第四五話 水中
スズネよりも先に、エノハが目覚めた。
傍にはまだ白目を剥いているスズネが転がっている。エノハは目覚めるなり、自分が宙に浮かされていないことに気付いた。そして、自分が何処にいるかということよりも、コチョウの姿に目を疑い、言葉を失った。
コチョウは硬い水面のような床の上に座り込んでいる。足元には翅が一枚と、ライフテイカーが放り出されていた。それはまるで水溜まりのように流れて広がった血に浸されるように転がっていて、それがコチョウ自身から流れたものであることは一目見ただけで明らかだった。
「起きたか」
片目だけを笑みの形にしたコチョウには、左腕がなかった。左目は開いておらず、頭から足の先まで血に塗れて傷だらけだった。
「どうして?」
コチョウがここまで傷だらけになることは、エノハには信じられなかった。魔神の力を得たというコチョウがただの迷宮のモンスターとの戦闘に苦戦するのは想像もつかないことで、とんでもない激闘があったことは容易に推測できた。それに、パナケイアの呪文を使えば、どんな怪我もたちどころに治せる筈だ。
「呪文が尽きた。流石に少し堪えたが、死にはしない」
コチョウが笑い、そこで初めて、エノハは自分が全身ずぶ濡れであることに気が付いた。ひょっとして、とエノハは周囲を見回す。壁の向こうは見るからに水中で、それは天井を見上げても同じだった。
「わたし、攫われてた?」
エノハが導き出した答えは一つだった。コチョウはまた笑い、
「まったく面倒を掛けさせる」
慣れない水中戦をやって来たのだと分かる疲れた顔で頷いた。どう見ても相手は水棲モンスターだろう。そんな相手と水中戦を繰り広げ、エノハをひとりで取り戻せたというだけでも、コチョウは異常に強いのだというべきかもしれなかった。
「回復したらすぐに進む。しばらく奴等も来ないだろう。嫌という程痛い目を見せてきた」
コチョウもボロボロだが、それ以上に駆逐されたモンスターの数は膨大なのだろう。エノハも、強制的に蓄積された経験がある程度分かる程度には手に入れた強さを受け入れ始めていた。
「ほんのちょっとなら、私も相手できるかな」
敵の強さが分からないから自信はない。だが、明らかに困ったことになったことは、エノハも自覚した。
「式札どこかで作り直さないとだめかも。わたしに耐えられても、式神が耐えられない」
拙いとはいえ、エノハ自身が殴った方が早いという事態もあり得た。エノハ自身が成長したとしても、式神の強さは作成時から変わることはない。しかも、彼女が使役する式神は、ほとんどが低級な動物霊に留まっていて、強大な敵に狙われたらひとたまりもなく掻き消されてしまう。
「そうか。しばらくは無理だな。地底湖の底より下の層に辿り着かなけりゃ、落ち着けん」
コチョウが伝える意味は、エノハにも理解できた。何となくであるが、敵は壁や床、天井を選ばずに飛び出してくるのだと想像がついた。
「ここ、地下何層?」
白目を剥いて気絶していたエノハには、それすら分からない。コチョウは無理もないと苦笑いした。
「地下一二層だ。地底湖迷路は四層分の立体構造だ。一三層到達とはよく言ったもんさ」
言ってしまえば、地下一〇層から地下一三層は降りたり登ったりの繰り返しだ。途中、湖底を行くこともあった。確かにそれを数に入れれば、一三層まで降りたというのも嘘ではないことになる。詭弁ではあるが。誰も地下一〇層から地下一二層を抜けたとは言っていない。
「周りは水中だ。迷路の構造を見通すのも難しい。闇雲に動くと戻れなくなる」
コチョウは下手に動き回らないよう、エノハに警告を発した。強がって見せてはいるが、立てない程疲労困憊しているのも事実で、下手にエノハに歩き回られて、彼女の身に何かあっても、助けに向かうことは不可能だ。
「血だけ止めよう」
エノハの式神の中には回復術に長けた狗霊もいる。コチョウの回復呪文と比べたら気休め程度でしかないが、何もしないよりはマシだろうと、彼女は考えた。そして懐を漁り、式札を出して、違和感に気付いた。
濡れていない。式札は駄目になっていなかった。霊力に守られている為、ある程度は水を弾くこともできるが、流石に水浸しになってしまえば使い物にならなくなってしまう筈だった。
「あ」
札の表面を撫でる。濡れた手から染みる筈の水は、水玉になって札の表面を流れ落ちていった。
「これ、コチョウ?」
エノハが問うも、
「忘れたな」
惚けたようにコチョウは答えを濁すだけだった。問い詰めても、コチョウは認めはしないだろう。エノハはそんな風に納得した。
「ありがとう」
それでも、礼の言葉だけは伝えておきたかった。どうせコチョウが素直には受け取らないのは分かっているのだが。
「知らん」
コチョウはまたそれだけ答えた。案の定の答え。表情も変わらない。コチョウは親切心などで行動はしなかったからだ。式神が呼べないエノハが戦力になることはない。足手まといなのは確実だが、せめて少しでも役に立つ為の手段は残しておきたかった。それだけなのだ。エノハにも、少しずつコチョウの行動が理解できるようになっていた。
エノハが狗霊を呼び、治癒の術を使わせると、コチョウの流血だけは何とか止めることができた。その頃になり、漸くスズネも起き出してきて、コチョウの姿を見て目を白黒させた。
「何があったというのですか?」
スズネの問いに、
「水中遊泳を楽しんできた。水棲モンスターの熱烈大歓迎付きが、楽しいってならだが」
コチョウは詳しくは説明せずに、言葉を濁した。その結果が、お世辞にも格好いいとは思っていないからだった。
「わたし、モンスターに連れ攫われてたみたい。追いかけて取り返してくれたんだと思う」
エノハが代わりに、自分がそう理解した限りをスズネに伝える。スズネは全身ずぶ濡れのエノハを一瞥して、納得したように頷いた。
「そんなことが」
スズネはエノハよりも長く気を失っていたが、目覚めた後の違和感はエノハよりも少ないようだった。すぐに立ち上がって、コチョウの足元に転がったライフテイカーを手に取った。
「少し慣れが必要そうですけれど、何とかなるでしょう。お借りします。今は回復に専念ください」
告げた言葉は、要するに、敵襲があった場合は自分が戦うという意思表示だった。コチョウはライフテイカーを返せとは言わず、静かに短く笑った。
「おう。たまにはせいぜい役に立て」
それだけ言うと、コチョウは気を失うように、眠った。今襲ったら反撃して来ないだろうくらいに深い眠りに落ちたように見える。コチョウが無防備な姿を晒すのは珍しいことなのだろうと、エノハにも、そして、スズネにも何となく想像がついた。
「少しは、頼ってもらえてるってことかな」
エノハがスズネに同意を求めると、
「どうでしょう。コチョウの頭の中は理解できませんし、理解できるようになりたいと思う気もしませんから、スズネには分かりかねるとしか言えません」
スズネは頭を振って同意はしなかった。それはそうだと、逆にエノハが同意した。
「そうかも。でも、敵に容赦ないだけで、そこまで悪いひとじゃないのかも」
エノハには、そんな風にも思えた。確証はない。確証が得られる日が来る気もしない。
「敵に容赦がなさすぎるのが問題なのだと思います。敬意があって然るべき敵にも、まったくそれがないのは受け入れられません」
スズネが答え、それから、静寂が生じた。
二人も警戒は解かないものの、敵襲はなかった。コチョウがエノハに告げた通り、余程念入りにモンスターを駆逐したらしい。近づく気配どころか、遠巻きに様子を窺う気配すらなかった。
地底湖の中は暗い。見通しが効かないということもあったが、闇の中に動く影も見えない。スズネとエノハはただ周囲を警戒しながら、顔を合わせることもなく黙っていた。
しばらくして、エノハが呟いた。
「おなかすいたね」
ずっと何も食べていない。コチョウは食べる必要がないのかもしれないが、スズネやエノハはそういう訳にはいかなかった。
「地下五〇層まで食糧がもつ筈もありません。あなたの食糧はだめになっているでしょう?」
スズネが聞き返した。そう言えばと気付き、エノハは自分の懐の荷包を検めた。
「中身が増えてる」
やはり式札と同じだ。濡れてはいなかった。それに何やら、重くなっている。
「そのようなこと」
スズネも包みを出した。食糧が増えていた。