第七六話 朱雀
地下一六層を過ぎ、地下一五層まで戻ってきた。玄武の背に揺られるフェリーチェルは快適そうで、玄武自身もそんなフェリーチェルを孫でもあやすかのように労わり、ご満悦の様子だった。
地下一五層で、コチョウ達は漸く冒険者の気配を嗅ぎ取った。彼等にはやはりダークハートの深淵は厳しいらしく、どうやら共闘という作戦で探索を進めることにしているようだ。それでも地下一五層が未だ限界なのは、おそらく地下一四層が、連中には相当厳しい壁として立ちはだかっているのだろう。あの毒々しいまでの苔と菌類の地獄を抜けられるのは、そもそも対策できるパーティーか、余程抵抗力に自信のある猛者達だけだ。中途半端な実力のパーティーでは間違いなく脱落する。対策可能だとしても消耗は避けられず、地下一五層の探索の余力を残すのにも難儀していることは、想像に難くなかった。とはいえ、逆に言えば、地下一五層を探索中の連中は、細菌の苗床にならない程度の実力があるということも確かであり、侮れば足元を掬われかねなかった。
「思ったより数が多いな。いちいち相手をするのは面倒そうだ」
気配はまだ遠いが、半魔神や半竜族が発することがない騒々しい気配に嫌でも気が付く。まるで冒険者達が愛用する鉄の装備が騒々しく鳴って響いてきているような、そんな気配が感じられた。
「え? あ。うん……大丈夫かな? でも、玄武様も呼んでるから。平気? ほんとかなあ。自信ないけど。そうおっしゃるなら」
誰と話しているのか、エノハがぶつぶつと呟いた。それから、コチョウに向かって呟き声でなく、はっきりとした声で話しかけた。
「朱雀様が先行して露払いしてくださるって。どうしよう?」
「地下迷宮で火か」
コチョウは考え込んだ。遺跡内部の通路は決して広くない。果たして燃え盛る式神を暴れ回らせるのが適当なのか、判断に迷った。エノハはおそらく主として式神自体に守られているから問題ないだろうが、場合によってはコチョウ達が火に巻かれることになる恐れもある。さらに言えば、それよりも恐ろしいのが酸欠だ。一発二発の一瞬で燃え尽きる呪文であれば問題にもならないが、燃え盛る式神が火をつけて回るとなると話が別になる。
散々悩んだものの、コチョウが出した結論は、まあいいか、だった。どんなことになるか面白そうという興味もあったのだ。結局コチョウはエノハに頷き、朱雀を呼び出すことを許可した。
「分かった」
エノハは答え、式札を懐から取り出す。まだ幼さの残る声を張り、告げた。
「朱雀様、お願い」
エノハが式札を投げると、それは文字通り全身が赤々と激しい色をした鳥になった。ひと声甲高く鳴き、鬨の声を上げるように全身を広げてから、朱雀は滑るように飛んで行った。その軌道は空気を燃やしているようでもあり、石壁を染める赤が遠ざかっていくのが、弾丸のようでもあった。
通路の先が曲がり角になっている。そこを器用に体を傾けて旋回し、朱雀は壁の向こうに消えて行った。
「何か、凄いな」
コチョウですら、驚きを隠せなかった。コチョウは、燃えている鳥、という漠然とした認識をしていたが、そんな生易しいものではなかった。火を纏った鳥ではなく、むしろ、鳥の姿を持った火だった。燃えてはいない。羽毛さえ見て取れた。しかし、内に秘められた炎が、確実に燃え盛っている、ということもはっきりと感じ取れた。
「あれが朱雀か」
四体同時に相手をしたとしよう。コチョウはエノハの式神のことをちらっと考えずにはいられなかった。果たして勝てるだろうか。エノハが様付けで呼ぶ理由が何となく理解できてきた気がした。
しばらくすると、通路の彼方から空気を裂いて耳を劈く悲鳴が聞こえてきた。朱雀が冒険者共と接触したらしい。コチョウは感情をどう表現して良いか分からず、薄ら笑いを浮かべた。自然にフェリーチェルと目が合う。
「同情する」
フェリーチェルは、ただ一言、冒険者達のことを、そう表現した。コチョウも、同感だ、と感じた。
立て続けに上がる悲鳴に、呼び出したエノハも呆然としていた。何が起きているのか、だいたい想像はついているのだろうが、感情がついてこないといった様子だった。そんな彼女の背中に、玄武が頭を擦りつけ、エノハが振り返ると、ゆったりとした動作で頭を振った。まるで、老賢人が、気にするでない、と幼子に言い聞かせるように。
「うん、ありがとう、玄武様」
エノハが頷く。その様子を眺めていたコチョウだったが、軽く首を振り、我に返って皆に告げた。
「行くぞ」
下手したら、露払いどころか、朱雀にすべて片付けられかねなかった。それではつまらない。
コチョウ達が先を急いでいる間にも、悲鳴は続いていた。男の声もあり、女の声もある。太いもの、細いもの、高いもの、低いもの、断末魔、恐怖の叫び、怒号。ごちゃ混ぜになって聞こえてきていた。阿鼻叫喚とはまさにこのことだろう。
角を曲がり、通路を進む。前方彼方の、左側の壁が赤い。丁度直進の他に右手にも通路が伸びている分岐の部分だ。照り返しと考えると、右に折れた先で戦闘が行われているのだと分かった。おまけに轟々と噴射されているような炎の響きも聞こえてきた。
「やってるな」
コチョウは何故か楽しくなってきた。自分でやっていると気が付かないものだが、他人が虐殺している音を聞くと、とんでもなく残虐なものに聞こえる。自分が普段気にもせずに殺して回っていることが、如何に酷い行いなのかを自覚する。だからといって、改めるつもりはないが。
「まだ結構生き残りがいそうだ。しぶといな」
飄々と笑いながら、コチョウは分岐を右に折れた。通路の先が赤い。炎の赤だ。冷静に考えれば、実際には、上の階に向かうのであればその分岐は曲がらなくてもよかったのだが、どんな猛者共が一方的に朱雀に炙られているのか、見てみたいという興味が勝った。
戦闘場所まであと少しというところで、コチョウ達は前進を止めることを余儀なくされた。敵の数が多すぎて近づけないのではない。目の前に炎の壁が出現し、邪魔で進めなくなったのだ。
「近づけないじゃないか」
今度は比喩表現ではない。文字通り、空気が燃えている。呆れた業火があったものだ。良いところだから邪魔するなという朱雀の意思表示だった。
「ふざけた真似を」
消せ、等と文句を言う前に実力行使に出るのがコチョウだ。右手を振り、炎の壁を消し飛ばすと、向こう側の状況を腕組みして見据えた。
冒険者共の焼死体がさぞやごろごろしているのだろうと思えば、予想に反して一人の死者も出ていない。へたり込んで戦意を喪失している連中は一〇人以上いたが、それ以上にまだ立っている奴等が五人もいた。
「殺しとけよ」
悪態をつき、エノハに視線を送り、コチョウは朱雀を下がらせろという意思表示をした。焼けなかったのではなく焼かなかったのだ。手心を加えやがった、コチョウはそう理解して、舌打ちした。
「殺しとけよ」
もう一度告げ、朱雀の脇を通り過ぎた。朱雀が抗議するように薄い炎でコチョウの前進を遮った。当然その程度で焼けるコチョウではないが、忌々しいのは同じだった。
「言いたいことがあるなら口で言え」
横目で振り向き、鳥に向かって言うには、ほとんど無理難題とも言える要求をする。誰もが横暴だと思いかけただろうが、コチョウは、答えがあると、確信していた。
「おぬしはやりすぎる。派手なのは良いが、悪戯に過度な暴力を振り回せば、事の収まりも難くなろう。戦意を削ぐだけで穏便に済ませても十分だろうて。それともこのような些事で死体の山を築き悦に入り、いざ決戦となった時に難儀するのが望みか?」
朱雀は答えた。落ち着いた、老獪そうな知的な声だった。
「別に難儀しないから関係ない。やる気がないなら下がってろ。邪魔だ」
コチョウは言い捨て、朱雀はやれやれと言いたげにコチョウを見たが、何も言わずに下がった。その態度は気に食わなかったが、コチョウは、それ以上朱雀の相手はせず、冒険者共に視線を戻した。
「お前等のターゲットは私だな?」
腕組みをしたまま悠然と冒険者達を見回すコチョウの体は小さい。だが、その全身に得も言われぬ禍々しい空気を纏っているのは、冒険者達にも分かったようだった。誰かの口から、生唾を飲み込む音がやけに大きく聞こえた。コチョウは口元だけで笑い、連中を見回した。確かに一流の装備を揃えた者達ばかりだ。コチョウには見覚えのない奴等ばかりで、カインはいなかった。
誰も動かない。コチョウはまた笑った。
「どうした。私を殺しに来たんじゃないのか」