祖父の手記
蝉の声が木漏れ日に溶けていく午後、直人は祖父の書斎で途方に暮れていた。
「先生の形見は全て寄付してほしい、だって?」
母からそう告げられたのは一週間前のことだ。東城蒼司——開業医として地域の人々から慕われた祖父は、その最期まで患者のことを考えていたのだろう。医療機器から書籍まで、全てを若い医師たちへ託すと遺言に記していた。
「爺さんらしいよな...」
直人は診察台の横に置かれた段ボールを手に取った。埃っぽい空気が舞い、くしゃみが出そうになる。夏休みの片付けなどと言っているが、これが祖父との最後の時間になるのだ。
書斎の窓からは庭が見える。幼い頃、あの庭で祖父に肩車をしてもらった。休診日には釣りに連れて行ってもらった。そんな思い出が、直人の視界をぼやけさせる。
「泣いてる場合じゃない。さっさと片付けないと」
直人は目元を拭うと、祖父の机に向かった。引き出しの中は几帳面に整理されている。診察カルテ、処方箋、医学雑誌の切り抜き。全て寄付するものたちだ。
「ん?」
一番下の引き出しに手をかけた時、違和感があった。底が妙に浅い。直人が慎重に引き出しを引き抜くと、その下に隠し引き出しが見つかった。
「秘密の引き出し...?爺さんらしくもないけど」
心臓の鼓動が早くなる。直人は静かに隠し引き出しを開けた。
中には一冊の手帳があった。表紙には祖父特有の達筆な文字で「術の記録」と記されている。背表紙は擦り切れ、ページは黄ばんでいた。長い間、ここに眠っていたのだろう。
「術...?爺さんが何かの研究でも?」
直人は手帳を開いた。最初のページには日付が記されている。昭和六十三年——。直人が生まれる前の記録だ。
その瞬間、どこからともなく涼しい風が吹き抜けた。風に煽られたページがめくれ、不思議な記述が直人の目に飛び込んでくる。
——術は使えば使うほど強くなる。だが、それは諸刃の剣だ——
直人は息を呑んだ。これは、単なる医学の研究記録ではない。祖父は、何か特別な力を持っていたのだろうか。
窓の外では蝉の声が一層大きくなっていた。夏の陽射しの中、直人は祖父の残した謎めいた手記に、夢中で見入っていった。
***
昭和六十三年 八月十五日
最初は単なる直感だと思っていた。診察室で目を合わせると、その人の心が見えるような気がする。深い悲しみや不安を抱えた患者には、必ず同じような夢を見ている傾向があった。これは私の想像以上のものかもしれない。
九月二日
例の少女の症例。原因不明の悪夢に悩まされ、両親は既に数件の病院を回ったという。昨夜、診察後に激しい頭痛に襲われた。そして、その夜、私は彼女の見ている悪夢と酷似した光景を見た。これは偶然ではない。
九月十八日
術の発現には一定のパターンがあるようだ:
1. まず、相手の呼吸が聞こえ始める
2. 次に、体温が上昇する
3. そして、意識が霧の中へ溶けていくような感覚
発現時の特徴:
- 施術者の体温が微かに上昇
- こめかみの奥に軽い圧迫感
- 相手の体温を感じ取れる
- 目を閉じると、青い霧のような光が見える
十月三日
今日、重要な発見があった。術は「触れる」だけでは不完全だ。心を開き、相手の呼吸に自分を合わせることで、初めて深い繋がりが生まれる。そして、その時——私たちは同じ夢を共有することができる。
これは単なる暗示や催眠とは異なる。より深く、より本質的な何かだ。
十一月十五日
警告すべきことがある。この力は次第に制御が難しくなる。電車で触れた他人の夢が見えたり、行き交う人々の感情が波のように押し寄せてくる。これは諸刃の剣だ。使えば使うほど、術は強くなる。だが、それは同時に術者の精神を蝕んでいく。
十二月二十五日
これが最後の記録となる。術の研究は全て封印する。人の心の深層に踏み込むことの代償は、想像以上に重い。
だが、もし私の血を引く者で、同じ力に目覚める者が現れたら。この記録が道標となることを願う。
覚えておけ:
1. 術は決して強制的なものではない。それは心と心の共鳴だ。
2. 相手の心を癒すには、まず自分の心と向き合わねばならない。
3. 夢の中で見たものは、時に現実よりも真実に近い。
追伸:
この力は血筋と共に継承される——。既に確信している。
次に目覚める者へ。この力を正しく使うことを願う。
東城蒼司