今さらながらの文字のお勉強会
ローレン卿との宴を終えたケン。
ロレンヌに文字を教えてもらう事になるのだが・・・
翌日もロレンヌさんは大量の紙とペンを持って俺の部屋にやってきた。
彼女はちゃんとノックをして、俺がドアを開けるのを待っていた。
誰かさん達とは違う。
「アレックスは一緒じゃないんですか?」
そう聞くと、ロレンヌさんは何かを紙に書いた。
そして読めない俺は困っていると、タイミング良くメイドさんが紅茶のワゴンを押しながら部屋に来た。いつもの、俺好みの年上で、細身ながらキビキビとした美人のメイドさんだった。
「ロレンヌ様がこちらへ伺っているのを拝見して・・・お邪魔でしたか?」
俺は文字が読めなくて困っている事を伝え、文字の勉強をしている事も伝えると
「そこには『アレクシウスはセバスチャンの所に行っていて来れない』と書かれています。少々お待ちしていただいてよろしいですか?それと・・・私で良ければお手伝いいたします。許可を取ってきますね」
そう言って出て行ってしまった。
なんとなく、手持ち無沙汰になって、俺も紙にペンで文字を書いてみた。
インクをつけながら書く羽ペンで、正直使いにくかった。
何故かその様子を食い入るように見つめるロレンヌさんに、俺は咄嗟に
「あ、勝手に書いてしまってすいません」
謝ると、首を振ってから、あごに手を当てて、俺の書いた文字を見つめ、考える素振りをしていた。
そんな事をしていたら、すぐにメイドさんはベイツさんを伴って戻ってきて
「学習をするのでしたら、応接室を使用してください。ケイトを付けますが、彼女の知識で足りなければ、すぐに私を呼んでください」
い、いや、そんな大がかりな事されても困るのですが・・・
とりあえず、美人なメイドの「ケイト」さんの名前を教えてもらえてよかった。
前から気になっていたのだが、恥ずかしくて聞けなかったのです。
そんな事を考えて現実逃避しながら、応接室の広い机に俺とロレンヌさんは座らされた。
向かい合って座る俺とロレンヌさんの間の辺に、直立不動の姿勢で背筋を伸ばして立っているケイトさん。
俺は勇気を出して、ケイトさんに声をかけた。
「あ、あ、あの、ケイトさん。椅子はいっぱいあるし、座ってください」
ケイトさんはにこやかに微笑んで、何かに一度頷いてから、笑っていない目で俺を見て
「ケン様、私はメイドでございます。仕事には誇りを持っています。立ったままで結構です。それと、敬称も不要でございます」
何か怒らせてしまったようです。
しかし・・・
ロレンヌさんが何かを紙に書いてケイトさんに見せた。
ケイトさんは、何故か段々と顔色が白くなっていっている。
固まった微笑のまま、ロレンヌさんにまっすぐ向き直り
「お、お許しを。し、しかし・・・そのような事は私には許されません」
な、何が書いてあるのか気になるが、聞くのが怖い。
続けてロレンヌさんは何かを書いてケイトに見せる。
そして、また何かを書いて、机の上に置いた。
「わ、わかりました。ロレンヌさま・・・いえ、この場でそう呼ぶ事をお許しください。ロレンヌがそう申されるのなら、従うのが私の勤めです」
青ざめた顔で冷や汗を流しながら、紅茶を三つ入れて、椅子を運び、腰かけた。
そして大きく溜息をついている。
そこまでの動作も、無駄がなくキビキビしていたが、何か恐怖を感じているようだった。
「あ、あの・・・一体なんて書いていたんですか?」
俺は好奇心に勝てず、そう聞いてしまった。
「こう呼ぶ事をお許しください。ケン、ロレンヌはこう伝えています『ケンの命令は私の命令です。従いなさい。そして私もケンも呼び捨てにしなさい』と・・・ですので、ケンも私を『ケイト』と呼んでください」
そして、机に置いた紙には『全て私の指示です ロレンヌ』そう書いて置いてあるようだ。
・・・あ、なにかこの強引なやり方、アレックスそっくりだ。
そうして始まった、今更ながらのこの国の「国語の授業」
最初は俺も、着座したケイトも緊張していたが、全然高圧的ではなく、穏やかなロレンヌさんとのやり取りで、楽しく進んでいた。
途中でロレンヌさんが
「ケンの世界の言語を教えてほしい」
そういうので、俺はひらがなで五十音を書いた。
その後、簡単な単語を異世界後と日本語に照らし合わせていた。
ほんの一時間くらいで、ひらがなだけだが、ケイトの通訳がいらない程になってしまった。
それを察したケイトは
「もう私は不要のようですね。新しい紅茶をご用意しますね」
そう言って席を立とうとするケイトを手で制してから、ロレンヌさんは何かを書いて見せた。
ケイトに向けられたその紙をケイトは震える声で読みあげた。
「無理を言ってしまってごめんね。ありがとう」
「と、とんでもございません。私の非礼をお許しください。すぐにお茶を用意します」
そう言って静かに出て行ってしまった。
過去にエータが俺に対し、ひどい事を言ってから褒めるような行動をしていたのは、わざとなのではないかと疑ったことがあった。それと同じような光景を目にして
「この人も人心掌握術がうまいのではないか」
そう感じてしまった。
しかし、その後に出された手書きの紙に「命令します」と書かれていた。
俺は、何か恐怖を感じて背筋を伸ばした。
そこにはひらがなで
「わたしに さん は いりません」
そう書かれていた。
少しの静寂の間・・・
そして次の紙に
「おねがいです はは と よんで」
そう書いた紙を持つロレンヌさんの手は震えていた。
俺はその震える手を握り
「はは」
と呼んだ。
ロレンヌは椅子から立ち上がり、俺を抱きしめていた。
俺は「はは・・・おかあさん」そう呟くと、元の世界の母を思い出した。
「母さん・・・元気にしているかな。親不孝でごめん・・・」
そう思い涙が出た。
ロレンヌは単に「はは」と呼んで欲しかったのか?
もしかして、異世界から来た俺に、俺の中の何かに気付いていたのか?
そんな事を考えている俺の頭を、優しく抱いて撫でてくれた。
「かあさん・・・」
俺はロレンヌの胸に顔をうずめて声を上げて泣いていた。