第六話 監獄
コチョウを閉じ込めた籠がぶら下げられている場所から見えるのは、薄暗い、冷たい土壁だけだった。
自然洞窟なのか、人の手で掘られた穴倉なのかは分からない。周囲には、囚人を閉じ込めておく為だろう鉄格子の牢が並んでいるのも見えた。だが、どの牢にも、囚人の姿はない。
「おい」
背後から声を掛けられ、コチョウは寒さに体を丸めたまま、視線だけで振り向いた。街の兵士の鎧を着た人物が、籠を覗き込んでいた。ずんぐりとした、人間の男だった。
「お前も、この中で自由にしたいだろ。だったら、渡してもらうものがある。分かるだろ」
男に言われ、コチョウは視線を外した。看守すらも腐っている。彼女は精一杯の強がりで無視を決め込んだ。凍えて死にそうだったが、人間の屑に解放を懇願するくらいであれば、凍死の方がましだと思った。それに刺すような空気が傷に染み、言葉を発するのも億劫だった。
「なんとか言え!」
看守は、そんな彼女の態度に即、腹を立て、激しく籠を揺さぶった。コチョウが籠の柵に捕まって耐える暇はなかった。揺するというよりももはやシェイクに近い激しさで籠を上下左右に振られ、コチョウは柵や床、天井に何度も打ち付けられた。まだ半死半生のままのコチョウに、この暴力に耐えるだけの体力は回復していなかった。すぐに視界は暗転し、薄れゆく意識の中で、今このまま意識を失えば、今度こそ死ねるのだろうかと、コチョウは、考えた。
だが、コチョウは死ななかった。
目覚めたときはやはり変わらずに籠の中で、だが、これまでとは違い、両腕を枷で繋がれ、玩具のように細かい鎖で籠の天井から下げられていることに気付いた。幸い両足が床に着かないように吊り下げられているということはなかったが、鎖の長さは、両腕を楽な姿勢に降ろすには短すぎた。
もっとも、すぐにそこまで自分の状況を把握できるほど、目覚めたばかりのコチョウには余裕はなかった。それに、目覚めの気分は最悪だった。
冷水を籠の上から浴びせられ、無理矢理起こされたのだ。彼女が目を開けても、その水流は止まらなかった。両腕を拘束されたコチョウに、避ける術もなく、身を切るような冷たさに、歯をくいしばって耐えることしかできなかった。そのままショック死できたら、どんなにか楽だったことだろう。しかしコチョウの望みは叶わなかった。
「随分よくおねんねしてたな。どうだ、少しは頭が冴えたか。口くらい利けるようになったんじゃないか」
水流がおさまり、看守がねちっこい声で笑う。コチョウが音を上げるまで徹底的に追い詰める気でいることは明らかだった。この世の中には屑か阿呆しかいないのか、コチョウにはそう思えてならなかった。
コチョウは何も言い返さない。看守は、大きなため息をついて離れて行った。手には木製の水差しのようなものをぶら下げている。それを途中で床におろすと、男は代わりに小さめの樽を小脇に抱えて歩いていった。何処かに井戸があるらしい。
男が見えなくなると、水をくむ音が聞こえてきた。そしてそれが止むと、男はやや重そうに樽を抱えて戻ってきた。栓は開いている。樽の水を浴びせられるのだと、コチョウは凍えきって震えることもままならないまま、諦めのような視線を床に落とした。
「ただの水だと思うか?」
そんな心境を嘲笑うように、看守が声をかける。
「お前がけっこうな報酬を手に入れたってことは、有名な噂だ。全部寄こせとは言わない。ちょっと分けてくれりゃいいのさ。そうすればお前も苦しまずに済む。この中じゃ自由だ。俺も懐が温まる。悪くない取引だろ?」
そう言われようが、コチョウには、銅貨一枚だってこんな屑に分けてやる気にはなれなかった。答える代わりに、自分で体を何とか揺すり、籠を揺らして看守に強かにぶつけてやった。
当然、看守は烈火の如く怒り出した。兜をかぶっている為、顔は良く見えないものの、おそらくファイアボールのように真っ赤になっているに違いない。あまりの怒りのせいか、看守は無言で樽を籠の上に逆さに置いた。栓がされていない注ぎ口から、中の液体が殴りつけるように流れ落ちてきた。
「ぐっ」
今回は流石に、コチョウも、思わず呻きを漏らした。冷たいのではなく、痛い。流れ落ちてきた液体は、汚水のような黄土色に染まっていた。傷を刺激するのも無理はなく、樽の中の水には、マスタードが混ざっていたのだ。それが絶え間なく降り注ぎ、コチョウはあまりの苦痛に、体が自然に激しく藻掻くのを、自分では止めることができなかった。
樽が取り除かれ、マスタード混じりの水が止まると、コチョウは激しく咳込んだ。頭から滴り落ちる液体を飲み、飛沫を吸い込むのを、防ぐことができなかったからだった。
「思い知ったか。いい加減諦めろ。囚人」
看守の声に、コチョウは溢れ出る言葉を止めることはもうしなかった。
「屑がぁ」
コチョウはたった一言、悪態をついた。息は荒く、体は今にも痙攣をはじめそうだった。
実際、彼女が看守にたてついているのは、わざとやっていた。あと一回か、二回。傷に染みて我慢できない程痛いのは確かだが、彼女はそれだけ浴びれば、事態が変わるだろうと、確信してもいた。その為にも、できるだけ看守を怒らせて、冷静さを失わせる必要があったのだ。唾を吐きかけるのはまだ早い。もっと怒らせてからだ。彼女は、その哀れな様子とは裏腹に、冷静だった。
「随分余裕じゃねえか。まだ飲み足りねえか」
看守の口調が、荒くなる。大分頭に血が上っている証拠だ。コチョウは目を閉じて、再びの水流に備えた。
また、樽が置かれる。再び頭上からマスタードが溶けた水が注がれた。目をきつく閉じ、目に入るのだけは防ぐが、傷を液体が打ち、溶けたマスタードが刺激するのを、やはり耐えることはできなかった。しばらくはまだ、コチョウが期待する変化も起きず、僅かな落胆も覚えた。
「どうだ。いい加減に強情を張るなよ」
今度は樽を退けることなく、看守が告げる。コチョウは答える代わりに、口の中に流れ込むマスタード水を吹いて、看守に浴びせた。
「てめえっ!」
荒々しく叫び、看守が籠を掌で何度も叩く。水流による痛み、呼吸の苦しさに、振動が加わりコチョウは激しい嘔吐感に襲われた。しかし歯を食いしばって耐えた瞬間、ついに、彼女が待ち望んだ状況の変化が訪れた。
籠の底が、すっぽりと抜けたのだ。看守が籠に与えた振動が決め手になった。それで外れかけた底は、水流の圧力に耐えられなかった。
下半身が垂れさがるのに任せ、その反動で、コチョウは、腕を拘束した枷を引きちぎった。金属製とはいえ薄い枷は、彼女が全力でぶら下がった衝撃と、彼女自身の腕の力に容易く壊れた。実際、コチョウには枷はいつでも壊せた。籠が開く瞬間を待っていたのだ。
再度口の中の液体を吐き捨て、コチョウは看守を睨む。ようやく、まともに看守に、彼女は話しかけた。
「覚悟は、できてるな?」
勿論、返答を待つつもりなど最初からなかった。コチョウはようやく自由になった体を捻るように飛び、あっさりと看守の首を刎ねた。看守に悲鳴を上げさせる暇も与えなかった。
「屑には勿体ない死に方だ。喜んでおけ」
体はひりひりと痛み、凍えるように寒い。しかし、三度の失神を経て、何とかヒールを唱えるくらいの魔力は戻っていた。彼女は傷を自分で癒し、周囲を見回した。完全復活とはいかなかったが、監獄を探索するくらいの活力は戻った。
彼女が囚われていたのは、両脇に五個ずつの牢が並んだ部屋のようだった。それにしても、寒い。流石に纏うものが必要だ。彼女は身を包めるものを探すことにした。
しかし、部屋には牢以外、部屋の隅にある井戸くらいしか目ぼしいものはない。その近くに水差しが転がっていて、その他にあるのは、看守の死体だけだった。
看守の死体は消えなかった。魂の一部を預けてはいなかったようだ。もっとも、強制蘇生の処置を受けるのは、冒険者か重罪人くらいしかいない。不思議には感じなかった。
蘇生できるとはいえ、死の瀬戸際の恐怖と絶望、痛みが消える訳ではない。何度も死と蘇生を経験した末、ついには狂ってしまった冒険者の話も絶えない。そして、一度その処置を受けてしまったら、解除することはできないというのが、定説だった。つまり、蘇生不可能な状態に肉体が破壊されるまで、死にたくても死にきれないということだった。それは、最早呪いだ。
兵士には、その措置を受けている者は少ない。故に、兵士達からは、冒険者は、ゾンビ紛い、と侮蔑されていた。
「屑のもんでも、ないよりましか」
コチョウは兵士が暖をとる為に巻いていたのだろう首に巻いた布を剥ぎ、体にそれを巻いた。思ったより、寒さは凌げそうだった。