テニスコート
「直人!」
下校時刻、テニスコートから元気な声が飛んできた。振り向くと、結衣がラケットを片手に駆けてくる。夏の陽射しに髪が輝いていた。
「今日こそ勝負!」
直人は苦笑した。テニス部のエースである結衣が、部活後にも関わらず勝負を挑んでくるのはいつものことだ。小学生の時から、彼女はこうして無茶な勝負を仕掛けてくる。
「今日は疲れてるだろ?」
「そんなの関係ない!部活中は先生が相手だったから、全然満足できてないの」
結衣は不満げに頬を膨らませる。「ほら、付き合いなさいよ」
「はいはい」
結衣の熱意に負け、直人は鞄を置いてコートに向かった。彼女から借りた予備のラケットを軽く振る。体育の授業で使う程度だが、その動きは無駄がない。
「今度こそ勝つからね!」
結衣がサーブを打ち込んでくる。鋭い球だ。しかし——。
「甘いな」
直人は軽やかにボールを返した。まるで球が浮いているかのような、スムーズな動き。結衣は食いついてボールを追うが、コースを読まれ、ポイントを奪われる。
「もう一回!」
結衣の目が輝く。負けん気の強さは、子供の頃から変わっていない。直人は淡々とラリーをこなし、ときには緩急をつけた返球で相手を翻弄する。体育会系の部活に所属していないのに、どうしてこう器用にこなせるのか。結衣にはそれが不思議でならない。
「あと一球!」
「まだまだ」
「くっ…!」
汗が飛び散る。結衣の動きは真剣そのものだ。しかし直人は、相変わらず余裕の表情を崩さない。
「もう!私が勝ったら土下座しなさいよね!」
結衣は息を切らしながら叫ぶ。
「いや、もう無理だからやめときな?」
直人は軽くラケットを回しながら、からかうように笑う。
「次は勝つ!」
その言葉を聞いて、直人はふと思いついた。
「…じゃあさ、俺が勝ったら催眠術の実験台になるってのはどう?」
「催眠術?」
結衣は不思議そうな顔をする。「直人ってそんな趣味あったっけ?」
「ちょっとな」
直人は曖昧に答える。「ま、自信ないならやめとくか」
「うるさい!」
結衣は真っ赤な顔で叫んだ。「負けたら実験台でもなんでもやってあげるわよ!」
結局、その勝負も直人の完勝に終わった。
「もう!」
結衣は地団駄を踏む。「約束だからね。催眠術の実験、付き合ってあげる」
「ほんと?」
直人の声が少し明るくなる。
「約束は約束」
結衣は拗ねたように言った。「でも、変なことしたら承知しないからね」
「大丈夫だよ」直人は軽く笑う。「結衣に変な気なんて起きないって」
「それはそれでムカつく!」
夏の夕暮れは、そんな二人を優しく包み込んでいた。