと残っているのかを、確認する余裕さえ見せている。
ドラゴンは堪らずロニスの元に走り出し、目の前で小さく火の粉を吐いて見せた。
可愛い仕草に、ロニスは不敵な笑みを浮かべて問いかける。
「どうだった?雷を再現してみたのよ!私の事、パートナーにする気になった?」
ドラゴンは自分の尻尾をぺちぺちと地面に打ち付けて意思を伝える。
「そう!じゃあこれからよろしくね!ポート!」
己の名前を聞いたポートは、満足したのか、ロニスの肩に乗る。
尻尾を首に巻き付けて、安心した表情を作り、そのまま眠りに付いた。
日没まであと30分、日中よりも軽やかな足取りで走る。
空鍋を下げた冒険者は、相棒のポートと共に、ギルドへ帰還するのであった。
ギルドの戸を開けると、そこには、ロニスが夢にまで見た光景が広がっていた。
明るいシャンデリアの元で、冒険者達がテーブルを囲って陽気に酒を煽り、揚げ物の匂いを漂わせながら次々に料理が運ばれる。
自分の知っている屋敷の筈なのに、今まで味わったことのない、ギルドがそこにはあった。
わくわくする様な、寂しい様な、不思議な感覚がロニスを包む。
何をどうしたらいいのか分からず、茫然と立ち尽くしていると、通りがかりのエリンが見つけて声をかける。
その手には、ビール入りの樽ジョッキが握られ、とても楽しそうだ。
「ロニー!おかえり!こっちにおいで!」
一緒に開いてるカウンターに座る。
エリンが厨房に立つルネに合図を送ると、手早くステーキが出てくる。
エリンは得意げだ。
「どう?森喰い熊は討伐出来た?」
頬杖を突きながら笑いかけてくるマスターに、ロニスは誇らしげに答えた。
「もちろんよ!ほら!両耳持って来たわ!」
しっかり血抜きされていて、珍味としての下処理という点でみる分には完璧だった。
「完璧ね!確かに森喰い熊の耳だわ!日中はただの木喰い熊の耳を森喰いだって言い張る残念な冒険者も居たけど、やっぱりロニスが一番!偉いわ!」
そう言いながら頭をわしゃわしゃして、足を組み始める。
ロニスは、そんな少し崩れたエリンの事が大好きだった。
「本当?私が一番最初なの?」
「疑ってるの?いいわ!私のロニーが一番だって皆に証明してやるんだから!」
エリンはいきなりイスの上に立ち上がり、大声で叫び始めた。
「みんな!この中に!ランク1になった人はいるぅ?!」
冒険者達は威勢よくマスターの掛け声に合わせる。
「「いませ~ん!」」
「なんと!いままさに!ウチのロニーが!ランク1になりました!かんぱ~い!!」
「「かんぱ~い!」」
至る所で樽がぶつかる音がする。
何という最高の雰囲気でしょう。
こんなに大勢の前で自分が一番だと高らかに祝われる日が来るなんて!
「ロニーも飲みなよ!ミシェル!ロニーにお酒!持ってきて!」
そんなに酔いが回ったのだろうか。
エリンは突拍子もない事を口走り始める。
15歳で成人として認められると言っても、まだこの段階では酒は飲ませない事が肝要だ。
ロニスが少し不安がっていると、後ろからミシェルが声をかける。
励まそうとしてくれているみたいだ。
「大丈夫よロニー。薄くしといたから♡初めてでも酔ったりしないわ♡」
ミシェルはこういう場に慣れているのだろう。
ゆるふわな茶髪と可愛らしい童顔の為、男の冒険者の視線を集めているが、その実、狩りをしているのは彼女の方らしいという噂をよく耳にする。
だか、このような場に於いては、心強い味方になってくれる事間違いなしだ。
ロニスは初めての酒を一口含む。
それは甘い味がして、その後に今まで飲んだどの飲み物にも当てはまらない変な感覚が頭の中を駆け巡る。
何だかほわほわする様で、悪い感じはしなかった。
思わず襲いたくなってしまう様な甘い表情をするロニスに、エリンは話も弾む。
「これで、晴れてロニーもランク1冒険者ね!でも私はそれを見越して、もうロニーのギルドカードはランク1仕様にしてあるの!」
ロニスがギルドカードを取り出すと、エリンはそれを光に翳すように言う。
言われた通りにカードをシャンデリアの方に向けると、カードの真ん中には小さく白い宝石が埋め込まれている。
「このギルドでは、宝石の色でランクが分かるって話はしたわよね?ランク1は白色、本当に雪原を理解いしている証なの。
これでやっと、私もあなたを何処に出しても恥ずかしくない子に仕上げられた気がするわ!
このステーキを食べたらアスタ先生の所に行きな!
広場で待ってるって!」
矢継ぎ早にそう言い残すと、エリンはまだ用事があるのか、ふらふらしながら何処かへ行ってしまった。
少しの休息をとって、最後の一切れをポートに上げると、ロニスは再び外に出る準備をする。
アスタがいる広場は、町外れにあり、のんびり綺麗な星空を眺める事が出来る。
夏は一面芝生に覆われるが、冬は枯草の上に心地よいサラサラな雪が積もる。
寝転がると最高に気持ちいい。
郊外なので、偶に魔物が出る事もあるが、アスタが広場にいる時は、何故か魔物が姿を見せる事はない。
彼は何か重大な決断をする時や、悩み事がある時は必ずここに足を運ぶ。
一人で素振りをしながら、深く考え事に集中するのである。
直近で、アスタが広場から帰った翌日はノエルの誕生日であった。
「アスタ先生?」
「...ああ、ロニーか、待っていたよ。こっちに座りなさい。」
妙に改まった態度で、夜空を眺めているアスタは、少し恰好良く見える。
いつもは素振りをしているアスタは、何故だか今日は座っていて、ロニスを隣に呼び込んだ。
何かあるのは間違いないのだが、それを聞く事はしない。
一人で考え込むのがここでの暗黙のルールなのだ。
「...私、森喰い熊を倒してきて来たんだよ!派手にやり過ぎちゃって肉は取れなかったけど...」
雰囲気は悪くなかったが、今日の出来事を少し話したい気持ちが勝って、冒険譚を語るロニスに、アスタは少し冷たい様子だ。
「そんな事気にするな、その子と仲良くする為にやった事なんだろう?分かっているさ。」
気持ちの入っていない様な返答に、ロニスはやっぱり聞かない方が無礼な気がして、アスタの悩みを引き出す事にする。
「先生?どうしたの?そんな真剣な顔しちゃって。そんなに深刻な事があるの?」
「あぁ、どうしても決心のつかない事があってな。」
そう言いながら、心無くポートを撫でる様子に、ロニスは不信感を覚える。
一体アスタは何を考えているのだろうか。
「なに?」
「世界で一番大事な物を手放す決心だ。」
ロニスにはそれが何の事を指しているのか分からなかった。
どんな物なのだろう、そればかりが頭を巡る。
「大事な物って、何?」
「...」
「先生?」
やっと重くなりつつある口を開く。
言葉の一つ一つに得体の知れない深みが追加される。
「...明日の朝、旅立つんだろう?」
「うん。」
「その前に、またここに来てくれないか。最後に...本気で勝負がしたいんだ。」
そう言ったアスタの顔は、まるで青年の様な純粋さを孕んでいる。
いつも手を抜かれていると感じていたロニスは、ここぞとばかりにその提案を受ける。
「先生そんな事で悩んでいたの?もちろん良いに決まっているじゃない!明日の日の出と共にここに来るから!最後に、絶対一撃入れてやるんだから!」
ロニスにはその意味が分かっているのだろうか。
何処までも無邪気な笑顔をアスタに向けている。
何も恐れていない様な、無垢な笑顔を作りだしたのは、紛れもなく自分だ。
しかし、これからこの子が辿る道を考えれば、それは、何よりもロニスの為にならない事は、アスタには痛い程理解出来る。
何を恐れているのだろう。
この老いぼれには、もう怖い物なんて存在しないじゃないか。
そう言い聞かせ、アスタは心に再び、かつての闘志を宿す。
立ち去ろうとするロニスに、とっさに声をかけたところで、アスタの気迫は、フィナーレを飾るに相応しい物に変貌する。
「ちょっと待ってくれ。」
「どうしたの?」
ロニスはどこまでも純粋だ。
心を開いてはいけない。
「今にしよう」
アスタはおもむろに、帯刀していた剣を鞘から引き抜く。
久しぶりに使うであろう真剣は、新しい物を調達した様で、どこもかしこも新品、新人冒険者の様だ。
だが、その剣を中段に構えている相手は、先程までの優しい面影を捨て去った、一人の剣鬼であった。
その姿に、近くで聞こえていた筈の鳥のさえずりは消え、空気が揺らいでいるのではないかと見紛う錯覚を覚える。
ロニスはただただ嬉しかった。
未だ本気で相手をしてくれなかったアスタが、今日だけは真剣に相手をすると言っているのだ。
こんなチャンスは、これから先一生無いかもしれない。
いつもは剣術だけで戦っているが、今日は魔法も出し惜しみは無しだ。
「ロニス、構えるんだ。」
「分かったわ!私、ずっとこの時を待っていたの!やっと決心を着けてくれて、本当に嬉しい!
今までの稽古では魔法は使わなかったけど、今日は私も本気で行くよ!」
「...好きにしたらいい。」
ロニスはいつもと違うアスタに、震えが止まらない。
これは武者震いなのだろうか。
「!!ポート、下がってるんだ。君も危ないかもしれない。」
ポートも自分に向けられる殺気を感じられない程鈍感ではない。
15m程と自ら離れたが、それでは足りないと判断して、更に5m後ろにある木に身を隠す。
それでも、いつにも増して興味を示している様で、顔は前のめりになっている。
「それじゃあ、行くぞ。」
ロニスが同じく中段に構えた瞬間に、アスタはすでにロニスの目の前で、左腕を切り落とさんとしていた。
ロニス「え...」
アスタの剣が左肩に到達する寸前で、ロニスは状況をやっと理解し、身体を半身にして躱す。
深く振り下ろされた剣は、ロニスが視認できないスピードで右脇腹を襲う。
やっとの思いで大きく飛びのいたロニスは、上手く避けたと思っていた左肩と右脇腹から出血している事に戦慄する。
アスタが踏み込んだ場所からは、白い煙が上がり、後から風圧が体を後ろに押し流す。
アスタの剣、ここまで早いものだとは想像もしていなかった。
二撃目をいつも使っている技と踏んで飛びのかなかったなら、今頃自分の胴体は真っ二つになっていただろう。
こんなに本気でアスタと戦いたいと願っていた筈なのに。
いざ自分が親しい人間によって殺されかけている現実を目の当たりにすると、可笑しな気分になってくる。
表情は笑っているが、それ以外の顔が出来ないだけだ。
目には何故か涙が溜まり、声を出そうとしても、掠れ声を出すのが精いっぱいだ。
身体も少ししか動かしていない筈なのに、足がつま先から痺れている。
こんな筈じゃなかったのに。
「どうした、魔法を使うんじゃなかったのか?それとももう諦めたのか?」
アスタの声も、数秒間聞いていなかっただけなのに、久しぶりに耳にした気さえする。
何が起こっているんだろう。
「俺なら魔法を使う前に腕を切り落とす。ノエルは剣士有利と言われていた中でも、最後まで魔法一筋で戦って来たんだ。
さあ、構えろ!お前はノエルの顔に泥を塗るつもりか!」
その言葉を聞いて、やっと闘志に火が付いたロニスは、眼光鋭く、アスタを迎え撃つ作戦が頭に降臨する。
怖くて息もままならないのに、この思いは何処からやってくるのだろう。
一世一代の賭けに、ロニスは何とか一矢報いてやろうと、やっと決心が付いた様だ。
「ごめん。もう大丈夫だから。」
ロニスは左手を前に出し、目を瞑る。
自らの周りに、魔法で炎の渦を作り始めたのだ。
それが何であれ、アスタの取る行動は、魔法ごと切り伏せる事以外にない。
「お前の発動速度は遅すぎる!ノエルはもっと速かったぞ!」
左から水平に切りかかるアスタに、ロニスは自分が察知出来る気配よりも早く、炎の出力を上げてアスタを遠ざける事に成功した。
手の出しようがなくなったアスタを尻目に、ロニスはどんどん火力を上げる。
その火柱は、当に木々と遜色のない高さまで成長し、周りの雪や森を焼き尽くさんとする勢いだ。
それでも機を狙うアスタは、全く動じることなく、剣を上段に構え直す。
炎が揺らぎを見せた瞬間、アスタはこれまで以上のスピードで切りかかる。
その太刀が火柱に触れようとした時、これまでの炎は嘘の様に消え去り、更なる熱波がアスタを吹き飛ぼした。
その衝撃で、彼の両手は焼け爛れたが、剣を握るのに問題無しと判断すると、姿を現したロニスを注意深く観察する。
一般人なら自身の怪我の程度に絶望する所だが、その切り替えの早さは驚嘆に値する。
何が来ようと動じないつもりのアスタだったが、突然現れたロニスの優美な姿に心を奪われる。
彼女の服装が、先程までとは、まるで別人の様に違っていたのだ。
それは、その歳で纏うには若すぎる印象を与える、半透明で、青い、ウェディングドレスだったのだ。
こんな物を何処で調達したのか。いいや、魔法で仕立てたに違いないが、モデルはまさか、いつの日か一緒に参列した結婚式の新婦の物だろうか。はたまた、彼女の部屋に保管しているアルバムの、母親の姿だろうか。
ロニスは、目の色が変わったアスタとの距離を一気に詰め、鍔迫り合いに持ち込む。
アスタはそれには応じず、弾き飛ばした所で再び距離を取り、防御の体制をとりながら、異変に気付く。
先の一瞬で触れた剣の面積が、赤熱し溶け落ちているのだ。
中段に構え直すアスタは、更に考えを巡らせる。
「...燃えているのか?」
今になって、木が燃えたのではない、別の焦げた匂いが流れ着き、アスタの思考を加速させる。
ノエルも炎魔法は得意であったが、ロニスが身に着けている物が、もし炎だとしたら、その様な青い炎を出現させる魔法使いとは対峙したことが無い。
炎を扱う魔法使いが、自分の出す炎に熱を感じない訳ではないそうだ。
なので、火力を上げる為には、自分から少し遠ざけた位置で、火球を操るのが一般的あるが、ロニスはそれを更に上回る火力を、ドレスという最も肌身に触れる方法を持って可能にしている。
どれほどまでの想像力を持てば、この様な奇跡を実現出来るのだろう。
必ず何かトリックがある筈だ、と冷静に思考していたアスタだったが、導き出した戦術は、至ってシンプルであった。
更に”スピード”を上げる事である。
ロニスはこの魔法に絶対的な自信があった。
ノエルにドレスを見せた時には、涙を流しながら気絶していたし、エリンの時には、目を輝かせてギルド専属冒険者にならないかと口説かれた。
魔物相手の戦闘なら、自分から攻撃する必要すらなく、全てが燃え尽きた。
温度を自身の肉体が耐えられる上限まで上げる事で、身体能力にも磨きがかかる。
蒼炎のドレスは負けない!
これならきっと倒せる!
今までで一番の手ごたえを感じながらも、まだ武者震いは止まっていなかった。
アスタは中段から姿勢を低く保ち、剣を少し右に傾ける。
突きを繰り出す体制だ。
これで勝負を決めると言わんばかりに、気迫が膨れ上がる。
炎を使っていないのに、彼の周りは温度が上がっている錯覚さえ覚えるのだ。
アスタは全身全霊の力を足に込め、地面を蹴る。
岩が砕ける様な音と共に、地面が割れた。
流れる剣の軌道からは、甲高い樋鳴りが響き、耳を劈く。
ロニスはそれを軽く躱して、剣をドレスに当てた。
これでもう、剣は溶け落ち、私の勝ちだ。
ロニスの思いとは裏腹に、アスタの攻撃は全く違う結果を見せる。
融解させる筈のドレスは、剣技によって貫かれていたのだ。
「どうして!?」
アスタはロニスの心の揺らぎを見逃さなかった。
間髪入れずにそのまま左に切り伏せ、その老体に何故その様な力が残っているのか、強力な空気の圧力によってロニスを吹っ飛ばした。
ドレスは、その圧倒的な風圧に貫かれたのだ。
ロニスはそのまま、受け身も取る隙も与えられずに、背中から木に激突した。
ずるずると地面まで落ちていく。
ドレスは原型を留められていない。
炎は散乱し、ほとんど裸になってしまったロニスは、腹が酷く裂けて、全身に生々しい火傷痕が刻まれている。
身体は火照って外気が気持ちいいのに、下半身は血だまりで暖かく、何だか不思議な感じだ。
どうやら肋骨が折れて、肺に刺さっているらしい。上手く呼吸が出来ない。
背中から全身に電流が流れているかの様な麻痺が残る。
口からは絶えず血が滴り、それを受け止める為の手も動かない。
末端から力が抜けると同時に、麻痺も和らぐが、視界の端から仄暗くなっていく。
端に、今まで気にする余裕が無かったポートが写る。
どうやらアスタに向かって吠えているらしい。
耳も遠くなってきた。
「...だめ...逃げて...」
ロニスはやっと、自分が相手の力量も正確に測れず、無謀な挑戦をしてしまった事に気が付く。
そのせいで私は、ポートを犬死させ、自らも死ぬのだ。
私は間に合わないかもしれないが、きっとこの子だけならまだ間に合う筈だ。
どうにか逃げて欲しい。その思いを伝える手段は最早何もない。
一方のアスタは、両手を含め、服や顔の所々が焦げており、剣も左右から半分は溶け落ちて、原型を留めていない。
手負いの猛獣は更に覇気が強まり、まだまだ戦闘が継続可能な様だ。
ポートはアスタが近づいてくるにつれて、徐々に鳴き声も小さくなり、遂に遠くの木の後ろに隠れてしまった。
闇の中ではこれ以上探すのは難しいだろう。
相棒の気配が遠のく事を感じたロニスは、安堵した表情になる。
「それで...いいの...」
アスタはロニスの喉元に剣を向けながら問いかける。
「ロニス、まだ気があるか?」
「...逃げなきゃ...」
その言葉を聞いたアスタは、この戦いにやっと中止府が打たれたと思うと同時に、大きな重荷が肩から降りた気分になる。
「そうだ、逃げるんだ。」
必死に体を動かそうと捩るロニスを見て、アスタの顔はいつも通りの優しい表情に戻る。
やっとの思いで体重を傾けた瞬間、ロニスの意識は飛んだ。
「おい、ロニス。」
「...」
アスタはドサッと地面に座り込む。
これ程出来ても、老体にはどうしたって限界がある。
大きく白い息を吐くと、近くにいる、姿は見えないがそこにいる人物に話しかける。
「はぁぁ...もういいぞ!出てきてくれ!ノエル!」
茂みに隠れていたノエルは透明な姿から徐々に姿を現した。
決闘の様子をずっと眺めていた様で、何が起こってもいい様に万全の準備をして来たらしい。
ロニスの容体が酷いと診るや、直ぐに懐から回復薬を全身にかけ始めた。
もう一本を口に流し込むと、傷は見る見るうちに治っていき、呼吸は正常になった様で、可愛い寝息を立て始める。
「それにしたって、これはやり過ぎなんじゃないかい?」
「すまない、手加減出来る様な実力じゃなかったんだ。
それに、あの魔法は一体...もう少し年を取っていたら俺の方が危なかったよ。」
その言葉を聞いてやっと笑顔になったノエルは、アスタに回復薬を投げ渡す。
「そうかい...まあ何であれ、両方無事で良かったわ。
私達もこれでロニーに教えてあげられる事は無くなっちゃった訳ね。」
これまでの思い出と共に、アスタの言葉は自然と紡がれる。
「あの子には才能がある。それ故に、今まで負ける事への経験があまりにも少ない。
これでロニーの選択肢に"逃げる”って行動がちゃんと追加されていればいいんだが...」
「きっと大丈夫よ!それに、今後ロニーに負けをプレゼントするなんてもう二度と出来ないに違いないわ!」
ノエルは帰り支度を始めた。ロニスをブランケットに包み、項垂れているアスタに声をかける。
「ほら!いつまでそうしているつもりですか?
これからギルド初のランク1冒険者を倒した老人として称えられに行くのでは?」
未だ動かない老人に少し違和感を覚える。
「どうやらそれは無理そうだ。」
「どうして?」
「俺の足がもう立たないからだ。負ぶってくれ...」
「...」
全く情けない顔をしているアスタを魔法で宙ぶらりんにして、ロニスは丁寧にブランケットに包んで抱きかかえられながら、ギルドの方まで戻っていくのであった。
その後を、ポートは様子を伺いながらちょこちょこついていく姿に、アスタは少し申し訳なさを感じた。
夜になっても騒ぎ足りない冒険者がギルドに入り浸っている中、死闘を繰り広げた者達が戸を開いた。
エリンは帰りをずっと待っていた様で、姿が見えた途端に駆け寄って来た。
「おかえりなさい!どうしたの?!アスタ先生は何やってんの...?」
「最後にどうしても決闘がしたいって聞かなくってねぇ。疲れが酷いみたいだからベットに運んでくれるかい?」
「分かった!ルネ!後はお願いね!」
「は、はい!」
そう言いながら、ルネはフライパンの肉を豪快にフランベしている。
勢いそのままにサラダ用の葉物を刻み、果物を盛り付ける。
危なげな手捌きで見ていて冷や冷やするが、どれもこれもが上手く行って周囲の冒険者からは声援が送られている。
出来上がった料理をミッシェルが運びながら追加のオーダーを取り、一人の冒険者にウィンクした。
鼻の下を伸ばしているが、明日の朝は原因不明の筋肉痛が酷くて、部屋に籠ることになるだろう。
初日にしては意外な安定感を見せる厨房に、ノエルはその秘訣を問わずにはいられなかった。
「あの子達、大丈夫なのかい?」
「大丈夫よ。ルネは料理だけはいくら派手にしても上手く行くし、ミシェルもホールをやらせたらそれが気に入っちゃったみたい。」
ケラケラと笑いながらノエルにグラスを渡すと、丁度いいタイミングでスパイス付き熊ステーキとウイスキー、干しブドウが運ばれてくる。
どうやら、ロニスの他にも森喰い熊を討伐していた物がいるらしい。
その正体を知っているエリンは少し意地悪になって質問を投げる。
「このステーキの肉、誰が取って来たと思う?」
「さあね。でも、アスタは昼間に、ちょっと熊を狩ってくると行って私とのデートを断ったのは知っているよ。」
流石に答えを知っているノエルに、エリンは、だよね、と笑いかける。
「で、明日はどうするの?もう旅に出ちゃうんでしょ?」
「そうだねぇ...アスタの状態が思っているより悪そうだから、まだしばらくフランに居ようと思っているんだよ。」
その答えを聞いたエリンは、一瞬考え込むような様子を見せたが、直ぐに名案が浮かんだようで、嬉しそうに話を続ける。
「そうなのね!そういう事なら、先生達のギルドカードも作っておくわ!もちろんランク1でね!」
はめられた様な気がしないでもないが、ノエルは快くそれを承諾する。
「まだまだ私もアスタも、こき使われそうだね...いいよ、乗ってあげるわ!」
「そう来なくっちゃ!」
エリンは小走りでギルドカードを作る為に、何処かへ行ってしまった。
あれは一枚に1時間は必要な物だ。
自分のグラスにウイスキーを注ぎ、干しブドウを一粒摘まむ。
「...こんなに甘いなんてね。」
染み渡る甘さを感じながら、ウイスキーを口に含む。
風味が合わさって、ステーキも程よいつまみになっている。
干渉に浸る時間を過ごしたら、そっと移動して、ロニスの顔を眺めに行く。
この子はきっと、将来美人さんになるのだろう、次に顔を見る日が楽しみね。
ノエルは優しく顔を撫で、丁寧に布団をかけ直すのだった。
2月2日
朝から雪が静かに降っている。
商人達が連れている馬は、早朝だというのに楽しそうにじゃれ合って、身体から湯気を放出している。
早くからギルドに向かい、熱心に仕事を探す者、生態系の調査の為に分厚い本を片手に集まる者、ギルドマスターと毛皮の取引に興じる者。
そんな人々が行きかう玄関を眺めながら、隅っこに座り込んでいるロニスとポートは、エリンが商人と話しを付ける事を待っている。
この商人、名をロイドというそうで、5年前から各地を回り、商人としての才を磨いているらしい。
見た目はかなり若く、20歳程に見える。
ブロンドの短く刈り込んである髪に、商人とは思えない恰幅のいい身体をしている。
行動にキレがあって、好印象な青年だ。
商人の町として知られているポーラ出身らしく、エリンは信頼して、この青年にロニスを任せる事にしたそうだ。
「よし!これで取引成立ね!じゃあこれからよろしく!」
「はい!こちらこそよろしくお願いします!ロニス嬢も必ずや無事に送り届けましょう!
では、準備がありますのでこれで!」
互いに握手を交わしたのち、ロイドは自分の荷車に荷物を積み始めた。
ロニスはその様子をじっと見ていると、背後からアスタに声が掛けられる。
「おはよう、ロニー。いつもと変わらずいい朝だな。」
「アスタ先生!おはよう!昨日は...ありがとう。
私が弱いばっかりに、嫌な思いさせちゃって...でも次は絶対一太刀浴びせるからね!」
昨夜の失態を取り返そうと息巻いているロニスに、アスタは誠実に向き合う事にする。
隣に座り、目を見て話を始める。
「ロニー、そのことはもう考えなくていいんだ。同じ場面は二度と来ることはない。」
ロニスにはそれが何を意味しているのか分からなかった。
ノエルも外に出てきた様で、開いているロニスの反対側に座った。
「ノエル先生!おはよう!アスタ先生が変な事言うのよ?昨日の事はもう考えなくていいだなんて。」
その言葉を聞いたノエルは、真剣になってロニスを見つめた。
「いいかい、ロニス。これから先は、もう一回なんて言える勝負は一度も来ないんだ。
もし負ける事があったら、それは死ぬ時なんだよ。」
「わかってるよ...私が弱いから...」
少し不貞腐れた様に顔を下に向ける。
アスタはそんなつもりではなかったと間髪入れずにフォローする。
「それは違うぞ!ロニーは今まで戦ったどの冒険者よりも素晴らしい才能を持っているんだ。
自分を卑下しないでくれ。
ずるく聞こえるかもしれないがね、生きてさえいればまた会うことが出来るんだ。
逃げてもいい。立ち合いに勝ち続ける事だけが道じゃない。」
真剣な言葉がロニスに届いたのか、ちゃんと返事が帰って来た。
「...何となく分かった気がするわ。」
ノエルは安心して、いつもの優しい笑顔に戻る。
はっとして、一つ言い残した事を思い出した様で、そそくさと懐から紙を取り出し何かを書き始めた。
「そうだ、すっかり忘れていたわ!チャーリーの住所を教えておかなくちゃね!
アレは素晴らしい逸材だから、ポートの事で困ったら尋ねてみるといいよ!」
走り書きのメモを受け取ったロニスはとても嬉しそうだ。
フィヨルという町のドラゴン研究所と書かれた看板が目印だそうで、町の誰もが知っているらしい。
「ロニス嬢!準備が出来ましたよ!いつでも行けます!」
ロイドの逞しい声が聞こえてくると、アスタは宛ら、自分の娘を嫁にやる様な気さえして来た。
悲しい顔は表に出さないと決めているが、気を抜くと涙が溢れそうだ。
だが、ロニスの事だ。またいつかはきっと会える。
「はーい!」
後ろを振り返らずに、荷車まで駆け寄り、少なめの荷物を積める。
着替えや路銀、少しの調理道具だけなので、そう多くはない。
それに、荷台はほとんど空きが無く、毛皮がこれでもかと積んであり、ロニスも自分の寝転がる分のスペースしか確保出来ていない。
颯爽と乗り込む客に、ロイドが話しかける。
「嬢、最後の挨拶はいいのですか?」
「大丈夫よ!だってまた会えるんだから!それにほら、もう皆ギルドの中に戻っちゃった!」
文化が違えば、これは中々に寂しい事だが、ちゃんと筋が通っている。
また会えるのだから、生きてさえいれば。
「皆さん意外と薄情なんですかねぇ...」
「そんな事無いわ!また会えるのに、別れを言う必要はないでしょう?」
「そうかもしれませんけど...これも文化の違いってヤツか...」
一人で納得していると、後ろから肩を叩かれる。
振り返ると、頬を指でムニムニされた。
「さあ!もう出発しましょ!私待ちきれないわ!」
弾ける笑顔で先の景色を見つめるロニスに、ロイドは思わず顔を背ける。
「そうですね!じゃあ、出発します!」
ロイドが手綱を引くと、馬はゆっくり進み始める。
荷車も雪を踏みしめ、心地よく振動を伝えている。
少し高い所からの景色が見たくなって、軽い動作で荷車の上に登る。
いつもの景色も、目線が上がると全く違って見える。
これからはもっと新しい景色を見ながら、荷車に揺られる日々が続くのだろう。
それはきっと、最高に楽しい筈だ。
フランと同じような街並みはあるのかな?
想像も出来ない様な魔物が襲ってくるのかも?
ふと、町外れの納屋から猫の親子が顔を覗かせているのが写る。
丁寧に毛繕いをしていながら、こちらに気が付いた様で、餌をねだる様な仕草を見せる。
あの猫は、私が帰ってくるまで納屋に住み着いているかしら。
そんな事を考えていると、どうしてだか涙が一粒溢れてきた。
旅立ちの涙 完
オマケ
慣れない荷車に揺られながら彼女の旅は続く。
魔王の涙を覗き見るまで。




