時を巻く想い
キスの瞬間に、直人の意識が戻った。
(え...?)
窓から差し込む西日が、部屋を斜めに照らしている。つい今しがた見ていた夕焼け空が嘘のように、まだオレンジ色には染まっていない。
(時間が...戻ってる?)
まるで夢のような出来事が、鮮明に思い出される。結衣の告白。デートの約束。そして、夕陽に染まった実験室での...キス。
(今の、なんだったんだ...寝ていた?)
頬が熱くなる。今まで意識したことのなかった結衣の柔らかな唇の感触が、まだ残っているような気がした。
(結衣の夢を見ていた…?)
直人は混乱していた。確かに「好きになる」という術をかけたが、まさか自分がこんな夢を見ることになるとは。そもそも、術をかけたのも夢だったのか?
ハッとして横を見ると、そこには結衣が静かな寝息を立てていた。直人は慌てて視線を逸らす。夕暮れの実験室で見た結衣の横顔が、妙に艶めかしく思い出されて...。
小学生の時から知っている幼なじみ。いつも負けん気が強くて、テニスの勝負を挑んでくる。そんな結衣を、今日初めて女の子として意識してしまった。
(俺の中で、結衣がこんな風に…?)
その考えが頭をよぎった瞬間、心臓が大きく跳ねた。術をかけたはずなのに、なぜか自分の方が変な夢を見てしまった。夢の中の結衣は、まるで本当に自分のことを好きだったかのように振る舞っていた。
「子どもは3人がいいな」
その言葉を思い出して、直人は顔が熱くなるのを感じた。あんな結衣を夢に見てしまうなんて。これは自分の潜在意識が影響しているのだろうか。
(いや、待て)
直人は頭を振った。今の自分には何が起きたのか理解できない。術は成功したのか、失敗したのか。そもそもあの夢は、本当に術によるものだったのか。
まだ寝息を立てている結衣を見ると、さっきまでの夢の出来事が現実感を帯びて蘇ってくる。結衣はきっと、自分とは全く違う夢を見ているんだろう。
(なんで、術をかけた側の俺が、こんな夢を…)
「ちょっと顔でも洗ってこよう…」
直人は小声で呟くと、そっと実験室を出た。廊下に出て深いため息をつく。夕暮れの空気が、熱くなった頬を冷やしてくれた。
(落ち着け。ちゃんと考えないと)
実験室に二人でいるという事実は、紛れもない現実だ。普段なら決して使わない場所に、こうして結衣と二人きりでいる。ということは、術をかけようとしたのは確かに現実のことで——。
直人はハッとする。術は本当に効いたのか。それとも結衣は全く違う夢を見ていたのか。確かめようがないそのジレンマに、直人は頭を抱えそうになる。
(でも、もし本当に同じ夢を共有していたとしたら...)
実験室の窓から差し込む光が、徐々に夕焼け色に変わり始めている。このまま結衣が目を覚ますまで待つべきか、それとも...。
直人は頭を振った。何を考えているのか自分でも分からない。とにかく今は——。
突然走ってくる足音が聞こえた。振り向く間もなく、誰かとぶつかりそうになる。
「あ…」
目が合った瞬間、直人の心臓が大きく跳ねた。
そこには結衣が立っていた。
「あ…」
時が止まったかのような瞬間だった。夕陽に照らされた廊下で、直人と結衣は言葉を失った。
結衣は声が出ない。目の前の直人の横顔が、夢の中での姿と重なって見える。頬が熱くなるのを感じながら、必死に目を逸らそうとする。
(まずい)
直人も同じように動揺していた。夢の中の結衣の姿が、まるで実像のように頭から離れない。心臓が大きく跳ねるのを感じる。
「ご、ごめんなさい…」
結衣は俯きながら小さな声で謝った。まともに顔を見られない。胸の奥で鳴り響く心臓の音が、この静かな廊下に響いているんじゃないかと思うくらいだった。
「いや、俺こそ…」
直人も思わず目を逸らした。夢の記憶が、頬を熱くする。
(落ち着け。結衣は何も知らないんだ)
必死に自分に言い聞かせる。
二人の間に、重たい空気が流れる。
夕暮れの廊下に、蝉の声だけが響いていた。
「じゃあ…」
結衣が小さな声で切り出す。言葉の続きが見つからない。
「ああ…」
直人も曖昧に頷くことしかできなかった。
二人は同時に、反対方向へ一歩を踏み出した。それぞれの背中には、まだ言葉にできない想いが残されていた。夕陽は二人の影を長く伸ばし、そっと寄り添うように重ねていた。