第九七話 終末ノ前日
九日が過ぎた。
コチョウ達がアイアンリバーを攻めると言った日を翌日に控えたその時まで、結局、フェリーチェルやカインが、アーティファクトを攻めることはなかった。当然だ。市民の暴動が治まるまで三日を要した程だ。それからアイアンリバーの防衛戦力を結集させ、アーティファクトを攻めるというのは、どう考えても時間が足りなかった。
その間に、コチョウはアイアンリバー上空に浮かべたアーティファクトと地続きに忍者共の隠れ里を追加で転移させ、サイオウを呼び寄せた。今後について、現実世界の調査状況も確認しておかねばならない。のんびりと座してフェリーチェル達を待っている時間はなかった。
「それで? どんな状態だ?」
コチョウはもっぱらサイオウの屋敷にいた。アーティファクトのドームの防衛は、ゴーファスがアイアンリバー城から呼び戻した半魔神や半竜族の連中で事足りたし、忍者共も見張りとして配置してある。人形共が入り込んだとして、十分に受け止められる体勢と言えた。
ゴーファスは光を嫌い、隠れ里に姿を見せる事はほとんどない。代わりに、彼の目として、耳として、時に口として、ダークエルフとなったピリネがサイオウの屋敷に詰めていた。ピリネはいまだヴァンパイアにはなっていない。ゴーファスは吸血鬼が二人いるよりも、日光のもとでも自由に動ける生者が一人いた方が好ましいと考えているようだった。ゴーファスがそう望むのであればと、ピリネも納得していた。
「人が暮らせる大地はない」
サイオウの声は陰鬱で、重かった。彼が答えたのも、他でもない、現実世界の話だった。忍者共の報告によると、ほとんどの土地は荒れ果て、あるいは腐り、植物も生育できない荒廃した世界があるだけだという話だった。
だが、文明が完全に滅んだかというと、どうもそうでもないらしい。人々は、残り少ない健康な土を、動く城塞都市のようなものに乗せ、その中で農園を作り、街を形成し、水やさらなる健康な土を求めて彷徨いながら暮らしていることが分かったという。なかなか面白そうな世界だと、コチョウには聞こえた。
「上空に浮遊大陸があるという報告もある。行き着く手段を得ることはできなかったが」
どうやら地上よりはマシな環境に、遠目では一見見えるが、人は住んでいないと思われるということだった。廃墟でしかないのだという。ある程度の時代までは人々が暮らす場所として保全はされていたのだろうが、今や鳥獣やモンスターの楽園だという噂らしい。
おそらくは、豊かな者達は死んだ大地を捨て、健康な土地だけを切り離し、空に浮かべた大陸に逃れたのだろうが、閉鎖された大陸は、人類には狭すぎたのだ。緩慢に種として壊死していったとして、コチョウは不思議にも思わなかった。
「そうなると、当座の食糧だけでなく、農園そのものをもって行く必要があるな」
コチョウがそう理解すると、サイオウは重々しく頷いた。ある程度の労働力と、街として機能するだけに足る人口は必要だろうが、過剰に連れて行けば崩壊する。彷徨うことを考えれば、通常の要塞をイメージしたのでは不便だけが多いことにもなるだろう。むしろ、船団をイメージしたほうが良さそうだった。
「多くは乗せられんな」
聞く限り、想像以上に過酷な暮らしになる。おそらく移動都市間のいざこざ――略奪や侵略など――もあるのだろう。本気で生き抜けるタフな者達でなければやっていけないだろう。コチョウは、もともとアイアンリバーとその周辺の農村の住民の、大半を殺めることにする決断は既に持っていたが、カインやフェリーチェルが残す住民を選別してきたとして、更に厳選が必要そうだと解釈した。
「面倒だな。適正人口など分からん」
それが一番の問題だった。コチョウにはもともと住民一人すら必要ないだけに、街を維持するのにどれだけの人数が必要なのか、まったく想像もつかなかった。
「大規模な旅団を形成するのであれば、それこそ万を超える頭数でも養う余地はあろう」
農村や山村などを変形させて複数持って行けばいい。サイオウの意見は、コチョウの能力ありきという投げやりなものでもあったが、端的でもあった。間違いない。
「規模が大きくなれば狙われる。治安も悪くなる。住民を管理する自治組織と軍備がいる」
そしてそれを養うための食糧生産力が必要だと生産拠点に跳ね返る。その為には、兵力よりも兵器力で補うのが適当だ。少数精鋭で要塞都市が守れるのであれば、市民生活に与える負担が軽くなるのは自明の理だ。とはいえ、街だけ守れれば良いという訳ではない。資源の枯渇は滅亡と同義だ。荒野の探索なしでは街は閉塞し、疲弊のうちに崩壊するだろう。探索という危険を生業とできる冒険者共は、一定数必要だった。
「最終的には、リノリラに投げるか」
現状では敵だが、決戦終結後、生き残らせるつもりでいる。向こうもそのつもりでいるだろう。でなければ、勝ち馬に乗る形でリノリラはこちら側についてしまい、勝負にすらならなくなった筈だ。ある意味、リノリラの安全をコチョウが保証したことで、向こう側についてくれたと言っても過言ではなかった。箱庭を生産拠点、経済拠点として残しておくことがリノリラの一番の希望だとして、勝つ見込みのない戦いを挑んでまで守る気にはなれなかった筈だ。
「それが適当だろう」
コチョウの呟きに、サイオウも頷いた。
それきり、沈黙が続く。サイオウが何を考えているのか、コチョウの読心術をもってしてもようとして知れない。忍者共の心は読みにくいが、サイオウはとりわけ読み取りづらかった。おそらく精神抵抗に関する何らかの特殊な修練が、修行の一環として組み込まれているのだろう。
「報告いたします」
忍者が一人、漆喰の塀を跳び越えて庭に現れた。片膝をつき、頭を垂れたまま言葉を発する。
「賊が入り込みました。コチョウ殿との勝負を望まれている模様。ピクシー一匹ですが」
とのことだった。感情の伴わない報告は、コチョウから聞いても、耳に心地よく、頼もしかった。
「いかがいたしましょうか」
いかが、というのは、処分しておくか、という確認だ。つまり、忍者共でも十分撃退できる相手でしかないということだった。そんな非力で単身乗り込んできたピクシーに、コチョウは興味を覚えた。アイアンリバー城への襲撃を明日に控え、コチョウの気持ちも、落ち着かなく、むずむずと待ち遠しい気持ちが燻っていた。
「いや、会おう。明日に備え、肩慣らしも悪くない」
コチョウは答えた。
座布団の上を退き、伝令の忍びに先導されるままについていく。案内されたのは、本来上階から続いていた螺旋階段を上がった先、ドームの上だった。ピクシーは数人の忍者に取り囲まれ、敢え無く、直方体の、檻というより箱に捕獲されていた。
「何だお前か。前と立場が逆になったな」
箱の中にいたピクシーには、コチョウも見覚えがあった。カインと一緒にいた、以前戦った際にコチョウを昏倒させたあのピクシー、ルエリだ。
「お前が」
ルエリはコチョウを見るなり、憎しみのこもった声で、吐き捨てた。
「お前があのフェアリーを連れて来てからだ。カインといつも一緒にいたのは、わたしだったのに」
そう言われても、コチョウには向こうの人間関係に興味もなく、何が起こっているかさえ知らない。コチョウは首を捻るばかりだった。
「カインはあれから、あのフェアリーにべったりだ。何処のどいつかも知らないあんなフェアリーを姫、姫、と呼んでずっと頼ってる。お前のせいだ。お前があんな奴をカインに会わせたからだ」
「ふん。そういうことか。ならあいつに言えよ。フェリーチェルの行動など私は知らん」
気持ちは分からないではない。フェリーチェルを攻撃すれば、おそらくカインに批判されるのはこのルエリの方なのだろう。亡国の、とはいえ、曲がりなりにも、正真正銘、フェリーチェルはフェアリーの王国の姫だった。民を想う気持ちは篤く、博愛に似た心も持っているのだろう。カインが、確かに心強い相談役といったところと考えてもおかしくなかった。
「だが、私に喧嘩を売って来た度胸は買おう。攻めてきたのはお前だけだ。相手になろう」
憎しみでの暴走というのが猶更気に入った。そのくらいどす黒い感情の相手の方が余興として楽しめる。コチョウは箱から出すように忍者共に合図した。
ルエリは、箱から出されると一直線にコチョウに襲い掛かった。妖精用の、脆く、細い短剣一本で踊りかかってくる狂気に、コチョウは楽しげな笑みを浮かべた。避けもせず、心臓を狙ってきた一突きを、真正面から受ける。魔法のダガーだ。僅かにだけコチョウに刺さった。血が滲み、痛みがあった。
「残念だな。お前に私は殺せないようだ」
コチョウは告げ、ルエリの首を刎ねた。