第四九話 奇怪
左肩の痛みに、コチョウは目覚めた。
激痛の中に痺れも混じり、左腕がないことを認識できた。背中の翅は一枚なく、下には水面を平らに慣らしたような床。壁も同じく、水だ。夢から覚め、現実世界とも言うべき、ダークハートの深淵に戻って来たのだと実感する。
魔力は戻った。コチョウはパナケイアの呪文を唱え、失った左腕と背中の翅を再生する。ゆっくりと身を起こすと、治ったばかりの翅に鈍痛と軋みを感じた。左腕もスムーズには動かなかったが、激しく動かさなければ痛みはない。右腕一本でも戦闘にはなる。環境的に余程のハンデを負わない限り、戦えないという程の問題にはならないだろう。
周囲を見る。スズネがいる。エノハもだ。二人は疲れて眠ってしまっていた。彼女達の近くには幾らかの血痕が残っており、幾つかは彼女達自身の物だったが、幾つかは明らかにモンスターの血痕だった。二人で協力して、何体か撃退したようだ。順調に戦力として成長している。
コチョウは自分のコンディションから、フェアリーの姿で長時間飛ぶのは危険と判断して、歩くことにした。それならば人間大の方が楽だ。ふと気になって、半魔神の姿ではなく、人化を試してみることにした。
人化の能力は発現した。夢の中で吸収した名もなき女神の力はここでも有効らしい。衣服も夢の中同様、女武芸者風のものにできた。
コチョウはスズネの手からライフテイカーを抜き取り、眠っているスズネとエノハを再び念力で浮かせた。眠ったままの二人を引き連れ、コチョウは、水中の迷路を先に進んだ。
依然迷路は複雑だったが、敵襲はまるでなく、静まり返っていた。殺しすぎてしまったかもしれない。これでは、地下一三層を抜けてくる他のパーティーも現れるだろう。もっとも、地下九層を無事に抜けられるパーティー自体が少ないだろうが。時間の猶予はまだあると見ていた。
体の感覚として、コチョウはそれ程長く眠っていた訳ではないと体感していた。時間として一時間程度だろうか。それでも、時間を無駄にしたことには変わりない。彼女は先を急いだ。
幾度も曲がりくねったアップダウンや分岐を経て、何度目かの湖底に辿り着く。やがて、前方に岩盤と、その中に続くトンネルが見えてきた。どうやら地下一三層の最奥に到達したらしい。手間を掛けさせられたことにため息を漏らしていると、頭上から声が掛かった。
「え。あの」
驚いたような声は、エノハのものだ。
「起きたか」
コチョウが振り向かずに答えると、
「昔、会ったこと、ない?」
エノハは相手がコチョウだと気付いていないように尋ねた。
「寝ぼけてるな。私だぞ?」
コチョウが更に答えると、エノハはもっと驚いた声を上げた。
「え。あ? ええ?」
その声に、スズネも目を覚まし、
「エノハ、どうかしましたか?」
そんな声を上げた。二人が目覚めたのなら、念力で運ぶ必要もない。コチョウはひとまず岩盤のトンネルに入ってから、二人をおろした。
「スズネは覚えてないかな? 昔、戦になりかけた時のこと」
エノハはそう切り出したが、スズネは頭を振るだけだった。確かに、もしあれが現実で、スズネが覚えていたとしたら、地下八層で半魔神になった時点で、とっくに何か反応があった筈だ。
「私は、まだ幼かったので、その話はよく覚えていないのですよね」
「そう。この言葉は? 『上から押さえつけては、子供は愚かに走り、良くない結果になることの方が多いものだ』って」
エノハの口から出た言葉は、確かに夢の中でコチョウが口にした言葉だ。むしろ出来たら忘れたくはあるが。
「あれからスズネ、ちょっと考えてから行動するようになったよね?」
「そうでした。ですが、あの時の方の風貌は、よく思い出せません。奇妙なお召し物だったことを覚えているだけです。奇妙、な……あ」
それから、スズネもコチョウをしげしげと眺めて、目を丸くした。
「こんな、お召し物だった……気がします」
「わたし、あなたに外見上の年は追い抜かれちゃったけど、あの時は私の方がお姉ちゃんだった。だから、わたしははっきり覚えてる。あれは、コチョウでしょ?」
エノハはコチョウの背中を見つめながら、歩みを止めないコチョウについてきている。少しだけ歩みを止めたスズネが、それよりも僅かに遅れているようだった。振り返って確認はしないが、気配でコチョウにもだいたい察することができた。
「アシハラの島国のことはよく知らん。ただ、その話なら、さっきまで夢で見ていた」
スズネやエノハの出身である、遥か東の島国は、アシハラ諸島国としてその名を知られていることは、コチョウも魔神などの記憶から理解している。だが、それ以上の知識はほとんどない。結局、夢で見た、スズネ達が暮らしていた都市の名も分からず仕舞いだった。コチョウにとって、夢は夢に過ぎず、それ以上知りたいとも思わなかった。
「エノハが覚えている内容と、おそらく私の夢は一致する。意味するところは分からんが」
長く続く岩盤の中の自然洞窟を歩く。なだらかな下り坂になっていて、おそらく自分達が地下一四層へ降りようとしているのだということは、言葉に乗せなくともコチョウ達三人とも理解していた。それよりも、エノハはその古い記憶のことがやはり気になるようだった。
「そうすると、だけど。あの異国の船団を退けたのも、やっぱりコチョウ?」
「実際起こったことだとすればそうなるな。ガレー船にいた連中は私が魂を食った」
別に隠す程の事でもない。コチョウはあっさりと認めた。しかし、夢見のうちに時間と空間を本当に超えていたとするならば、あの自分が実体だったのか、その間ダークハートの深淵にあった筈のフェアリーの体がどうなっていたのか疑問は残る。アシハラ諸島国に行った自分についてはもう確かめようもないが、水中迷路の中の自分はスズネ達も見ていただろう。
「寝ている間、お前等が知る限り、私はここにいたよな?」
奇妙な質問ではある。確かめてどうなるものでもない。ただ、興味はあった。
「うん」
スズネは敵襲があった場合には敵に向かって行かなければならなかった為、ずっとエノハが見ていたという。エノハは頷いた。
「腕と翅が痛々しくて。でも、わたしには治せなくて。それも悔しかったから、せめて守る為に、ずっと見てたから」
律儀な奴だ。コチョウは小さな声を上げて笑った。
「そこまでする義理はなかったろうに」
しかし、おかげでコチョウの疑問の一つは解決したのだから文句はない。強いて言えば、そこまで入れ込むエノハの精神面が怖いというくらいだ。相当酷い扱いをした覚えがあるからこそ、コチョウにはエノハの気持ちはさっぱり理解できなかった。
「だとするとやはりあれは夢に違いない。しかしお前等は現実に起きたことだという」
不可解ではあった。しかし、正解を導きだすのには根拠となる材料が足りない上、正解を考えなければならない理由もない。
「まったく奇怪なことだ」
今はそれで済ませておくしかなかった。気味が悪いのは確かだが、それで死ぬわけでもない。
「お父上は健勝か?」
特に気になった訳でもなく、コチョウはスズネに問い掛けた。
「今でも城勤めを続けております」
スズネは頷いた。ふと、コチョウはその自然な物言いに、スズネの口調がいつも不自然に固いことに合点がいった気がした。
「何故そんな風にして本来の自分をいつも隠す?」
「はあ。そのように見えますか?」
スズネが小首を傾げる。疑問として言ってはいるものの、困ったような表情が、自覚があることを表わしていた。
「そうとしか見えん」
コチョウが苦笑を返す。彼女は横目だけで、スズネを一瞬振り返った。
「その、スズネの本来の喋り方は、自分ではおかしいものに感じてならないのです」
スズネが口に出した疑問は、コチョウには何故、としか思えないものだった。
「何故そんなことを気にする」
まったく理解ができない。自分の口調が他人と違っていたとして、それで問題が起きるのでもない筈だ。
「それは。……国元では周囲の女性の皆様が、似たような話し方をされていましたので、気にはならなかったのですが」
と、スズネは吐露するように答えた。
「大陸では、皆様凛とした話し方をされる方々ばかりで。スズネは、自分の言が幼いように思えて、仕方がなかったのです。それで、直そうと。うまくいかないものですけれど」
「だったら直さなくともよかろうに」
コチョウには、そうとしか言えなかった。
「人との差を気にしてばかりだから、お前、弱いんじゃないのか?」
前を見て。坂の先に古びた石壁が見えた。