第六〇話 欠落
一夜が明け、コチョウ達は階段を降りていった。誰も喋らず、ただ黙々と、一列になって進んだ。コチョウの体の張りはかなりやわらぎ、フェアリーの姿に戻って先頭を飛んだ。そのうしろをエノハが続く。フェリーチェルはエノハの腕の中だ。最後尾を、スズネが後方警戒を兼ねて歩いた。
「喋るなら今のうちだぞ」
振り返らずに、コチョウがエノハに声を掛ける。エノハただ短く、
「うん」
と、答えただけだった。煮え切らない態度に、いつもならコチョウが切れ散らかしているところだ。だが、コチョウは僅かに唸りながらため息をついただけだった。
「いいんだよ、遠慮しなくて」
そうエノハを気遣うのは、フェリーチェルだった。マラカイトモスが平和だった時は民から愛される王女だったのだろうと分かる、優しい声を上げる。とことんまで不幸体質で、コチョウの方に問題があって彼女にはやや辛辣なだけで、本当に優しく良い娘なのだと分かる。
「心配事は溜め込んじゃ駄目。口に出すだけでも、気持ちは楽になるんだから」
ほとんど実体験なのだろう。フェリーチェルはそんな風に笑った。自分の不運を黙って気にしていると、どんどん悪い方向へ考えてしまうことを、誰よりも良く知っているのだ。
フェリーチェルに負担を掛けさせるのはあまり歓迎できないが、コチョウにとって面倒臭すぎるコミュニケーションの部分を、頼まなくてもフォローしてくれるフェリーチェルの存在は有難いものでもあった。
「あまり喋りすぎるなよ。体力を無駄に消耗する」
コチョウはフェリーチェルに声は掛けたが、会話をぶった切りはしなかった。鬱陶しいエノハの態度を放置しておくのも、面白くはなかった。
「分かってるからあなたは少し黙ってて」
フェリーチェルに逆に言い返された。エノハが喋りづらくなるだろうという不満が感じられた。
「お願いだから空気をだいなしにしないでよ」
「スズネは、ちょっと尊敬いたします、フェリーチェル様」
と、スズネが感心したように言う。確かにここまで真正面といった風に、コチョウに対して辛辣に言い返せる度胸があるのはフェリーチェル以外にはいないかもしれない。スズネからすると、それがすごいことのように思えたようだ。
「いいのいいの。口で黙れって言ってる間は、まだこのひと本気じゃないから。本気なら口より先に実力行使よ。呆れるくらい単細胞なんだから」
勿論、コチョウと直接の殴り合いをしたら瞬殺されることも、フェリーチェルは良く理解している。ただ単に、殺すなら殺せと開き直っているだけだ。そして、コチョウの最大の弱点は、気に入った相手には意外に配慮してしまうということだと理解している訳だ。だからフェリーチェルは言うのだ。
「このひと、嘘つきだから信用しちゃ駄目だよ」
と。
振り返ることはしないが、コチョウにも、フェリーチェルは笑っているのだろうと確信していた。だが、内心は申し訳なさそうに、半ば閉じた目をして、若干の後ろめたさがあるように視線は揺れているのだろう。フェリーチェルにコチョウのことが分かっているように、コチョウにもフェリーチェルのことがある程度分かっていた。
「エノハ、だっけ? あなたが自分の口で言えないなら、私が代わりに言うけど、いい?」
フェリーチェルは不意に、話しかける相手を変えた。コチョウとフェリーチェルが話していても何の進展にもならない。コチョウも矛先が急に外れたことに、苦笑いを漏らしただけだった。
「ええと……分かるの?」
そりゃあ、分かるだろうさ。コチョウは思ったが、言葉にはしなかった。コチョウにも分かる。当然だ。コチョウにしろ、フェリーチェルにしろ、相手の心が読めるのだから、難しいことは何もない。
しかし、エノハの話は、今の時点で論点にするにはリスクが大きい。コチョウは、エノハが話すなら放っておくだけにして、聞き流すつもりでいた。
とのいうのも、そもそもの話、アシハラ諸島国という地まで、本当にコチョウ達の世界は繋がっているのかという疑問の話になるからだ。アシハラ諸島国はその名の通り島国で、アイアンリバーのある大陸とは陸続きではない。要は、アイアンリバーまで来るためには、最低一回は、船旅をする必要があるということを意味している。そして、当然、スズネはその船旅の際、海上でクラーケンに襲われたという思い出を語るのだが。
エノハには、その船旅の記憶が全くなかった。エノハが記憶しているスズネの話では、アシハラ諸島国から大陸の東端に渡った訳ではなく、かなり大きな客船で、南周りの航路で大陸を回り込んで、アイアンリバーの近くまで来たのだという。その間、二人は同じ部屋ではなく、個室で船旅をしたのだそうだ。ただ、体力のないエノハは、慣れない船旅で酷い船酔いになり、部屋に鍵をかけてずっと閉じこもっていたらしい。そんな酷い目に遭ったのなら忘れたいと思うのは確かだろうが、本当に覚えていないとなると話はまったく異なる。
コチョウも、フェリーチェルも、確信していた。海上の客船のセットでは、エノハの個室は、寝込んでいるという体でエノハの出番がなく、つまるところ、船室にエノハは“配置されていなかった”のだと。つまりそれは、エノハが自分の物語をもたない、スズネの物語の脇役に過ぎないことを連想させた。
その問題は、コチョウとフェリーチェルが推測した、この世界は劇の為の舞台に過ぎない、という推測に信憑性をもたせる材料で、だが同時に、スズネ達を混乱させるだろうリスクでもあった。勿論、その悩みをエノハ一人に閉じ込めておくことは良いことではない。だから吐露だけさせて、今は謎として皆で共有しておくのが良いのだ。この手の秘密は、いつまでも秘めたままにさせておくと、ろくな結末にならない。
階段はいつかは最下段に辿り着いてしまうものだが、幸いまだ、降りねばならない階層は半分以上残っていた。時間はある。エノハがいらない方向に弾け飛んでしまう恐れもある。フェリーチェルも、無理矢理自分の口から話し出すということはしないという態度を見せた。
「分かるよ。だから、聞いてる。あなたを傷つけたくないから、あなたの同意なく、私が勝手に喋りはしないよ」
フェリーチェルは、エノハの疑問に、静かな声で答えた。疲れているからではない。ただ、エノハを心配しているからだった。ほとんど見ず知らずの関係にも関わらず、エノハを思いやれるのは、おそらく育ちの良さ故のことなのだろう。物心ついてからずっとひとりで生きてきたコチョウにはできないことだった。
「ん。自分で話す。あのね、スズネ。聞いてほしいのだけど」
と、エノハは語りだした。コチョウ達も既に理解している話と、全く同じ内容の話だ。
「あなたは、アシハラからの船旅のことを、たまに思い出話として繰り返したけど、実はね。わたし、その、アシハラからの船旅のこと、ほとんど何も覚えてないの。どんな船だったのかは覚えてる。乗ったのも覚えてる。降りたのも覚えてる。わたしが覚えてるのは、それだけ。自分が船酔いになったことも、部屋で寝込んだことも、何一つ、思い出せないの。まるで、まるで……その間なんて、何もなかったみたいに、すっぽり、何も記憶がないの」
その告白に、案の定、スズネは、呆気にとられたような言葉にならない声を上げた。気味の悪い何かに触れたような、恐怖混じりの驚きの声だった。
「うん。話してくれて、ありがと」
対照的に、フェリーチェルが落ち着いた様子の、優しい声で答えた。元から理解しているのだから驚かないのも当然で、理由にも推測がついているのだからすんなり受け止められるのも当然だった。
エノハがその船旅で、部屋に閉じこもっていることにされた理由は、ある意味、スズネが主役の劇だとすれば想像がついた。とても単純な理由だ。
その頃のスズネには遠隔攻撃の手段がない。だが、エノハには、拙いとはいえ、式神という、遠隔で敵に対抗できる手段がある。つまるところ、スズネが主役だとすると、エノハの存在は脇役にもかかわらず、主役を食って活躍してしまう、言っては何だが、邪魔な存在だったのだ。何しろ、エノハが戦ってしまうと、スズネは見ているだけになってしまう。
だから、エノハを一時的に船室に押し込めて出てこないという状況でなければならなかったのだ。エノハが戦えない逆境の中、スズネ自身が、苦戦を強いられながら敵を倒すという展開の方が、観客に受けるからだ。そして、船室に置いてもおけなかった。エノハの性格上、劇をぶち壊しにして、気持ちの悪い体に鞭打って、出てきてしまうからだ。スズネのピンチに黙って寝ていることはない筈だ。
記憶がないのはそのせいだと、コチョウは考えた。勿論、それもまだ確証ではないが。