第六五話 事実
「呪いの除去」
コチョウが唱え、その余韻すらもが消えた時、宙に表示された円形の模様の中に、処置完了、の文字が浮かび上がった。
「終わったの?」
エノハが自分の身を見回して、首を傾げる。もともと呪われた自覚もなかったのだ。呪いが消えたとしても自覚できる筈もなかった。
「スズネ達は、もう出ても宜しいのでしょうか」
あまりの呆気なさに、スズネも半信半疑の様子だった。コチョウは二人には答えず、アーティファクトの操作に集中している。コチョウが答えるより前に、スズネ達をぐるりと取り囲んでいた、床の円形の文字が消えた。
「ウィザードブック」
コチョウが、独り言のように告げる。スズネとエノハに重なるように、緑色の文字の羅列が、石板が浮かび出るように出現した。
「お前等邪魔だ。退け」
漸くまだそこにスズネ達が立ったままだということに気付いたように、コチョウが文句を言う。
「だから言い方選びなって」
コチョウの横で、我に返ったフェリーチェルが苦笑した。スズネとエノハは、コチョウだから仕方がないと言いたげに、表情を崩してコチョウ達の傍まで歩いてきた。
「サーチ、ピリネ。リヴァイブ」
コチョウは淡々とコマンドワードを唱え続ける。最早フェリーチェル達にはまったく関心がないという態度だった。コチョウの言葉が終わるか終わらないかといったタイミングで、石板のように表示された何らかの文書の幻像の真下に、塵のようなものが蟠り、やがてそれはピクシーの姿を再現した。
肌は青白くなく、明らかに生きたピクシーの姿だった。きょとんとした顔で床に座り込み、周囲を見回した。
「ここは、何処ですか? それにこれは? もとに、戻っている……? 私の吸血鬼化が、解けています……何が?」
「私が分かるか?」
コチョウが問いかけると、ヴァンピリック・ピクシーだった筈のピリネは、一瞬首を傾げてから、
「あなたが助けてくれたのですか? どなたか分かりませんが、どうもありがとうございます。吸血鬼にされ、絶望の淵に沈んだところまでは覚えているのですが……どこかでお会いしたということでしょうか。だとしたらすみません。覚えていないのです」
そんな風に語った。コチョウは言葉を手振りで遮り、
「いや、いい。気にするな」
とだけ答えた。それから天井高く、遠くを見つめるような目をして頭上を見上げると、
「ゴーファス。無事か?」
聞こえる筈のない会話を始めた。声にも出しているが、その実、テレパス能力で音を届けている。ゴーファスの返事は、コチョウだけに聞こえた。
『無論。冒険者共が、多少八層を抜けて行った。一〇組よりは少ない筈だ。見た限りでは、九層の怪物共に勝てる連中は多くはないだろう。一組は抜けるかもしれんが』
「そうか。お前も来い。今引きずり降ろしてやる」
コチョウが更に言うと、
『承知した』
という二つ返事が返って来た。拒否権がないことを良く分かっている。話が早いな、とコチョウは満足だった。
コチョウが指を鳴らし、元ダークエルフの吸血鬼がその場に現れる。ゴーファスは、返事の通り、コチョウの転送術に逆らうことはなかった。
「あ、ああ、ああっ」
現れたゴーファスを見て、恐怖の悲鳴を上げたのは、ピリネだ。ゴーファスに血を吸われ、吸血鬼化した記憶はあるのだ。
「む。その節は失礼した」
ゴーファスが素直に詫びる。
「背に腹は代えられなかったとはいえ、君のような妖精の血を啜る行為は美しくなかった。心から謝罪したい」
「……! ……?」
声にならない叫びをあげながら床を這って後ずさりし、逃げようとする様子を見せたピリネだったが、彼が詫びたことに呆気にとられたのか、呆然と視線を返した。
「……え? ええ? あの。手当たり次第に獲物を探して回っていたとかでは、なかったのですか?」
「断じて違う。君と出くわした直前に、冒険者連中と戦闘があったばかりだったのだ。かなりの手傷を負った為に、致し方なかったのだ」
本気で弁解するゴーファスに、しばらくピリネは言葉を失っていたが、突然我に返ったような顔になり、
「それならそうと先に言ってください。吸血鬼にされるのも確かに嫌だったのですが、それより、すごく怖かったのです。いきなり襲い掛かって噛みついてくるなんて野蛮すぎます。あんな大きな蝙蝠が、いきなり覆い被さってきたら、怖いに決まっているでしょう?」
そう言って怒りだした。
そんな二人を尻目に、コチョウは視線すら向けていなかった。二人で話し込んでいるのであればそれでいい。勝手にさせておいて、コチョウは素知らぬ顔でアーティファクトに集中していた。
「あの、これはどういう目的ですか?」
スズネがコチョウに問う。答えはなかった。
この状況に何の意図があるのか、分からないのはスズネだけではない。エノハも近くにいるフェリーチェルに、
「分かる?」
と、聞いたが、フェリーチェルにも分かる筈がなかった。ただ首を傾げて両腕を広げ、
「コチョウの考えることだもの。本人にしか分かんないよ」
苦笑いするのがせいぜいだった。
「私達どうしたら良いの?」
流石に困り、代表して、フェリーチェルがコチョウの視界を遮って前に出る。コチョウは舌打ちして、仕方なしといった風に答えた。
「今は勝手にしてろ。調べ物が済んでから話す。邪魔をするな」
「……ちょっと丸くなってる」
フェリーチェルが笑った。
「殺すって言わなくなったね」
その指摘に、コチョウは一瞬、うんざりした表情を浮かべてから、頭を振った。
「お前を殺しても意味がないことは分かった。もう少しで全部分かる」
「分かるって、何が?」
フェリーチェルがなおも食い下がる。彼女にも凡そは見当がついていたが、スズネ達はそこまで現実をまだ見ていない。あの森のセットを見たのは、コチョウと、フェリーチェルだけだ。
「この箱庭のことだ。この世界が人形劇のセットの集まりに過ぎないことは十分分かった」
アーティファクトの一機能、ウィザードブックと名付けられた物に、コチョウ達の世界の真実は確かにおさめられていた。彼女が読んだ限りでは、もともと、アイアンリバーという土地は、所謂箱庭の外に実在する街らしい。フラットグレー平原、フェイチャームの森など、使用されている名称も実在のものだ。そのあたりはコチョウも不思議には思わなかった。
多数の物語に使い回されている創作の世界というのでは、流石にまたこの舞台かと飽きられてしまいやすい。それが複数の劇作家の間でもし使い回されているとすれば猶更だ。現実的ではない。しかし、一つだけ使い回されても不思議がないケースは確かにあり、それは舞台となる場所が、実在する土地を再現している場合だった。
「どうやらここは、伝説や伝承を元にした物語を、演劇させる為の箱庭らしいな」
当然、住民もすべて、その演劇の為に用意された人形に過ぎない。そして、劇が再演される、あるいは巻き戻される為に、人形の状態を人為的にリセットする機能も、存在している。丁度、コチョウがピリネを再生したようにだ。
「だが、幾つかリセットできない例外がある。現実に今、箱庭世界に重大な問題が起きてる」
と、コチョウは笑った。
「まあ、やったのは私だがな」
それ自体は好きにした結果であり、コチョウ自身はそれ程興味がある訳ではなかった。むしろ興味があったのは、
「それぞれ誰かの物語の人物で、どっかで今は筋書きが狂ってる筈だ。それを調べてる」
コチョウ自身の物語はない。彼女自身、そう確信していた。だがだからこそ、彼女は他の連中のシナリオをぶち壊して回ることになる。それは箱庭を破壊できる力だ。その確証が欲しかった。経緯や背景はどうでも良かった。肝心なのは、このろくでもない箱庭世界を、ぶっ壊して出ていくことが、コチョウに可能なのかということだった。
もし可能であればコチョウの答えは決まっている。リセット上等の劇世界にはうんざりだ。筋書きのない世界に好きなように暴れに出ることだけが、望みだ。
「造られたとか、人形とか、そんなことはどうでもいい。問題は私に何ができるのかだ」
調べても直接の情報がある訳ではないことは分かっている。だが、コチョウは猫の髭と呼ばれる村のセットを破壊した。そして、フェリーチェル達の物語を捻じ曲げた。その事実さえ分かればそれで良かった。