episode1 君が欲しい
3ヶ月前。
それは俺がまだ、一介の高校生だった時のこと。
その日も、普段と変わらない一日を送るはずだった。
何も起こらない、起こるなんて予想し得ない。非日常とは縁が無い。
東から昇った太陽が、西に沈むまでの時間を、ただこなすだけの一日であるはずだった。
(それなのに……)
妹が誘拐された。
家を出て数分の地点。
俺は忘れ物をしたことに気が付いて、妹を待たせて一度取りに戻った。
長くは待たせまい、と駆け足で帰ってきた時、ちょうど妹が無理矢理に車の中へ押し込まれる場面だった。
一瞬何が起きているか理解できず、神経が全部切れてしまったみたいに、頭が回らなくなった。
胸のざわめきは最高潮に達し、とてつもない吐き気に襲われた。
”あれは自分とは関係のない出来事で、たった今車に乗せられて目隠しをされている女の子も、妹によく似た全くの別人なのだ”
どうしても信じたくなかったのだろう。
俺は他人事のように考えていた。
数秒して我に返った時、既に車は走り去ろうとしているところだった。
幸か不幸か、瞬間的に車のナンバーを記憶するという冷静な対応ができたのは俺も必死だったということだろうか。
その後すぐに警察に捜索願いを出したが、車は近くの川辺に乗り捨てられており、中からも犯人の手掛かりは見つからなかった。
自分でも手当たり次第に探してはみるものの、高校生の捜索範囲なんて高が知れていた。
それから数日間、俺は飯もろくに喉を通らず、半分死んでいるような生活を続けた。
眠っている間だけは何も考えなくて済む、と一日の大半を惰眠を貪ることに費やした。
そんな堕落した日々が続いた。
何日目だろうか。
もう時間感覚すら怪しくなった頃、突然、家の電話が鳴った。
(遂に来た。犯行声明だ)
どこにそんな気力が残っていたのか、自分でも驚くほど素早い動作で、もぎ取るように受話器を取った。
犯人からの第一声はこうだった。
「君が欲しい。仲間になる気はないか」
命令的ではない。攻撃的でもない。
あくまでも対等な取引だということが、声からすぐに感じ取れた。
同時に、俺は耳を疑った。
(俺が欲しい? 仲間になる? 誰が? 誰のだって?)
逸る鼓動と、焦る思考とを強引に理性で捩じ伏せ、妹の安全を第一に考えるようにした。
数分間の、しかし俺の中ではとんでもなく濃密な会話。
相手の言い分を聞いてみたところ、それは幾つか予想していた要求とは、全くもって別種の内容だった。
妹は今もちゃんと生きていること。
犯行は犯人の所属する反政府組織の首領が命令したこと。
組織は現在、兵士として適正な若者を欲しており、以前から俺に目をつけていて、何とかして組織に入ってもらうためには、妹を引き合いに出すしか方法がなかったこと。
組織に入らずこのまま今まで通り生活していても、いずれ戦争に巻き込まれて死ぬであろうこと。
犯人に悪人めいた雰囲気は無く、どちらかというと、断られることを懼れ、それを悟られまいとする口調だった。
話の後半はどうでもよかった。
俺にとって一番重要なのは、たった1人の家族を救えるかどうか、ということだ。
それからのことは後で考えればいい。
とにかく妹のことだけで頭がいっぱいだった。
考える時間も惜しく、すぐさま了解の返事をした俺は、間もなく組織に連行された。