第四〇話 悪食
如何にエノハが信じようと、目の前にコチョウはいない。そして、彼女達は身動き一つできず、ヌルの前に晒されている。もはやピリネ、スズネ、エノハの三人の魂の命運は尽きたも同然で、スズネやエノハの肉体もまた、ダークハートの深淵の地下八層のどこかで人知れず死にゆこうとしている。何処を見ても、絶望以外の要素は存在していなかった。
コチョウが出現させたサンクチュアリの呪文が消失した時点でコチョウの魂はヌルに吸収、同化させられたとしか思えず、魔神の肉体から再びコチョウが飛び出してくることはまずあり得ない。ゆっくりと近づくヌルの足取りが、三人の魂だけの全身に、空気の震えとして伝わってきてすらいる。
「きっと何か考えがあったんだ。わたしは信じてる。絶対、コチョウは負けてない」
エノハが唱えるように、口の中で呟く。目を閉じることはできなかった。視線をヌルから逸らすことも許されなかった。
「では、誰から頂こうか」
ヌルはついに、三人の前に辿り着いた。結局、それまでの間には、魔神に何も異変は起こらなかった。
「私からお願いします。私は吸血鬼です。あなたの好みにさぞ合うことでしょう」
すべてを諦めたように、ピリネが答えた。彼女はただ、スズネとエノハが貪り食われるところを見たくない一心だったのだ。それは、あるいは正義感で、あるいは弱さだった。
「ほう、闇の子か。よかろう、お前は我の肉体に良く馴染むことであろう」
ヌルも頷いた。闇夜に生きる穢れた魂は、誰よりもヌルに対し脆弱で、誰よりも早く吸収されるのだ。コチョウに付けられた傷から溢れ出たものが明かしていたように、ヌルもまた闇だった。
「ごめんなさい、スズネ、エノハ」
言い残すピリネに、ヌルは平然と左手を伸ばし、絶望の呻きを上げる彼女を鷲掴みにした。正面から視線を動かすことができないスズネとエノハには、ピリネが握りつぶされているのだろうおぞましい音だけが届いた。
お前等は私と違って簡単に死ぬ。エノハの脳裏に、コチョウの言葉が浮かんだ。その通りだ。ピリネはコチョウを信じることも、希望を持つこともできなかった。最期の瞬間まで、諦めるものかと、エノハは念じた。
ピリネとエノハの間にスズネがいたことも、彼女に気力を保たせる理由になっていたのかもしれない。真横で、ピリネが潰される音を直接聞かされていたら、果たして正気で居られたか。
横で、スズネが生唾を飲み込む音が聞こえた。魂だけなのに唾が出るのか。エノハは自分の口の中も苦いことに気付き、それが一層彼女を冷静にさせた。
「……ああは、なりたくありません……どうか……まだ望みはあると、どなたか救いを……」
スズネはそんな風にも囁くように嘆いていた。半ば呆けたような、誰に向かって言っているのかも理解していないような、無意識に近い呟きだった。
「誰もおらぬようだな」
その呟きに答えたのは、ヌルだった。ヌルが左手を広げると、そこにはもう何もなかった。小さな、小さすぎるヴァンピリック・ピクシーの気配は、消え失せていた。
「次はお前を頂こう」
だが、ヌルがそう決めた相手はスズネではなかった。スズネの前を通り過ぎ、エノハの方へ、ヌルの腕は伸びた。
「まだ絶望が足りぬが、何、すぐに希望の虚しさが分かる」
そんな風に告げて。その声に、もう一つ、奇妙なことに、多重に漏れたように、ヌル自身の声が被った。
「馬鹿が」
ヌルの口調ではあり得ない。しかし、声はヌル自身そのものだ。そして、ヌルの左腕はエノハの前をすり抜けて虚空を掴むと、暴走したかのように何倍にも肥大化した。床を殴りつけ、それから、元の大きさに戻る。
それから、右の翼が。続いて左の翼。順番に、暴走したような肥大化と鎮静が起こった。
「何が、ぐお……どうしたというのだ。ええい、我が体を暴走させる不届きな魂が、まだおるか。もはや貴様は滅びたのだ。大人しく糧とならぬかっ」
苦悶の声を上げ、何歩かヌルが後ずさる。その足も、左足、右足の順で何倍にも膨れて納まった。さらに右腕が暴走し、剣を放り出す。
「知るかよ」
ヌルの口調がまた変わる。その言葉はまるで――
最期に頭部が肥大化して収まると、まるで開花でもしたかのように胴体以外のすべてが一気に、そして、一度に肥大化したかと思うと、胴体も含めて、ヌルの肉体は空中の一点を目がけて吸い込まれるように、ゆっくりと収縮を始めた。
最後のあがきだったろうか。
「まさかこれは、だが、我とて、ただでは潰えぬ。貴様等に、死の呪いを……っ!」
呻きにも似た呪詛の言葉を吐き、その言葉はスズネとエノハの魂を打った。ヌルの抵抗はそこまでで、空中の一点にその巨体は瞬く間に飲み込まれて行った。
小さく。
ほんの小さく。
魔神の体は僅か三〇センチの大きさまで収縮し、そこには、暗い冬の夜の色をした翅をもったフェアリーだけが残された。
「お前の力、頂いた」
コチョウだった。ヌルの強さと、経験、数多の魂を啜った魔神であるという存在そのものすべてを奪い取ったフェアリーは、ただ、邪悪に笑った。この階層は魂の場だ。魔神もまた肉体を持たぬ魂だった。それを乗っ取ったコチョウは、なおも、フェアリーであり続けた。
スズネとエノハはまだ宙吊りに拘束されたままだった。コチョウはヌルであり、ヌルはコチョウになったのだから、まだその力の及ぼす効果は消えていなかった。
「ピリネは待てなかったか」
コチョウが指を鳴らす。スズネとエノハの二人は浮遊するように降ろされ、床に着くと自由になった。
コチョウは再びヌルが放り出した剣に触れ、フェアリー用のサイズになったそれを拾い上げた。転がったチャクラムも回収してから、コチョウはスズネとエノハを急かした。
「階層の出口の場所は分かった。行くぞ」
ヌルを取り込んだことで、魂の強さも分かる。スズネとエノハに自覚はないが、二人は衰弱している。生命の輝きは最早僅かで、死者に転じるまで幾許もない。
「お前等の肉体は間もなく死ぬ」
「ですが、あなたも、すぐ動けないですよね。私達は、どうすれば」
スズネが不安そうに聞き返すと、
「魔神を舐めるな。私はすぐに復帰する」
コチョウは自分がフェアリーというだけでなく、魔神になったことも認めた。
「ヌルは厄介な呪いを残した。お前等も深淵の最下層に付き合ってもらう。拒否権はない」
それから、スズネとエノハに向かって、そう話した。ヌルが最期に呪詛の言葉を吐いたことはコチョウも認識していて、呪いの内容も理解していた。
「陰陽道とやらでは解けない呪いだ、エノハ。お前等は魂を呪われた。最下層に行けば解ける」
ダークハートの深淵についても、ヌルは良く知っていた。その知識のすべては、今やコチョウのものだ。今までの経験を奪うのとは違い、魂そのものを乗っ取り食らったことで、経験だけでなく記憶までもを手に入れたのだった。
「逆に最下層まで行かなければ解く方法はない。ああ、聞きたいだろうさ、良く分かる」
ヌルが破壊した魂の階層を、コチョウは飛んだ。エノハとスズネも大人しくついてきている。エノハはコチョウの言葉を真剣に聞いているが、スズネは半信半疑だ。その対比は、即ち、コチョウに対する二人の認識の差そのものだった。
「解かなければ死ぬってどういうことか。どんな風に死ぬことになるのか。それは本当か」
コチョウは淡々と言葉を紡いだ。肩には抜身の魔神の剣――ライフテイカーという銘らしい――を担いでいた。
「まず最後からだが、この話は残念ながら現実だ。解かなければ魂が腐って死ぬ」
と、コチョウは相変わらずの冷淡さで笑った。魔神を飲み込んだとはいえ、変わりなく冷静に冷酷だった。
「試したければ勝手にしろ。ただし私に迷惑が掛からないように死ね」
「わたしは、一緒に行くよ」
エノハはすぐに答える。無論、聞くまでもなくコチョウにもエノハはそうだろうと分かっていた。コチョウが問題にしているのはスズネで、態度を決めかねているその優柔不断さを、コチョウは揶揄していた。
「ダークハートの最下層は、地下五〇層だ」
ヌルはそのことを知っていた。そして、エノハやスズネの魂が呪いに染め上げられるまで、悠長な時間はない。
「お前等はそれを一〇日のうちに踏破しなければならん。生きたいなら甘えてる暇はない」
「……どうやって、解くのですか?」
スズネが、まだ信じられないという声色で尋ねる。コチョウは答えた。
「アンチクロックを使う。当然副作用はある。魔神を食った私と同じだ。寿命がなくなる」
視線の先に肉体へ戻る為の渦が見えていた。